飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

魂の法則 その⑱ 怖れ

2013-06-20 08:15:00 | 魂の法則

怖れを増幅することで支配する!
人間を支配する常套手段である?!
又、
怖れは進化を停滞させる!
まあ、死んでも生きている・・・魂の不死性を検証しよう!!

 

 かみ砕いて、内省の要点を観てきた。安心を得るには、内省しかない。立命に安心に依って立つ。怖れは見えないから、増幅するのだ。

 幽霊も見えないから、怖いのである。暗闇で、柳の小枝がそっと背中を撫でたら、誰でも怖い。しかし、勇気を持って振り返り、確認すればどうって事はないのである。

 闇の勢力、宇宙人、怖いと持って調べてみれば、何のことはない。我々と同じ人間であった。少なくとも、魂を持った存在であった。と言うことが分かれば、怖くはない。

 

 

376

 


 と言うことで、調べ始めたら、ウソで固めて恐怖を創りだしている存在が、闇の勢力で、恐怖で支配しているに過ぎないことが分かる。同時に、彼らは何故支配しようとするのか、支配していないと全てを失うから、それが怖いのである。

 臆病なのは、彼らの方である。翻って、宇宙人は、我々もその一人であるが、少なくとも、何らかの援助を思考して接近する高度に発達した先輩格のエイリアン(異星人)は、我々を怖がらせないために身を隠すのである。

 それに得心すれば、何も怖いものはないのだ。怖がっていれば、エイリアンと接近遭遇も難しいだろう。それは、友を避けて、引きこもりしている鬱状態の自分自身をかいま見るようである

 そういう状態を脱するためには、小さな勇気が必要だ。しばらく、日光浴をして、一度なりぐっすり眠れば、一歩を踏み出すことが出来よう。そして、外に出て自分を晒してみれば、同じ、他も人間に違いないと感じる。

 欠点多き人間の群れ、その中の一人が自分である。そう思って生きることだ。完全であるものなど居ないし、永遠になることは出来ない。だから、永遠の進化があるのである。

 永遠の進化のために、魂は不死である。これ程、安心できる要素が他にあろうか。いつか又、出来る。何度でも出来る。これ程の安心立命はない。

 

140

 



 内省することは、自らを探求することである。真実の追究は、ウソを見破ることである。真理は、汝を安らかにする。これは至言である。

 

 かくて、ささやかなブログの出発点も又然りであった。

 

 尚、全文を読むには、日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.esで、ダウンロードできる。

 

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題名: 「魂の法則」
スペイン語原題: “LAS LEYES ESPIRITUALES”
著者: Vicent Guillem Primo ヴィセント ギリェム・プリモ
邦訳: 小坂 真理
知的財産権登録番号 V-2095-08 (Valencia, España)
Copyright © 2008 Vicent Guillem Primo
Japanese Translation Copyright © 2013 Mari Kosaka
ホームページ: http://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/
日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.es
メールアドレス:tamashiinohousoku@gmail.com

 

Photohttp://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.es_ES

 

「魂の法則」 by Vicent Guillem is licensed under aCreative Commons Reconocimiento-NoComercial-SinObraDerivada 3.0 Unported License. Creado a partir de la obra enhttp://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/.
本書に修正を加えず営利目的にしない条件で、現在利用可能な全ての媒体によって、本書全体またはその一部の複製を許可するものとする。

 

【本文転載その⑱開始】

怖れ

 怖れとは、懸念・動揺・不安の感情であり、自分や自分が愛する者への危険や脅威を感知して生まれるが、危険自体は、現実的なものである場合と、想像上のものである場合がある。

 怖 れに脅かされている者は、自分に全く自信がなく無防備であると感じ、大事な決断では、感情または肉体を傷つける悪い結果になりはしないかといつも迷う。し かも怖れは怖れを呼ぶ。つまり、怖れは頭を過度に刺激して、現実の状況を、空想上の脅威が出現する架空の状況に創り変えてしまう。しかも、それを本物だと 信じてしまい、現実の脅威だけではなく想像上の脅威によっても、自分の怖れを増大させてしまうのだ。

 怖れは心配も引き起こす。頭の中で、脅威となり得るあらゆる状況を予め想定して、その全てから無傷で逃れる方法を探そうとするからだ。

 恐怖とパニックは、強烈で鋭い怖れの感覚で、非常にトラウマとなり易い。 

 怖れは、自分が在るがままに振舞う妨げとなるので、霊的進化に最も有害な感情の一つである。進化する意志のある善意の魂でさえも、怖れを乗り越えられなければ、長期にわたって成長が滞ってしまうことがあり得る。

*でも、全ての怖れが同じだとは思わないのですが。

 もちろん違う。だが一般的に、怖れは魂を抑圧して、気持ちに従って行動できなくさせ、感情を窒息させて完全に抑制してしまうことさえある。そのため、停滞してしまうのだ。

*しかし、正確には何を怖れているのですか。

 最も一般的な怖れは、自分への他者の否定的な反応をこわがるものだ。この定義から派生する怖れとしては、愛してもらえない怖れ、理解してもらえない怖れ、拒否されたり軽蔑される怖れ、攻撃性(肉体的・精神的暴力)への怖れ、孤独になる怖れなどがある。

 と ころで、自分への他者の否定的反応が怖いと、その怖れが、在るがままの自分を表現する怖れをもっと増長させてしまう。そして、これに負けてしまうと、他者 が望む自分らしくない振舞いをしてしまう。他者とはこの場合、身近にいる人で、愛する人や家族(母親・父親・兄弟・伴侶など)のように、少なくとも愛情を 期待できる人のことだが、全般には、どんな人間関係にも当てはまる。この怖れは、家族内外を問わず、こどもが肉体的・精神的な暴力や虐待の対象となった幼 児期に由来することが多い。

 前述のカテゴリーに入らない怖れとしては、未知なものへの怖れ、死への怖れ、苦痛(肉体的または精神的)への怖れがある。

 未知への怖れは、不安を呼ぶ。人は、知らないものについて、多大な脅威や危険を想像してしまうものなのだ。実際のところ、死の恐怖というものは未知への怖れであり、死後に起こり得る未知なるものへの怖れであるか、無というもっと冷酷なものがやって来ることへの怖れである。

 まだもう一つ別の怖れがある。人間にとっては最大の怖れで、他のものはそこから派生するので、特別に言及しておく必要がある。それは、自分自身を知ることへの怖れであり、自分の欠点や美徳も含めて、自分が本当はどういう人なのかを発見する怖れである。

 我々は、我々自身の欠点を知るのが怖い。我々は、自分にエゴがあることや、自分の災いのほとんどが自我のせいだということがなかなか納得できないために、欠点を認識すれば余計に苦しむに違いないという誤った思い込みをしているのだ。気づきは、我欲の一形態に過ぎない「自己愛」を苦しませはするが、幸せになろうとして我欲からの解放を望んでいる魂を痛めることはない。

 エ ゴから解放されるためには、先ず自分自身にエゴがあることを認めて、次にそれがどう表面化するのかを認識しないといけない。認めるのを怖れてはならない。 我欲は全員に存在していて、それからの脱却の過程のどの地点にいるかが違うだけなのだ。だが、自分自身を知ることを怖れて長期にわたって我欲を覆い隠して しまうと、我々は停滞してしまい、ずっと苦しむことになるのだ。

 同様に、我々は、愛情・感受性・謙虚さ・優しさ・同情・博愛など、自分の美徳や愛の表現を発見することを恐れる。実際にそうすることで、傷つけられたり利用されたりして苦しむのが怖いのだ。そしてそこから、自分に対する他者の否定的な反応への怖れが生まれるのだ。

 しかしそれにも関わらず、この怖れに打ち勝ち、自分自身になって、愛情深い自己を目覚めさせるために戦えば、内なる幸福が大変強くなるので、外部からのどんな苦痛や攻撃にも屈しなくなる。

 死 に対する恐怖も、自分自身を知る怖れから生じている。死が終わりで、意識である自分自身が抹殺されると信じているので怖いのだ。自分を深く見つめる怖れを 失えば、心の奥底で「死は存在しない! 君は不死身だ!」と叫んでいる魂の声を聞くことができよう。その時に、存在しなくなることへの怖れ、つまり死の恐怖は、消えるだろう。

*怖れは、魂の進化に、具体的にどのように影響しますか。

 す でに言ったが、怖れによる致命的な影響は、魂が自分を在るがままに表現するのを止めてしまい、気持ちに従って行動するのを抑制してしまうことだ。人は自分 自身でいなければ、自由意志が囚われているので、霊的に成長できない。自由に決断ができず、いつも怖れにさいなまされる。恐れに支配されるのだ。そして、 失敗すると思い込むので、霊性進化に有益となり得るどんな状況にも立ち向かおうとしない。

 怖れとは、地球の権力者たちが、人類を操り、霊的に停滞した状態に保つために利用する感情だ。彼らは、人間が取り組もうとする霊的な挑戦には、必ず架空の敵という脅威を創り出し、偽りの安全と引き換えに、挑戦を止めさせるのだ。

 それは、彼ら自身も怖いからだ。人類に霊性・愛情・兄弟愛が目覚めて彼らの悪行が明るみになり、自分たちの犯罪が裁かれ有罪となり、特権や全財産が剥奪されたり、他の人間を騙し抑圧し搾取して獲得した権力を奪われるのが怖いのだ。

*例を挙げて下さいますか。

 例 えば、人類全体の友愛に賛同する全ての運動に対する恐れを作り出し、非常に有害な勢力を作りあげ、その純真さを利用して、恐怖体制を敷く。全人類のための 連帯と協力に基づいた、もっと公正な政治・経済体制を導入すれば、その後で混乱・無秩序・騒動や経済崩壊が起こるだろうと脅かして、恐れを生み出す。彼ら は、自由は奔放となり、自由思想は厄介な考えをもたらし、自由な感情は悪習・堕落・不道徳をもたらすと予告する。

 地 球の人類が、他の惑星にも愛に生きる人類がいることを発見して、それを見習ってしまうことを恐れている。そのため、地球外生命の証拠はどれも隠蔽し、他の 世界の生物と接触することの危険性を映画を通して助長する。映画では、宇宙人は忌まわしい姿(昆虫、爬虫類、ウィルス)をしていて、体内に入り込んだり、 人類を滅亡させる悪意を持っているのだと思わせようとする。

 人間 が不死であることや、人生の目的は愛を深めながら霊的に向上することなのだと気づかれて、その努力を始められるのが怖い。そのため、死後の生の存在を示す ものは一切否定し、物質主義の科学教義の中に逃げ込む。同時に、肉体の死後に起こることを追求したり、霊界と交信したりすることの恐ろしさを、映画を介し て助長する。その中では、生きている人間の魂を支配して苦しめる、幽霊・悪魔・血に飢えた吸血鬼やゾンビなどという恐怖の存在を創り出して、死後の命をど れもおぞましく描いているのである。

 それに一役買っているのが、 恐怖の産業(映画やテレビ)で、最も愚劣な脅威を映像に仕立て上げ、ほぼ全世界で見せることによって、全ての人の脳にそれが浸透し、頭の中で現実に変わる ようにするのだ。全映画の90%は、テロリスト・連続殺人犯・レイプ犯・麻薬密売人・宇宙からの侵略者・ゾンビ・様々な精神異常者といったあらゆる邪悪な 存在に姿を借りた恐怖を、何らかの方法で波及させるのが目的だ。こうして、子どもや大人の想像力を過剰に刺激し、各人独自の怖れの上に、もっともっと沢山 の恐れが外部から加わるようにする。

*怖れはどう克服したらいいでしょう。

 自覚と勇気を持つのだ。先ず、自分が怖れているということと、何を怖れているかに気づくのだ。

 深 く分析して見れば、怖れの一部には根拠がなく現実的な脅威とは結びつかないことや、少なくとも思っていたほどではないことが分かるだろう。現実の脅威に根 ざした怖れの場合には、それを生み出した状況や環境に勇気を持って立ち向かい、決断を下す際に、恐れに負けないようにすれば乗り越えられる。

 「怖れがなく、完全に自由だとしたらこの気持ちをどうしたいと思うだろう」と自問してみるのだ。それが、選択されるべき正しい決断なのだ。試してみる価値はある。絶えず努力すべきなのだ。

 怖れと対面し勇敢な決断をしていくにつれて、自分の内面が進歩するのを感じ、怖れは力を失い、代わりに自信と明晰さを得る。そしていつの日か、過去を振り返り「何であんなことが怖かったんだろう。今ならはっきり分かるぞ」と言えるようになるのだ。

*自分自身を知る怖れを乗り越えることで、特に配慮すべきことがありますか。

 自分自身を、美徳や欠点も含めて、在るがままに見るのは何も悪いことではない。自分を在るがままに受け容れるのだ。

 改 善途上であることを認め、自分に嫌なところを発見しても落胆しないこと。自分の汚れたところに光を当てて欠点を認識することは、最初は苦痛を伴い不快かも しれないが、そうする価値はある。それが霊的な成長の道における最初の一歩になり、成長するには、我欲を排除することと同様に、感情を発達させることが不 可欠であるからだ。

 自分の感情を怖れず、それが現れたり表したりするのを怖れず、そうする時に嬉しく感じるのを怖れないことだ。悪い事を恐れるだけで沢山なのだから、その上、良い事を恐れるのは止めとしよう。

*同じ質問をしたかもしれないのですが、我欲とその具現形態である「エゴ的感情」に関してのお話を全部まとめる意味で、もう一度質問をしたいのですが。

 質問したまえ。

*一般的に、自我とその形態を克服するにはどうすればいいのですか。

 最初の一歩は認識すること。アルコール中毒であった者は、中毒を克服する最初の一歩は、自分がアル中だと認めることだと知っている。これと同じように、虚栄心・自尊心・尊大に打ち勝つための最初の一歩は、我々一人ひとりに出現する我欲を識別することで、自分の我欲を認識することだ。

 そのためには、それぞれの欠点がどういうもので、どう表面化するのかを詳しく知る必要があり、今まで君と私はそれに取り組んできたのだ。

*それは難しく思えます。

 それほど難しくはない。我欲自体が難しく見せているのだ。

 他 者の誤りや欠点はあんなに簡単に見えるのに、自分自身のものを認めることはなぜこんなに大変なのだろうか?(隣人の目の中のおが屑が見えるのに、自分の目 の中の丸太に気づかない)。我々がここにいるのは、自分を受け容れてそこから改善するためなのだと理解できれば、後は簡単だ。

*我欲自体が混乱させようとするのでしたら、どのようにエゴを認識できるのですか。

 有効なのは、自分の行動をあたかも他者のもので、自分が受け手であるかのように分析してみることだ。つまり、自分と他者とを置き換えるのだ。それから分析してみる。公正で正直な振る舞いだったろうか? それとも、利己的に動いただろうか?

 あ る言動に対して、それをする時とそれをされる時とで、自分の意見が変わらなければ、客観性に近いのだ。しかし同じ言動であっても、自分がした時には容認し て、他者がした場合に告発するのであれば、それは不公平なのであって、自我に翻弄されているのだ。それゆえ、自分の欠点に気づくためには、他者を分析する 場合と同じ客観性を持つ必要がある。

*そしてどうするのですか。

 次のステップは、態度を修正することだ。自分の利己的な思考を認識しても、それが出現しなくなる訳ではない。自我があることを認識して受容するのは大切だが、その意のままに行動することを避けて、エゴに屈しないことだ。

 別の言い方をすると、自分自身に「僕の中にエゴがあるのは知っているけれど、それに左右されずに行動して、愛に基づいた行いをするようにするぞ」と言うのだ。

 態度を変化させることで、我々は少しずつ、自分自身や他者への言動や行為を修正できるようになる。利己的な態度は、自分にとっても他者にとっても有害なのだ。

*どういう意味で自分に有害なのですか。

 愛を感じられなくなるからだ。愛は、人が味わえる感情の中では最も素晴らしいもので、我々を真に幸せにしてくれるものだ。

*態度を変えることは、欠点を認めることよりもずっと難しく思えます。利己的な言動を改めるための助言をいただけますか。

 行動する際には、次のような内省が役立つだろう。「僕がそうされたら、どんな反応をするだろうか? 僕だったら、その人にどうして欲しいだろうか?」こうして、他者も我々と同じなのだと想像すれば、自分に災いを望む人は稀なので、自分の他者への否定的な態度を感知できる。

 こ う推察することで、「汝の隣人を愛せよ」という金言が生まれたのだ。もちろん、簡単ではない。改善しようという揺ぎない紀律と意志が必要とされる。しかし 辛抱強く続ければ、短期間のうちに別の心持ちになり始め、もっと内面と調和して幸せに感じられるので、前進し続ける励みとなる。

*「エゴ的感情」は、どう扱うべきでしょうか。

 それも、同じようにだ。最初に、我々皆が「エゴ的感情」を持っており、自分にもそれがあるのだと認めること。それらが、我欲が顕現したもの、または、我欲と愛との内面の葛藤が表面化したものだと認めるのだ。

 次に、自己分析と内面の意識的な改革を通して、それらを打ち負かす方法を見い出すこと。

*内面の意識的な改革とはどういうことですか。

 それは、自分自身が指導する内なる魂の改革のことで、改革の目的(愛における進歩と我欲の排除)が明確で、欠点がどういうものでどのように具現するのか、根絶する手段は何なのかがはっきりしている。

 完全を目指す道程では、他者の美徳や欠点から学ぶことができるのと同じように、自分の美徳や欠点を観察することでも学ぶことができるのだ。

 一 日のうちで自分と繋がれる静かな時間を作り、欠点についてや、その日の自分の態度や他者の態度について振り返ってみる。自分がどの程度愛に基づいて行動 し、どれほど我欲によって行動したのか、また、他の人達はどれほど愛または我欲によって行動したのかを、内省してみるのだ。こうして正直に考えてみれば、 進歩に必要となる答えを見い出すことができ、確固とした意志を持って試練に立ち向かう励みとなるのだ。

 他 者の利己的な態度に気づいても、それらを理解していれば受け容れることが容易になり、敵対的な態度を取らないでいられる。自分自身の利己的な態度に気づけ ば、流されてしまったと分かるが、自覚することができたので、いいことだ。次の機会には、エゴは減らしてもっと愛ある気持ちで行動しよう、と固く決意する のだ。

 こうして、毎日少しずつ前進して行ける。君たちが、内面の意識的な改革を忍耐強く続けるのなら、いつか過去を振り返った時に、見違えるような自分を見い出し、驚くべき肯定的な変化を遂げたと気づける日が来るのだ。

*でも僕は、いい人である条件の一つは他者を批判しないことだと思っていたのですが、いい人になるには自分の欠点だけでなく他者の欠点も見る必要があると言われるのと、矛盾しませんか。

 それは一般的に、人が他者の欠点に焦点を当てる時は、批判したり嘲笑したりするためだからだ。人は悪い意図を持っていると、とても不公平になり易く、嘲笑の対象となる者を罵倒しようと現実を曲げて大げさにして、何の配慮もしないものだ。

 もちろんこれは嘆かわしい態度で、イエス自身が何度も「隣人の目の中のおが屑が見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない」と咎めている。このため、多くの善意ある者が、欠点について話すのは悪いことだと信じている。

 し かし、ここで欠点について分析するのは、批判するためでも嘲るためでも誰かを非難するためでもなく、それがどう作用するかを理解して我々自身が改善するた めと、他者も改善できるように助けるためである。ここでは、現実を、誇張も隠蔽もせずに、在るがままに見ようとしているのだ。

 実際、この舞台では、人類の大半が同じ欠点を共有しており、それを排除することが進化の工程の一環となっている。それに、初めに認識することなく、どうやって利己的な行為を修正できるというのだろうか?

*我欲に触発されて攻撃してくる人がいたら、その人を許さないといけないのだと思っていました!

 許すためには理解が必要で、理解するにはどうして攻撃したのか、つまり、原因となる場面ごとの我欲についても掘り下げる必要がある。

例えば、他者の欠点に焦点を当てて、公衆の場でそれを批判して中傷する者は、虚栄心の顕現形態の一つである羨望という欠点の下に行動しているのだ。

 霊性進化の工程や克服すべき我欲の段階と、我欲がそれぞれの段階でどのように顕現するのかが理解できなければ、羨望・嘲笑・批判・中傷などや、もっと酷い利己的な態度を許すことはとても難しいだろう。

*それでは、自分自身が我欲のどの段階にいるのかを知ることは可能ですか。つまり、自分の能力や霊的発展レベルがどの程度なのかを知ることはできるのでしょうか。

 ああ、知ることは可能だ。自分自身を知ろうと努力して、霊的に成長しようという誠実な思いがあれば、自分がどの地点にいて、今生で取り組むべき霊的な課題が何であるかが分かるだろう。

 ここでは、美徳も欠点も含めて、自分自身を理解できるように幾つかの指標を与えようとしているのだ。手助けがなく、自分を理解することはかなり難しい。だが、我々には旅の道連れがいるのだ。

 もう話したことだが、一人ひとりにはガイド役がついていて、助けて欲しければ、自分独りでは気づくのが困難なことを見せてくれるように手を貸してくれるのだ。また、肉体を持った人の中にも、その内なる能力によって、君たちに手を差し伸べられる人がいる。

 し かしこれも全て、各人の意志による。我欲に捕らわれていて前進したがらない者は、自分の欠点も認めようとはしないし、いかなる助言も受け入れようとはしな い。そのため、霊界から与えられる助言にも、もっと高次の同胞の意見にも、耳を貸そうとしない。嘆かわしいことに、君たちの世界では、大半の人がその状況 にいるのだ。

 自分が目も耳も不自由だと嘆いているが、目隠しを取 ろうとも耳栓を除こうともせず、「目隠しも耳栓も取りなさい。君は目が見えないわけでも耳が聞こえないわけでもない」と言ってくれる人を聞こうともしな い。要は、自分の不幸を嘆いているのだが、自分が幸せになるのを阻む主要因たる我欲を放棄したいとは思わず、幸福になるために必要な支援を受けるつもりも ないのだ。【本文転載その終了→その⑲に続く】

 


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魂の法則 その⑰ 淫乱と色欲

2013-06-19 07:34:00 | 魂の法則

一般に宗教の世界ではタブーとされる色情。
その本源は、黙殺しようとしても出来ない?!
生殖の本能であると同時に、
エネルギーの交換でもあるのだ!
最も我欲に流されやすい罠でもある!!

 

 内容については、文意に沿って、心を静めて読めば分かるであろう。深くはコメントしないが、避けて通ることが出来ない問題である。

 一般に宗教人は、ことごとく避けて通るが、心の中は、おおらかな世俗人より、鬱積したものを秘めている。俗に、先生と警察官と坊主は、○○べーが多いと言われる。日頃、我慢を強いられるからである。

 勿論、断定するつもりはないが、色情と淫乱・色欲は区別されなくてはなるまい。又、色情狂ともなれば、苦しみの極致であろう。

 

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 話は変わって、前回の悲しみについて、興味あるコメントを頂戴した。コメントの引用はしないが、確かに、悲しみが攻撃欲の一形態とするには違和感を持たれる方も多いであろうと、同感する。

 同悲同苦と言う言葉がある。同胞の悲しみを共有し、苦しみを共有すると言う意味であるが、感受性の高い魂の一側面を表したものであろう。それ自体は崇高な感情である。

 それでも、悲しみ=苦しみであることに変わりがない。悲しみは、自己に対する憐憫の情から発生する。頼りにし、依存していた人を失うと、自己憐憫に陥る。

 つまり、自己に対し悲しむのであって、その対象に対してではない。

 他者に対する憐憫はそれと異にしている。他者に対するかなしみは、哀しみの方だ。

 そう考えると、大切なものを失った自己に対する怒りが、根底にあるように思えるのである。怒り=攻撃とも思えるので、外に向かえば、攻撃欲となり、内に籠もれば、悲しみとなると納得した。

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 又、人から攻撃、あるいは非難されても悲しむ。直ちに反撃できようものなら、攻撃欲の発散になろうが、それをしない場合、悲しみとして魂の内に向かうのであろう。そして、メンタルを曇らせ、霊光の放出を妨げるのである。

 

 しかし、面白いテーマである。

 

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題名: 「魂の法則」
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【本文転載その⑰開始】

淫乱と色欲

 セックスへの依存は、虚栄心の顕れでも自尊心の顕れでもある。

 だが、人がセックスを常習するようになる原因は、それぞれの場合で異なる。そのため、見栄っ張りな者に特有の淫乱と、自尊心の強い者と尊大な者の特徴である色欲という、二つの表現形態に区別してみよう。

 淫 乱とは、セックスの悦びへ過度に傾倒することだ。虚栄心の強い者のセックスへの依存は、他者から認められたいという欲求と関係している。つまり、セックス を通して人から認められたり、称賛されたりちやほやされることを期待しているのだ。彼らは、自分自身を満たす手段として性的快楽に溺れるが、他者の欲求を 配慮することがほとんどない。しばしばセックスを利用して人を独占し、意のままにしたり優位に立とうとする。

 感覚が飽和しあきあきしてしまうと、性欲をメンタルに駆り立てる手段として新しい刺激を探す。それは、パートナーを頻繁に変えることであったり、サディズムとマゾヒズムなどの堕落した性様式に訴えたり、他の人達をその意に反して乱交に巻き込んだりといったものだ。

 一方、自尊心が強い人のセックスの常習は、愛せる人がいないことを認められないとか、特定の人への愛情を抑圧したり認めようとしないなどの、愛情の空虚感や欲求に起因している。

 つ まり、自尊心の強い者が本当に必要としているのは、愛され愛すことなのだが、自分の愛情欲を認識せずに抑圧してしまうことが、安全弁のように、セックスへ と逃避させてしまうのだ。要は、愛の欠如をセックスで補っているのだ。そのために過度の性欲があるが、虚無感は、性的なものではなく感情的なものなので、 性関係では満たすことができずに満足できない。

 そこで、益々セックスを求めるようになる。そうすることで、この空虚感を癒そうとするのだが、上手く行かずに、前述のような堕落した様式に至る場合もある。

*色欲はどう克服するのですか。

 色欲に関しては、セックスによって満たそうとしている内面の虚無感は愛情の欠如によるもので、愛情だけがそれを満たすことができると認めることが、それを克服する唯一の方法だ。

*淫乱はどう克服しますか。

 それが虚栄心の反映したものだと認識して、それでは絶対に幸せになれないことに気づくのだ。

 残念だが淫乱のケースの大半は、若さや肉体美や性力などの衰えが顕れ、性的魅力を失ったり、体が精神的な性欲に応じられなくなった時に、自然に消滅するのだ。肉体の衰えにより、自分の取り巻き連中は消え、それまでの人生の主要な刺激剤も失われる。

 こ うして人は、便宜上の虚しい関係を築きながら、無意味な人生を送ってしまったという、厳しい現実に直面するのだ。肉体的な魅力だけで寄って来る人達に囲ま れていたが、魅力が失われるや、その人達は魔法のように消え失せるのだ。その人の我欲にも関わらず、本当に愛してくれた何人かが残ってくれるかもしれない が、彼らに注意を払ったことなどほとんどなかった筈だ。

 虚栄心を 満足させるために使用した外見美という武器が失われてしまうと、真相にずっと近い新たな局面と対峙しなければならない。そこでは、人を惹き付けるために は、自分の内面から何か美しいものを引き出さねばならないのだ。こうして、便宜上の関係と気持ちの通う関係との違いを評価できるようになり、後者を尊重す ることを学ぶだろう。

*でしたら、美しく魅力的な人達だけが淫乱なのですか。

 そうではないが、その多くが淫乱の深みに陥り易い。

 魅 力がないその他の見栄っ張りな人達は、そうしたいと思っても、欲しいものを手に入れる餌としては、肉体的な魅力を利用できないからだ。そういう場合は、虚 栄心が羨望を呼び起こし、自分が持たない美貌を獲得したいという叶え難い欲望にかられ、体重を落としたり、整形手術を何度も受けようとする考えに取りつか れ、自分をより魅力的に見せようとする。

 肉体的に魅力的なのに、完全な肉体を持とうとする執念に捉われてしまう人は多く、それは「ナルシシズム」または「肉体信仰」と呼ばれる虚栄心の具現形態の一つである。

*ナルシシズムまたは「肉体信仰」がどういうものなのか、もう少し広く説明いただけますか。

 それは、今言ったように、虚栄心の表現形態の一つであり、自己の肉体美が望み得る最大の価値を持つものとして傑出するものだ。

 自分の体で満足できずに「完全な肉体」を求めることは、脅迫観念へと変わる。これは精神的な病気であり、食べることを止めたり、あらゆ
る種類の痩身サプリ・強壮剤・興奮剤などを摂ったり、自分の命を危険にさらすことさえいとわず、様々な人工物をインプラントするといった、常軌を逸脱した行動を取る。

 ナルシシズムに感化されてしまった人は、絶対に自分の体で納得しない。時間とエネルギー、意志とお金の全てを、肉体の改善へと費やしてしまう。肉体自体が自分自身だと思い込んでいるのだが、実際には、物質界で動くために使用する衣服に過ぎない。

 い つかは理想的な肉体を手にして幸せになれるのだ、という偽りの幻想を抱いている。そして幻想を利用して儲けている、エステ産業や化粧業界や消費主義によっ て、その信念が益々強まっていく。だが、その幻想は我欲が仕掛けた罠に過ぎず、それでは幸福にはなれない。幸福は、愛を育むことでしか獲得できないのだ。 そのため、不満はどんどん膨張する。

 そして、体内時計が老年へと 向かって情け容赦なく進んで行くにつれて、あんなにも一生懸命になって得られた成果が、老化という自然現象に台なしにされていくように思える。人生はこう して過ぎていき、かつては美しかった肉体を完全に去る時が来て、非情にも自然の腐敗プロセスが宣告される。

 魂は霊界に戻ると、今や墓の中で朽ちた自分自身ではなかった肉体を美しくしようと無駄に時間と努力を費やしたことに気づき、魂という永続する本当の自分を改善することにはほとんど努力しなかったことに気づく。

 しかし、手遅れなことなどない。魂の命は存続するので、再び生まれ変わって、着ている肉体を自分だと思い込んで無駄にしてしまった人生でやらなかった事を、もう一度やり直せるのだ。

*こういう見方をすると、肉体美は魂の進歩にとっては障害だと言ってもいいですね。

 私の話から、美しさはそれ自体がネガティブな特性なのだと思わないで欲しい。その反対に、魂が進化していくにつれて内面の美に呼応して、魂が宿る肉体はより完全により美しくなるのだ。そして実際に、君たちよりも霊的に進化している物質界では、そうなっているのだ。

 し かし、進化の乏しい魂たちが支配する後進的な世界では、確かに諸刃の剣となる。虚栄の段階から抜け出せない進化の乏しい魂にとっては、肉体的な魅力は虚栄 心の奔放を許す武器となり、そのために使用される。気紛れ・下品・不躾・横柄に振舞っても、自分の肉体美が欲しいものを与えてくれると知っているのだ。それは、称賛してくれる者やちやほやしてくれる人達だ。目も眩む体の美しさで欲しいものが手に入るのなら、なぜ善い人になる努力をする必要があろうか?

 …こうしていつしか老年になり、自分の唯一の魅力を失い、独り取り残されて、自分のモラルの貧しさに失望する。美しく魅力的な外見を維持することばかりにかまけていて、内面を改善しようと努めたことが一度もなかったからだ。

*ナルシシズムはどう克服しますか。

 自分は肉体ではないので、肉体にそれほど煩わされるべきではないと認識するのだ。人が幸せになるためには、自分自身を、つまり自分の内面を耕さねばならないのだ。

 肉 体美という罠に陥った多くの魂がそのことを知っている。そのため、自分の体ばかりを眺めて人生をそれ以上浪費したくないので、直ぐ後の転生ではありがたみ の少ない肉体を選ぶのである。我欲を克服して人間として改善したいので、美しい肉体を持つことが誘惑の原因となるのであれば、現状では持たない方を選ぶの だ。

*それでは自尊心の強い者は「肉体信仰」に陥らない、つまり、自分の体に不満を覚えたり、魅力的で美しくなりたい、と熱烈に願いはしないのですか。

 もちろん願いはするが、見栄っ張りな者とは違う要因でそうするのだ。

 気位の高い者は、称賛の的となるよりも、愛されることを求めているのだが、もっと美しくなればもっと愛してもらえる、と間違って信じ込んでしまうのだ。

 自尊心の強い者がハンサムな場合は、周りの人達は自分を好きでそばにいるのではなく肉体やその他の魅力に惹かれているからで、飽きたりもっと素敵な人に出会えば簡単に捨てられてしまう、と知ってしまうと失望する。

*僕たちは、本当は魂であって肉体ではないのに、どうして自分の魂を意識せず、身体ばかりを自分と同一視するのでしょうか。

 それが君たちの世界が教えることだからだ。 魂は存在せず、人とはその体であると教えている。君たちの快楽主義の世の中では、評価される資質とは物的なもの(肉体美・富・権力)で、内的な資質(感受性・慈悲深さ・謙虚さ・慎み深さ)は軽視されるのだ。

 霊 界では、それと全く逆だ。全ての霊的な資質が評価される。中でも謙虚さは最も評価される資質の一つだが、外的な資質は、魂個有のものではないので、何の価 値もない。外的な資質は、劇の作品が変われば俳優の衣装替えがされるように、ある人生から他の人生で変化するので、状況的な付随物だと考えられている。人 は、今生では外見的に美しくても、次の転生では醜いかもしれないし、今回は金持ちでも、次回は貧しいかもしれないのだ。

 魂 は、肉体から離れている間は、その違いが明確に分かっていて、霊性の改善のためにこの世にやって来ると知っている。しかし肉体に宿ると、身体との一体感や 過去の忘却や、転生先の文化の影響などで、霊的に改善する目的意識の低い魂は、自分を完全に肉体と同一視してしまう。そして、魂が顕現するということに は、個人的に経験したことも他者の経験も、頭から否定するのだ。

*魂の顕現とは何を意味するのですか。

 魂 の存在とその能力を示す全てのものだ。それらは例えば、肉体を持たない存在たちとの交信、幽体離脱、自他の気持ちを直感すること、五感以外での超感知など だ。このような体験をした多くの人が、頭がおかしいと見なされる。だから、自分の霊感に自信のあるかなり進歩した魂でなければ、自分が気が狂っていて精神 療法が必要だと信じ込むに至るだろう。【本文転載その⑰終了→その⑱に続く】


魂の法則 その⑯ 貪欲-独占欲 攻撃欲

2013-06-17 17:51:16 | 魂の法則

もろもろのネガティブな思いは、
我欲を抱く魂の所産?!
我欲は思考によって生まれる・・・。
悲しみまでもが我欲の反映であるとは・・・?!
雄々しく、そして、優美な魂の輝きに為に・・・!!

 

 常に内省して行くことが肝腎だ。反省とも省察力とも言われるが、人間の持つ最も優れた特性である。時には厳しく、時には優しく、魂の内面、心の点検が必要である。

 ネガティブな思いは、広く、深く、無数に生じる。

 全てに原因があるとの認識に立ち、その一つ、一つに愛の点検をする。この方法しかあるまい。それは最大の自分に対する愛情を注ぐことになる。

 

 

362

 


 それにしても、悲しみの感情が、攻撃欲と同じ起因によるものとは、多くの人には意外であったであろう。悲嘆に暮れる人は多い。又、悲嘆に遭遇する機会は少なくない。

 勿論、同情に堪えない場合が多い。しかし、それとても悲しみを乗り越える力は、魂には内在すると言うことである。常に輝ける魂であることの可能性だ。

 特に、魂の不死は絶対だ。そして、個性も永遠に継続される。あなたはあなたであり、私は私である。その中で、共感と共に進化する・・・、 何とも安心立命な世界であるか?!

 

 「魂の法則」について、目を拓くと言うことは、何に増しても人生の歓びではないだろうか? 諸君!

 

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題名: 「魂の法則」
スペイン語原題: “LAS LEYES ESPIRITUALES”
著者: Vicent Guillem Primo ヴィセント ギリェム・プリモ
邦訳: 小坂 真理
知的財産権登録番号 V-2095-08 (Valencia, España)
Copyright © 2008 Vicent Guillem Primo
Japanese Translation Copyright © 2013 Mari Kosaka
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本書に修正を加えず営利目的にしない条件で、現在利用可能な全ての媒体によって、本書全体またはその一部の複製を許可するものとする。

 

【本文転載その⑯開始】

貪欲-独占欲

 貪欲とは、所有したいという過度の欲求が回を追うごとに募るもので(欲するものは物財でも他のいかなる性質のものでも良い)、それによって他者が損害を被っても構わない。

 貪欲な者は、自分の持ち物では決して満足できずに、いつも持っていないものや他者のものを欲しがり、それを手に入れるまで留まるところを知らない。貪欲な者は、自分のものを評価しないので浪費癖のある魂であり、いつも他者の持ち物を切望しているので羨み深い魂である。

 魂が虚栄の初期段階から発展段階へと移行すると、物的な貪欲さは霊的な貪欲さ、つまり独占欲へと変化していく。

 人が意識してかしないでか、自己満足のために他者の注意を引こうと、相手の自由意志を侵害したり強要してしまうことには頓着せずに、できるだけ長く自分に 構ってくれるように人の感情を操る場合は、独占欲だ。独占欲に支配されている人は、自分の事しか考えないことが多いので、他者を尊重することが非常に難し い。

 独占欲の強い者は、どんな手段を講じてでも注意を引こうとし、そのため、頻繁に犠牲者の振りをする。

 独占欲は執着心との関係が深く、この二つの我欲の形態は、同時に同じ程度の強さで顕れることが多い。つまり執着心に苦しむ者は、独占欲も強い場合が多いのだ。

 嫉妬は多くの場合、執着心と独占欲の混ざったものだ。貪欲-独占的な人には羨望、つまり自分にはない欲しいものを所有する人達への反感、が目覚めがちである。欲望の対象となるのは、貪欲であれば物的所有物であり、独占欲では霊的所有物となる。

*それなら、愛して欲しいので構ってもらいたいと頼むのは、独占的になるリスクがあるので、正しくはないのですか。

 その逆だよ。我々は皆愛される必要があるのだ。自分の必要性を認めて頼むのは、自己の感情表現の一部を成すので、良いことだ。

*それなら、愛して欲しいと頼むのと、独占的になることとの違いは何ですか。

 強制せず、騙さず、操らず、誠実に頼む場合は、独占的ではない。
独占的なのは、強制し騙し操った時、要するに、他者の自由意志を侵害した場合だ。しかも多くの場合が、愛を求めているのではなく、ちやほやして欲しいだけなのだ。

 愛とは自由に与えられなければならず、強制すればそれは愛ではなく、義務となってしまう。そのため、家族や近親者なので自分を愛したり面倒をみる義務がある筈だという思い込みだけで、特定の人達に愛してくれと要求するのは間違っている。

*霊的に進化するにつれて、独占欲はどう変化しますか。

 執着と似通った方法でだ。

 すでに話したことだが、独占欲は貪欲から派生して虚栄心の発展段階で始まり、尊大の段階の最後まで完全には克服されることがない。

 魂は、愛せる能力を獲得するにつれて、自分自身の感情で満たされ始めて情緒的に他者に依存しなくなるので、感情面で寛大になると、独占欲は徐々に力を失ってゆく。自尊と尊大の段階では、独占欲は次第に減少してゆく。

攻撃欲(憎悪・恨み・憤り・怒り・無力感・罪悪感)

 攻撃欲の分野には、憎悪・恨み・憤り・怒り・無力感・罪悪感など、自他を問わず痛めつけ傷つけたいという衝動と関連した全ての「エゴ的感情」が含まれる。

 攻撃欲は、一般的に外部からの刺激で目覚めるが、自分が攻撃された場合や、自分の欲求や願望の障害になると思える状況が要因となる。攻撃欲とは、劣悪化した生存本能である。

 攻撃欲は我欲のどの段階にも見られるが、それが誘発される原因は、各レベル毎で異なる。

 虚栄心の強い者では、注意を引いたり注目の的になろうとしたのに失敗した場合や、欲求を満たせなかったり、人の意志を曲げられなかった場合などに表面化する。そして、自分の要求を他者に押しつけようと、攻撃的になる。

 自 尊心の強い者や尊大な者に攻撃欲が顕れるのはより限定的だが、もっと過激なケースとなり得る。確信していることが正しいと認めてもらえなかったり、望み通 りに物事が運ばず途方に暮れた時や、やりたい事をしたり表現するのを抑制されてしまったり、感情が傷つけられたと感じた時などに、攻撃性が起動する。憤怒 すると虚栄心の強い者よりも暴力的になり得るのは、ストレスを蓄め込む傾向があって、自己コントロールを失うと突然爆発するからだ。

 虚栄心の強い者と自尊心の強い者の攻撃性の違いは、ライオンとサイとに例えられる。ライオンは肉食で、他の動物を餌とし本質的に攻撃的なので、攻撃欲も生来のものと言えよう。この攻撃欲が、虚栄心の強い者の攻撃性なのだ。

 だが草食動物であるサイは、食べるために狩をする必要がないので、乱暴に振舞う習性はない。脅かされたり怪我した場合など、ごく特別な場合にのみ攻撃的になる。これが、自尊心の強い者の攻撃性に似ているのだ。

 尊大な者の攻撃欲は、自尊心の強い者の攻撃欲に似ていて、単にその度合いが違うだけである。尊大な者は滅多に感情を損うことがないので、攻撃性が触発されることも稀だが、爆発した場合には、他の者たちよりもずっと破壊的になり得る。

 攻撃欲には、憎悪から恨み・憤りや無力感に至るまで色々な異形態が見られ、それぞれに独自の特徴がある。

 憎悪は、他者に向けられる非常に強烈で持続的な攻撃欲である。これは、最も愛からかけ離れ、最も有害な、一番原始的で致命的な「エゴ的感情」である。宇宙の生命存在への分離と拒絶感情の最たるものだ。

 憎悪は、愛の学習が遅れている最も未熟な存在に特有のものだ。憎む人を「嫌悪する者」と呼ぶとするが、この人はいつも、自分の憎しみは正当なものでコントロール可能だと信じているのだが、しまいにはより多くの人を憎むようになってしまい、周囲の人に隔絶感をまき散らす。

 憎悪に身を委ねてしまう者は、暴力的で不公平で狂信的で冷酷で、全てのものを破壊してしまう。普通の人達からは避けられてしまうので、孤独を感じないように似た者を探そうとする。

 「嫌悪する者」は、異種と見なした者への憎悪を正当化する、過激で暴力的な活動に参加しがちである。しかし魂は益々孤独になり、この世
の他の存在からも離れてしまうので、憎しみ自体が彼らを破壊してしまう。とどのつまり、それが彼らが望んだことだったのだ。

 怒りや腹立ちは、持続しにくい攻撃性で、その程度が大きい(怒り)か小さい(腹立ち)かの違いである。

 憤りと無力感は、強く長く持続する攻撃性が内側に向けられた状態で、他者や自分が逆境に陥った際に起動する。無力感の場合は、物事の流れを変えるのは不可能だと感じる欲求不満が、状況を悪化させる。

 怒 りっぽいイライラした人は、些細な事が原因で攻撃的になり易く、不機嫌であることが多く、自分自身と人生とに不満である。自分の不快感の原因は外のもので 内にはない、と自己を納得させるために外部のせいにして、不快感の本当の原因を探ろうとせず、進歩を拒むので苦しむ。恨みはこうして生まれる。

 罪悪感というカテゴリーに入るのは、攻撃欲や無力感が自分自身に向けられた場合である。

 自分への攻撃性が蓄積されると、アストラル体レベルの均衡を崩し、その状態が長く続くと肉体的な病気を引き起こす。

 たとえば、抑圧された憎しみは、肝臓や胆嚢の病を引き起こす。

 無力感は、消化器系の調子を狂わす。

 抑圧された憤りや恨みが蓄積すると、歯牙の問題(歯痛や虫歯)が起こる。

 攻撃性が自分に向けられた罪悪感は、自己免疫疾患を生じさせる。

*罪の意識、つまり罪悪感はどこで生まれるのですか。

 感情と思考に葛藤がある場合に、感じることと考えること、つまり魂と頭脳との戦いの中で生じる「エゴ的感情」が原因だ。

 思考の中には、それまでに授けられた全教育が影響していて、社会規範や規制、利己的な考えなども含まれる。

 人 は、気持ちに反して考えに従って行動すると、罪の意識を感じることがある。それは多くの場合、愛に反した我欲での行動を意味する。例えば、思考が発端とな る利己的な行動をとった時に、魂が良心によって霊的な視点からは誤りだと感知すると、罪悪感が生まれる。魂は頭を咎め、感情が思考に異を唱えるのだ。この 場合は、自分の間違いを認識することができ、成長の指標ともなるので、このような罪の意識は肯定的なものだ。しかし、その逆も起こり得る。

 人 は、気持ちを感じてしまうことに罪悪感を覚え、思考の代わりに感情に従うことを悪いと思う場合がある。この場合は、頭脳が魂を咎めるのであり、思考が感情 を検証する。とても強い偏見や制約があって、特定の感情が悪く誤りだと思い込んだ場合だ。そして残念なことにそれが原因で、人は善悪を混同し、人生を混乱 させる感情は悪いものに違いない、との結論に行き着くのだ。こういう罪悪感は、霊的進歩と感情の発達を阻むので、大変否定的なものだ。

*二つ目のケースがよく分かるように例を挙げていただけますか。

 よかろう。人を好きになったとしよう。最初の衝動は、そういう気持ちが芽生えた人に、意思表示をしようと近づくことだ。これが、気持ちのままに行動するということだ。

 だが今度は、頭がその思考回路に沿って、感情を分析することとなる。これは、それまでに授けられた偏見と禁制に満ちた教育の全てに条件づけられてしまっており、そこから感情の表現を咎める一連の思考が生まれる。

 例 えば、その関係が発展するために悪影響を与えるような不都合(年齢差・人種・社会層・宗教・信仰・好みや趣味の違いなど)を示唆したり、拒否される怖れを 増長させる(彼女は同じ気持ちではない、NOと返答するだろう、滑稽な真似はやめろ、何て思われてしまうだろう、など)。

 思考が感情を負かし、心で感じたことをするのを止めてしまうと、気持ちに従わなかったことで罪悪感を覚える。

 感情に委ねたとしても、自分の気持ちに適合するように思考を完全に修正できなければ疑心暗鬼になり、再び思考に攻撃され、考えたことではなく感じたことをしたことに罪悪感を抱かせられる。

*罪悪感はどのように克服できるのですか。

 利 己的な行為を認識することで罪の意識が生まれる場合には、落ち込んだりがっかりせずに、新たにそうならないように積極的に行動することだ。例えば、傷つけ てしまった人に謝ることから始めるなど、自分がしてしまった悪いことを可能な限り修復しようとするのだ。そうすれば、罪悪感は消えるだろう。

 気持ちに反して、考えに従って行動したために罪悪感が生まれる場合には、初めに、自分が感情に則った行動をしていないことを認識すること。次に感情に従う勇気を持ち、感じるままに生きることで、そうすることを阻む抑圧的な思考回路を壊すことができる。

 このプロセスを開始し、気持ちに素直に生きて行動し始めてはいるものの、まだ頭の制約が強く、その努力を放棄するように悩ませられている人には、非常な忍耐力が必要だ。自分の気持ちに大いに自信を持って、それに従って行動する固い意志が必要となる。

 苦しむとしたら、それは感じることのせいではなく、考えることのためだと知るべきだ。それゆえ、感情ではなく、思考を修正すべきなのだ。

 心で感じることが分からない人達によって責められたなら、過去に自分もそうであったように、その人達がまだ利己的で偏見に満ちた考えに捉われているのだと理解すべきだ。彼らには、忍耐と理解を持って接する必要があるが、影響されてしまってはいけない。

*恨みとは何ですか。

 恨みとは時間が経って薄れたものの、憎悪が長期にわたり継続するものだ。通常は、反対されたり被害にあったせいで、自分の不運を招いた責任者だと判断した特定の人に向けられる。

 攻撃欲が目覚めるきっかけとなる事件は、かなり以前に遡る場合もある。しかし恨み深い人はこの件をずっと記憶し、攻撃的な衝動を育み、復讐すれば不快感を軽減できるだろうと思って、その機会を待つのだ。

*恨みはどこで生まれるのですか。


 気持ちに従って生きてこなかったという不満や、やりたかった事を実行しなかった欲求不満、また自分が遭遇した逆境を受容しなかったためや、自分自身の欠点(怖れ、安楽さ、意志力の欠如、無理解、怠惰など)に負けてしまった後悔などから生まれる。

 恨みは一般的に、気持ち通りにできなかったことに加担したり協力した人達や、やりたかった事に反対した人達、自分の困難な状況に責任があると思う人達に、誤って向けられる。

*どうやってそれに打ち勝つのですか。

 外部に責任者を探そうとする代わりに、内面の不快感がどこから生じるかに気づいて、別の問題を誘発する可能性があるとしても、人生の中の好きになれないところを修正する勇気を持つこと。

 運命のいたずらに思えるネガティブな状況は、時には、欠点を乗り越えて無条件に愛す能力を高めるために、自分自身が選んだ試練の場合があることを理解するように努めるのだ。

*前にした質問をもう一度繰り返すことになりますが、憎悪・憤り・怒り・恨みなどの感情を表に出せば、他者を傷つけることになりかねませんが、溜め込んでしまえば自分自身を痛めつけることになります。ですから、こういう感情はどうしたらいいのですか。

 根本から断ち切ってしまうのだ。それらの感情が内部に目覚めないように努めるのだ。攻撃欲が外部ではなく内部に生まれることを認識して、それが目覚めたのだとしたら自分の中に存在している我欲が顕れたのだと気づくのだ。

 自分の取り柄が表価されないために我欲が目覚めるならば、まだ虚栄心を克服できていないのだ。感謝されなかったり中傷されたために苦しむのであれば、自尊心や尊大を超える必要があるのだ。

 攻撃欲が外部ではなく内面に起因するのは、どんなに酷い無礼や非難をされても、忍耐も笑顔も絶やさずに耐えられる人達がいる一方で、どんな些細な事にも制御不能なほど激怒してしまう人達がいるのを見れば明らかだ。

 最初の人達は、自己の攻撃性の根絶において、霊的に進んだ人達だ。二番目の人達は、そう努めようとし始めてもいない。

 ほとんど影響を及ぼすことのできない外側の世界を変えられないからといって、欲求不満になってはならない。自分が全権限を有する、内面の世界を変えるように努力するのだ。そうした時に、外でのことは、もう怒りの原因とはならなくなるのだ。

*攻撃欲はどう乗り越えるのですか。

 先ず自分にそれがあることを認め、次に理解によって克服しようとするのだ。

*何を理解しないといけないのですか。

 自分自身を理解し、他者を理解し、直面する状況を理解する。

 自分が間違っていると認めるのが嫌で、自分自身の利己的な態度を認めたくないがために、怒ってしまう場合があると理解すること。

 また、自分の意見を抑圧するために攻撃的になるのであれば、在るがままに自分を表現するように努めるのだ。

 誰 かに傷つけられてそうなるのであれば、それは相手の魂の成長が足りず、愛の認識に関してほとんど進化できていないためなのだと理解すべきだ。かつては自分 も同じように霊的に無知な状態で、今されたことと同じことを人にしていたのかもしれないと気づきなさい。自分の利己的な行為が理解されることを期待するの なら、他者の利己的な行為に関しても寛容な態度をとらなくてはならないと理解すべきなのだ。

 我々 が直面する逆境の多くは、我々に嫌がらせをするために出現したのではなく、愛の学習と我欲の克服を促進させるためのもので、その多くは生まれる前に自分自 身で選んだものなのだと理解するのだ。そして大半を占めるその他のものは、自分の頑固さ・不寛容・羨望や、他者の欲求や意見を尊重・理解しなかったため に、我々自身が招いてしまったものなのだ。

*攻撃欲が触発されてしまった場合に、誰にも迷惑をかけずに、不快感から解放されるにはどうしたらいいでしょうか。

 他者を傷つけずに不快感を解放する、いい発散方法がある。

 それは、どう感じているかを言い表わすということで、自分にわき起こった感情を認めて、そうなった理由を述べるのだ。聞き手は、傷つけないように当事者以外の穏やかな人が好ましく、攻撃欲には簡単に屈しない信頼できる人でなければならない。

 不快感を表現するだけで、攻撃欲から生じた不快が和らいでかなり楽になる気がするし、もっと冷静に理性的になれる。

 そ の後で更に落ち着けば、けんかをした人との話し合いを試みて、解決策を模索することが可能だ。しかし、それには時と方法を選ばねばならず、怒りや激情で爆 発しそうな時は、絶対に避けねばならない。そうなってしまえば、自分が受けたのと同等かそれ以上の苦痛を相手に与えて、大いに傷つけてしまうかもしれない からだ。

 悲しみ・絶望・苦々しさ・自暴自棄・諦め

 悲しみは、士気の喪失と低下という情緒的な状態だ。

 悲しみは、攻撃性と同じ原因や状況で生じがちだが、感受性がもっと強い人の場合にそうなるのであり、我欲に由来していることが攻撃欲ほど明白ではないので、捉えるのが難しい。

 実際、無力感や罪悪感や、場合によっては憤りと自棄も、本当は攻撃性と悲しみの入り混じったものだ。

 悲しみは、自分が求める成果が見られなかったり、結果が期待したものと違ったりして、憔悴したりがっかりした際に表れる。

 悲しみには色々な形態があり、それぞれに特色がある。

 苦々しさは恒常的な悲しみで、長期に及ぶ。日常生活の妨げとはならないが、とても深く内面に根を張っているので超えるのが難しく、悲しみによってその人が少しずつ死んでいくような印象を与える。努力する動機づけや生き甲斐がないというのが特徴である、絶望と諦めという悲 
しみの形態にも深く関連しているが、後者は通常、認めたくないような状況から生まれる。

 自暴自棄は、鋭く強烈な悲しみの極端なもので、日常的ないかなる仕事も行えなくなり、精神不安定になって自分の命や他者の命を奪うなど、致命的な行為に及ぶことがある。

*悲しみが我欲の感情だと思われているのは、予想外でした。

 ところがそうなのだ。人が時々悲しくなるのはとても普通のことだ。だが、諦めて投げ出してしまって、悲しみがその人の日常的な状態になってしまうと、それは停滞した状態なのだ。悲しみは、霊的成長の努力を怠る口実となるのだ。

*悲しい時に、誰かに何か悪いことをするとでも言うのでしょうか。

 悲 しみは自分に有害であるし、間接的には他者をも害する。悲しみのせいで、自分の務めが果たせなくなる場合があるからだ。悲しみや落胆に沈んでいる人と一緒 に暮らすのは、とても疲弊することなので、大変強い意志力を持たない限り、うつ状態の人と暮らす者たちにも容易にその状態がうつってしまう。

 悲 しみが蓄積されると、攻撃欲と同じように、多数の病気を引き起こす。悲しみで病気になり死んでしまい、今生で取り組んでいた試練や使命を途中で止めてしま う人は大勢いる。そうした人達は、同時に、他の魂たちを助けるという約束も投げ出しているのだ。例えば、悲しみに蝕まれて死んでしまう父親や母親は、子ど も達を見捨てているのだ。

*悲しみはどう超えたらいいでしょう。

 攻撃性と悲しみを生み出す要因は大変似通っているので、攻撃性を乗り越えるために処方したレシピを、ほぼその一点一点、悲しみを克服することにも適用できる。

 それゆえ、悲しみを乗り越えるための基本となるのは、理解である。自分自身への理解、他者への理解、我々の人生の状況への理解。

 我々が直面する逆境の多くは、愛の学習と我欲の克服という工程の一部を成しており、その多くは生まれる前に我々自身で選んだものだと理解するのだ。そしてその他のものは、他者への不寛容・頑固さ・無理解などで、我々自身が招いたものなのだ。

 時には、自分が間違っているのを認めたくなかったり、自分自身の利己的な態度を認めたくないために、悲しくなる場合があるのだと理解すること。

 誰かに傷つけられて悲しくなるのであれば、それは、その魂の成長が足りないためで、愛の知識をまだほとんど持たないためなのだと理解するのだ。

 自分らしさを抑圧したり、意志を黙殺して悲しくなるのであれば、自分を在るがままに表現するよう努めて、悲しみを超えるのだ。

*あなたのレシピは、諦めを勧めているようですが。

 とんでもない。理解と諦めは全く異なるものだ。諦める者は、匙を投げ、理解を放棄し、自分の意志を否定する人だ。もうどうでもいい、と生きる希望を失い、落ち込むのだ。

 もう言ったことだが、諦めも、悲しみに関連する我欲の一形態なのだ。それは苦しみを避けるために頑張らない、というやり方なのだ。しかし、この方法では、別の理由でだが、もっと苦しむことになる。

 理解は、生きる希望と悦びを失わずに、努力し続けて前進する鍵となるのだ。以前は分からなかったことにも、意味を見い出すことを可能とするからだ。

*諦めと理解の違いがはっきりする例を挙げていただけますか。

 例を挙げれば、死に対する姿勢だ。

 君たちの世界の大半の人は、死に対して諦めの態度をとるが、それは死の意味を理解しようとしないからだ。君たちは生きている間は、死と向き合うことを避け、懸念を直視しようとしない。

 この話題について真面目に話をしたがる人に出くわすと、冗舌家か頭のおかしい人に思えるのだ。本当は君たちは怖いので、この話題を避けて、日々の雑事に没頭しているのだ。理解しようとはせず、ただ避けているのだ。

 そ うするうちに、愛する者が突然死んで、驚愕するのだ。この状況は、悲しみ・苦々しさ・憤怒・無力感をもたらす。そして、このどうしようもない事実を変える ことが不可能なので、最後に諦めてしまうのだ。諦める者は、仕方がないので受容せざるを得ないものの、理解できていないので、不機嫌に暮らし無益に苦しむ のだ。

 死は単なる移行期で、実際に死ぬのは体だけで愛する者は生 き続け、遅かれ早かれまた一緒になれる、と理解できる者は、もう生きる希望を失うことがない。そればかりか、再会の時が来たら大いに楽しめるように、物質 界で何もやり残さないようにと、もっと頑張って生きようとする。

 進化した世界では、人が死んでもそれが肉体からの離脱のプロセスだと皆が理解しているので、誰も、悲しんだり、絶望的になったり、苦々
しく思ったりしない。その反対に、仲間が魂の真の故郷である霊界に戻るので、喜んであげるのだ。

【本文転載その⑯終了→その⑰に続く】




 


魂の法則・・・その⑮ 強欲-執着

2013-06-16 11:22:08 | 魂の法則

少し、細かくかみ砕いていこう!
愛の行使を妨げるもの、
あるいは、
無明、煩悩、に立ち向かう必要がある・・・
立ち向かえば、煩悩即菩提もウソではなくなる!!

 

 無明とは、明かりが無いと書いてある。無い訳ではないだろう。単に曇っているだけだ。曇らすのは、煩悩である。煩悩とは、難しい用語であるが、要するに悩みである。

 貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)という、難しい言葉もある。要するに執着である。執着は、肉体人生から生ずる。必然の階梯でもある。それを見つめることは、本然の魂の法則を見つめることにも繋がる。これを煩悩即菩提という。

 愛にも多段階の顕現があるように、執着にも階梯がある。一番多いのは、慈悲魔であろう。慈悲魔というのは、愛の押しつけだ。執着を伴った愛であるから、見分けが難しい。執着は執着である。

 

 

381

 


 とは言え、やがては本然の魂の輝きを放つための階梯であると考える。と言うのも、慈悲魔であれ、執着を伴った愛は、実は苦しみなのである。苦しみから脱却しようとして、やがては真実の愛に目覚めるのである。これが、煩悩(苦しみ)即菩提(目覚め)というのであろう。

 魂の法則の中でも、重要なことは、知ること、そして、目覚める事である。目覚めることには、実態を見極めることが何よりも重要だ。特に魂に住する心の動きを点検し、無明を拓くことが肝腎だ。

 それ以外にない。それが自由意志による魂の願いであろう。自力本願こそ、魂の目覚めの階梯である。

 しかし、何と分かり易い指南書が与えられた事であろう。それが、この「魂の法則」その本である。だから、かみ砕いて転載していこうと思う・・・。

 

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【本文転載その⑮開始】

強欲-執着

 強欲とは物財の蓄積を過度に熱望することだ。

 欲張りな人は、物的には与えられるものを沢山持っているにも関わらず、自分の物だと思っている物を他者と分かち合うことを拒否する。魂の感情認識が進んでも共有ができない場合には、物的な強欲は、霊的な強欲へと変化する。

 霊的な強欲とは執着であり、不当に自分の所有物だと考えている人達、例えば子どもやパートナーなどの愛情を分かち合うのが難しい。
執着に苦しむ者は、少数の人しか愛さず、その人達にも同じことを強要する。

 多くの人が、誤って「愛している」のだと思い込み、相手を強く愛するがために苦しいと言うが、実際には愛着による執着から苦しんでいるのだ。

 魂が進歩して初めて、愛と執着との区別がつくようなる。

*愛と執着との違いを説明いただけますか。

 人が愛す場合は、愛する人と自分の自由意志を尊重しようと努める。自分がその人と一緒にいられなくても、愛する人が自由で幸せでいられるように尽くすのだ。

 執着を患う場合は、愛す人のためになることよりも、自我を満たすことを考える。そのため、愛している筈の人の自由意志を侵害する傾向にあり、その意に反して自分の近くに置こうとしたり、自分のやりたい事を強要したりして、相手と「自分の競争相手」と見なす他の人との関係を最大限妨害しようとする。

 本当に愛す者は、愛する人を所有しようとはせず、愛する人が他の人達を愛しても不快に思わない。執着は底をつくかもしれないが、本当の愛・真実の愛は決してなくならない。より沢山の人を愛せるようになっていったとしても、その他への愛が減る訳ではない。しかし執着は、そうだと思い込ませるのだ。他の人達に与えられる愛は、自分から奪われると思わせるのだ。

 執着がある者は、感情を要求し強制し強要するのだ。自分がすることの見返りをいつも求める。要求し受け取ることばかりを考え、与える時には利益と引き換えで、最初に自分が頼んだことをしてくれるのが条件だ。執着すると、自分の自由意志すら侵害し、したくないことをするように自己を強要する。

 真実の愛を感じる者は、無条件に与え、感情を束縛しない。強制も強要もせず、愛する人に何の見返りも求めず何の要求もしない。

*違いが明らかになる例があればいいのですが。

 いいだろう。鳥を愛していると公言する二人が出会ったとしよう。

 一人は、冷房の効いた部屋の美しい金のかごの中で鳥を飼っている。高品質のえさをやり、瓶詰めの湧き水を与え、定期的に獣医に連れて行く。もう一人は、単に食べ物を公園に持って行くだけで、鳥が止まればなでてやり、怪我をして飛べない時は世話してやる。

 最初の人は、「僕はなんて鳥たちを愛しているんだろう。野生であれば得られない快適さを享受できるように、鳥たちには多額を費やしている! でも直ぐに死んでしまうんだ! いつも病気で、薬や獣医に金を使っても早死にしてしまう。それが酷く辛い! どうしたらいいだろう?」と言う。

 二人目は、「僕が世話する鳥たちは、僕のものではない。かごに閉じ込めてはいないし、自然の中で生きている。鳥が僕と一緒にいてくれるのは、かごの格子から出れないためではなく、そうしたいからなので、僕は幸せだ。自由に飛び回り、望むがままに生きているのを見られるので、嬉しい。友よ、君の鳥は自由でないから、悲しみで死んでしまうのだ。好きに羽ばたけるようにかごを開ければ、自由になれて幸せになるので、生き続けるよ」と言う。

 最初の者は「かごを開ければ逃げ出して、二度と会えなくなるじゃないか!」と答える。

 二人目は、「逃げたとしたら、それは意に反して捕らえられていたからで、隷属した生活から離れたいのだよ。僕の鳥たちは、好きな時に行ったり来たりできると知ってるから、逃げたりしないよ。その反対に、僕が公園に着くのを見ると、直ぐに寄って来て取り囲んでくれて、僕の上に止まるよ」と応じる。

 一人目は「それが僕の望みだ。鳥たちに好かれたいんだ」と言う。

 二人目は、「強要してでは、絶対に君の望みは叶えられないだろう。君は、彼らが最も切望することの埋め合わせのために、快適さばかりを与えたのだ。鳥は自由に飛びたいのだ。鳥を本当に愛しているのなら、自由に生かしてあげなさい」と返答する。

*愛しているのは誰で、執着しているのは誰ですか。

 鳥をかごに入れておきたい人に執着があり、鳥を自由にさせておきたい人が愛しているのだ。

*執着によって他の人の自由意志をどのように侵害してしまうのか、例を示していただけますか。

 子どもが大きくなって、恋人ができたからとか、家から離れたところで勉強や仕事をしたいからなどの様々な理由で独立したがる際に、自分のそばに引き留めようとする母親には執着心がある。執着のある母親は、子どもといたいという欲求を押し通そうとし、独立して自分の人生を歩みたいという希望を尊重しようとしない。そして、それが叶わないと感情的に傷つけられた気がして、「子どもは私を愛していない」などの発言に至り、子どもをそばに置こうとする余り、彼らに罪悪感を抱かせるように仕向ける。

 「この職業に就きなさい、あの専門を学びなさい」と子どもに要求して、そうしなければ相続権を奪う父親には執着がある。

 恋人に着ていい服といけない服や、何時に家から出入りすべきだとか、つき合って良い人と悪い人を指図する人には執着がある。

 この偽りの愛が執着であり、それは執着の対象を閉じ込めておく監獄や刑務所のようで、執着に負けた者を牢屋番に変えてしまう。鳥をかごに閉じ込めていた人のように、執着で苦しむ者は、生きることも生かすこともできないのだ。

*執着によって他者の自由意志を踏みにじるというのは理論的ですが、自分自身の自由意志も侵害するかもしれない、ということには驚きました。執着がある時に、どのように自分の自由意志を侵してしまうのか、例を出していただけますか。

 いいだろう。例えば、前例の母親が、家族以外の人を支援することなど、自分の心が求めることに時間を割きたいと思っても、そうすると子どもや夫の面倒が見れなくなると考えて、自制してしまう場合だ。

 執着を乗り越えなければ、内面を充足させることをする際には罪悪感を覚えるだろうし、その罪の意識によって、そうすることを自分に禁じてしまうかもしれない。

*この例のような執着の顕れ方には驚かされます。家族に尽くす人は、一般的に愛情に満ちた人だと思われていることが多いからです。  

 それは、執着というものが君たちの文化に深く根づいており、頻繁に愛と混同されているからだ。多くの人は、授かった教育のせいで執着が大層深く、それを自分の個性の一部に同化させてしまっている。

 女性には、自分の時間の100%を夫や子どもや仕事に捧げなければ罪悪感を抱かせる。家族以外の人に時間を費やすと、味方である筈の家族からでさえも口さがなく批判され、「自分の家族よりもあの人達の方が大事なの?」とか「一体何でそんな事に関わるんだ? おまえはここに家族と一緒にいるべきだろ」、「人にどう思われるだろうか!」などのコメントで罪を意識させられる。

 男性は、慣習的により大きな自由を謳歌してきたが、執着の感情から免がれている訳ではなく、家族でも友達でも同郷(同文化)でもない人に手を貸そうと時間を割くと、特にそれが何の経済的なメリットにもならない場合には、他の人の執着によって非難される。

*でも、家族に専念していても、そこには愛があるのではないですか。

 もちろんだ。一方を取ると他方をなくす訳でない。

 すでに言ったが繰り返しておこう。真実の愛はなくなることがないのだ。愛す対象が段々と増えていっても、それで家族を愛さなくなる訳ではないのだ。

 だが愛の能力が大きいと、大勢の人との約束も多くなるので、自由時間も多くの人と分かち合わねばならない。それが、執着に苦しむ者には、前より少ししか愛してもらえていないと受け取られるのだが、実際にはそうではない。

*人が変わろうと決意すると、家族はどうなるのですか。他者を支援することに時間を割くようになると、自分の家族に手がかけられなくなるのではありませんか。

 いいかい、自己変容したいと願い、内面の話ができる他の人達と集まりたいと思う者が出くわす最もきつい障害は、周囲の人達に理解されることがなく、その人達に、家族の義務を果たさないという罪悪感を、弄ばれることだ。

 良く観察すれば、誰かが週に一度二時間かけて、おまけにお金も使って、サッカーの観戦やディスコやバーに行っても、その人が家族をないがしろにしているという印象を持つ者はいないと分かるだろう。しかし、同じ人が、自他に役立つように内面に関する話を二時間しに行く場合には、あらゆる難癖をつけられるので、家族を放任してしまったという罪悪感を覚えてしまうのだ。

 これは要するに、分かち合うのが困難だという執着のせいだ。執着は愛ではないし、この障害を克服できなければ、君たちは停滞してしまうのだ。

*それでは、家族は霊的進歩の障害となり得るのですか。

 いや、障害となるのは、自己成長する気がなく他者にも成長させまいとする魂たちの理解のなさだ。彼らは、進化を願う者を、それが家族のように血の繋がりがある者であっても、手中の全ての武器を駆使して押し留めようと努める。

 理解のある家族と暮らす者にとっては、家族が霊的な発展を遂げるための支えとなる。しかし、地上の人類はほとんど成長していないために、霊的な覚醒に取り組もうとする者は少数である。しかも、同じ家族の中に似通った魂がいて、霊的進歩に取り組むつもりであっても、同時に覚醒できることは非常に稀だ。そのため、先陣を切るのが一番難しいのだが、それができる人が、他の者のために道を切り開かないといけない。

 かのイエスでさえこれと同じ問題を克服し、執着による家族の理解のなさを乗り越えなければならなかった。イエスの家族は彼を理解できなかったので、霊的事柄に応じるために家の義務を投げ出している、と常にイエスを非難した。気が狂っているとけなし、罪悪感を覚えるように仕向け、ヨセフが亡くなって彼が大家族を養う責任を負う羽目になってからは、特にそれが高じた。だが、それは真実ではない。イエスは、母親と兄弟姉妹が自立できるまで物質的支援をしたのだ。

 しかし、彼の使命は、全人類の家族というもっと広範に及ぶものだった。イエスが体験した自分自身の家族の理解の欠如は、福音書の次の一節に反映されている。

 そしてイエスは言った、「預言者はどこででも尊敬されるが、自分の郷里と家族の間では敬われない」

*でも、無条件に愛すためには、家族を放棄する必要があるのでしょうか。

 霊界が家族の放棄を要求するなど、どうして信じられるのかい? 家族は、魂の最初の感情を刺激する手段として、まさに霊界で創られたのだよ。

夫婦間の愛情や親子間の愛情は、魂が最初に出会う感情で、交配本能や子に対する親の保護本能から発達したものだ。

 唯一伝えたいのは、愛において前進するためには、心を開いて分かち合い、家族の概念を広げて、全ての霊的存在がその一部であると考えねばならないということだ。

 いいかね、人が愛す時にカテゴリーを設けるとしたら、真の兄弟愛の実現は不可能だろう。自分の家族を一番先にして、同じ故郷・国・人種・文化・宗教の者を優先し、それで残ったものがあれば他者にあげる、となる。

 何の見返りも期待しないで与える代わりに、常に何かと引き換えなのは、我欲がカモフラージュされたものなのだ。そのため、与える際にはリストを作成し、最初に自分に沢山くれそうな人を載せ、次にそれ以下の人を記載し、何もくれない人は欄外とするのだ。

 このような利己的な態度は、どんなに会員だけの連帯を正当化しようと頑張る人達がいようと、「愛の法則」を侵害している。連帯する権利から誰かを外してしまった瞬間に、連帯という言葉は意味を失うのだ。

 このような集団的エゴがどこまでエスカレートできるのかという例は、ナチズムに見ることができる。人種による見せかけの結託を謳い、他の人種や信仰の権利と個人の自由意志を粛清したり排除して、それを捏造したのだ。

*執着は、虚栄の段階にも尊大の段階にも見られると言われましたが、これは克服するのがかなり難しい「エゴ的感情」のようですね。

 その通りだ。執着は虚栄の段階に始まり、尊大の段階の最後まで克服されることがない。

*それなら、執着に関しては、虚栄から自尊を経て尊大へと霊的に進化していっても、何の進歩もないのですか。

 もちろんあるとも。しかし、進歩は常に緩やかなのだ。

 虚栄心の強い者の執着は、自尊心の強い者や尊大な者の執着と同じ強さではないし、同じ要因で増長される訳ではない。虚栄心の強い者は感情が余り発達していないので執着心はずっと強く、他者の自由意志への配慮がなく、甘やかされたり構われたいという思いや進化への意志の弱さなどでそれが増長される。

 自尊心の強い者と尊大な者では、執着心は徐々に愛に変化していっているので(愛と執着の両方が混在している)それほど強くないが、愛されないという怖れや愛する者を失う怖れによって増長される。

*強欲と執着は、どう克服するのですか。

 強欲の反対は寛大なので、強欲に打ち勝つためには、物的・霊的な寛大さを発展させる必要がある。強欲と執着は、物的面・霊的面で、自分が持っているものを他者と分け合うことで、乗り越えられるのだ。
【本文転載その⑮終了→その⑯に続く】


魂の法則⑭ 愛 VS 我欲

2013-06-15 19:53:52 | 魂の法則

この章は、前回に比べて、圧倒的に長い!
一気に転載する!!
愛については考察すれば、必然だ!!
愛の法則は、魂の法則の佳境である・・・
魂は、愛の旅立ちそのものであるからだ!!

 

 愛が、魂を生んだとも言えるであろう。創造主とは、愛そのものであると考えることが出来る。理屈は兎も角、愛によって全てが生まれたと認識しても、強ち、間違いとは言えないだろう。

 それにしても、さすがは西洋合理主義の愛の法則であろう。分かり易い。分析が鋭く、喩えが平易である。下手な心理学よりも、心理学的であろう。

 これが、心理学でないのは、魂に関して、時空間を超えて語られているから、聖書的である。一つの福音(良い報せ)と言っても良いであろう。私の判断するところ、100%納得できる。

 勿論、100%納得できると書いたからとて、100%良い方向に実践できるという意味ではない。私は凡愚であるから、今転生して学んでいる身であり、魂である。しかし、ことごとく、思い当たるフシばかりだという意味だ。

 

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 多くの方々もそうであろう。長いが、何度も何度も読み返す値打ちがある。そして、その思い当たる節々を点検して、修正して、反省する事が出来れば、成長は早い。請け合うことが出来る。そういう意味での100%納得だ。

 それは、無条件の愛の実践無くして、真の幸福はないと言うことだからだ。よく言われる至福の歓びは、こうして生まれるものであろうと、『想像』する。


 また、別名、『無所得』の愛とも呼ばれる。太陽のごとき愛の実践だ。見返りを求めない愛の実践だ。それは個々の魂全てに備わっている『能力』だと、断言している。阻害する要因を点検することで、誰でも輝かすこと出来る。

 力強い福音である。

 

 尚、全文を読むには、日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.esで、ダウンロードできる。

 

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題名: 「魂の法則」
スペイン語原題: “LAS LEYES ESPIRITUALES”
著者: Vicent Guillem Primo ヴィセント ギリェム・プリモ
邦訳: 小坂 真理
知的財産権登録番号 V-2095-08 (Valencia, España)
Copyright © 2008 Vicent Guillem Primo
Japanese Translation Copyright © 2013 Mari Kosaka
ホームページ: http://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/
日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.es
メールアドレス:tamashiinohousoku@gmail.com

 

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【本文転載その⑭開始】

愛 VS 我欲

*愛せるようになるために、最初にするべきことは何ですか。

 愛すためには、自分自身でいなくてはならない。そして自分自身でいるためには自分を知らなければならない。

 他者を愛したければ、自分を知り、自分を愛すことから学びなさい。自分自身を愛せない者には、他者を愛すことができない。

*でも僕は、他者を愛すためには自分自身を放棄しなくてはならない、と理解していたのですが。

 絶対にそんなことはない。君がしなくてはならないのは、我欲を放棄することだが、感情を放棄することではない。

 君たちは、愛とエゴとを混同しているので、愛についての概念が、間違ってしまっているのだ。自分を愛すというのは、自分が他者より優れていると思い込み、利己的な気まぐれを満たすことに専心することではなく、自分の情緒的な必要性や感情を認めて、それを人生の原動力となるように発展させていくことだ。

 だからこそ私は、真に愛すためには、自分自身を知ることが非常に重要だと言っているのだ。自分を知るということは、感情と思考とを区別できることを意味し、感情から生まれるものと我欲から生まれるものを認識できることだ。

*それでは、愛と、愛ではないものをどう区別するのですか。

 愛は、その最高の顕現において、無条件でなければならない。本当に愛する者は、何の見返りも期待しない。私益で行動する者は、本当には愛していないのだ。

 愛は自由でなければならず、そうでなければ愛ではない。人を強制して、愛すように仕向けることはできない。

 愛したいと願う者は、自我を放棄することも望まねばならない。愛と我欲は、お互いに両立し得ない正反対の概念だ。エゴとは実際には愛の欠如なので、エゴを放棄しなければ愛せない。愛すことを学ぶというのは、我欲からの脱却を学ぶに等しい。愛す能力を高めれば我欲は減少するが、その逆も、また然りだ。

*魂はどうやって、愛すことを学ぶのですか。

 それは、長い時間をかけて進歩させてゆく永続的な工程だ。魂は、人間の段階になる前に学び始めるが、愛に関して新しく学ぶことは尽きないので、この工程も決して終わることがない。

 話すことを学ぶ時のように、他者との絶え間ない相互作用による以外には、愛を発達させることができない。

 魂がほとんど成長していない初期の段階では、自分より進化している存在から受ける愛を情緒として体験する。それを快く感じるのだ。また、愛の欠如、すなわち自分のようにまだ愛すことができない者の我欲も体験する必要がある。これは不快ではあるが、愛の欠如と愛の存在を認識して両者を区別し、愛の実在を評価できるようになるので、自分の感情を発達させるための刺激とはなる。

 つまり、魂は、愛せるようになる前に、愛の送り手として手本を示してくれる、自分より進化した者の愛の受け手として、感受性を磨く。また、愛の欠如という手本を示してくれる、自分と同等、あるいはもっと利己的な者とも共存しなければならない。このような相互作用を総合して、魂は最初に情緒を、それから感情を、成長させることができるのだ。

 魂が他者からの愛を認識できるようになるのは、愛の送り手になる準備が整った時だ。最初に初めての愛情が芽生えるのは、自分を愛してくれた人(通常は家族の一員)に対してであり、自分に利己的な態度を取った者には敵対心を抱き、関わりを持たなかった人は何の関心もないただの人となる。この段階での魂は、愛すと情熱的であるが、愛を失うと報復的で恨みがましい。

 魂は、より進化した次の段階では、苦しみ自体が愛とは相容れない否定的なことだと気づく。そしてもはや、自分を傷つけた者に害を与えることを望まず、被った痛手を賠償させる手段であった復讐を放棄する。この段階を、進歩した条件付きの愛、と呼べるだろう。

 そのうち魂の理解力と感受性のレベルがかなり高まると、自分を憎み蔑んで、耐え難い苦痛を与えた者たちも含めて、この世の全ての存在を愛す、という大きな飛躍を遂げる準備が整う。すなわち、イエスのような進化した存在たちが「汝の敵を愛せよ」と言って伝道したのと同じ、無条件の愛に達する最終段階に入るのだ。

 もちろんこれは一朝一夕にできることではない。最初の段階から最終段階に到達するには、途方もない歳月が必要となろう。

*理解できるように、これらの段階を要約していただけますか。

 いいだろう。この道程は継続的なものだと言ったが、良く理解できるように、以下の段階に分けてみよう。

1.愛の受け手としても、送り手としても鈍感。

2.愛の受け手として部分的に敏感であり、送り手としては鈍感。

3.愛の受け手として敏感で、送り手として部分的に敏感(条件付きの愛)。

4.受け手としても送り手としても、とても敏感(進歩した条件付きの愛)。

5.受け手としても送り手としても、完全に敏感(無条件の愛)。

*情緒と感情の源泉となるものは何で、両者はどう違うのですか。

 魂は進化の初期の段階では、情緒を感じることしかできないが、通常、このような情緒は、外界からの刺激に反応しているに過ぎない。

 情緒の感知力は、人間以前の段階から発達し始めている。実際、犬や牛や馬やイルカなど、多くの高等哺乳類が、様々な形でかなり深い情緒を感じたり表現したりしているのを、認めることができるだろう。

 情緒を感じる体験を重ね、決断をする際に情緒に配慮するようになるにつれて、魂は感情を発達させ始める。感情は、情緒の進化した形態、と考えてもらって良いだろう。

*情緒と感情の違いと、両者の関係を、より詳しく説明いただけますか。

 情緒の継続時間は短く、一般的には、外部または内部の何らかの刺激によって誘発される。

 感情はもっと長く続き、魂により深く根ざしており、外界からの影響を受けるとは言え、外部の誘因が必ずしもその原因ではなく、魂自体の意志による。

 感情と情緒は緊密に結びついている。感情は、情緒を呼び覚ますことが可能だ。感情は、情緒を湧き出させる内なる泉のようで、その意味では、情緒は感情の表現形態の一つである。また、外界からの影響で感じられた情緒は、特に感情に影響し、感情を起動させたり抑制する刺激剤となる。

 最も発達した感情は、愛である。無条件の愛の感情を体験するに至ると、それは永遠に尽きない感情なので、それを目覚めさせたり育てるために外界からのいかなる刺激も必要としなくなる。

*情緒や感情は、魂のどの部分で生まれるのですか。

 愛の情緒や感情は、霊体で生まれる。

 利己的な情緒や感情は、霊体で感じ取られるものの、エゴ的な要素はメンタル体で付加される。

*お話が分かりませんが、利己的な感情や利己的な情緒とは何ですか。

 利己的な姿勢から生まれる、否定的な感情や情緒だ。実際には、利己的な態度は思考であるので、頭で生まれる。

*それでは、感情と思考は、別々の源から生まれるのですか。僕はこれまで両方とも、頭脳の産物だと思っていました。

 それが実は、同じ源ではないのだ。

 感情は魂(霊体)から生まれ、思考は頭脳(メンタル体)から生まれる。

*我欲は頭脳で生まれ、愛は魂で生まれるということでしょうか。

 そうだ。今言った通り、利己的な情緒や感情は霊体で感じ取られるが、エゴ自体は頭脳で生まれるのだ。

*その点を明らかにして下さいますか。どうしてエゴが頭脳から生じて、そういう利己的な感情や情緒は魂で感じられるのか、分からないのです。

 もちろんだ。ガラス張りの丸屋根の下で懐中電灯をつけている人を思い描いてみよう。

 屋根のガラスが透明ならば、懐中電灯が発する光も、外から内部に入る明かりも、ガラスを通って変化することはほとんどないだろう。しかし、丸屋根のガラスが透明ではなく不透明だとしたら、内部から外部へ出る光も、外から丸屋根の中に入る光も、そこを通過することで屈折してしまう。

 懐中電灯を持った人は霊体に相当し、ガラスの屋根はメンタル体に相当する。丸屋根の不透明さが我欲を象徴している。

 利己主義は、他者の感情や情緒(入ってくる光)をそれらが霊体に届く前に変化させてしまうので、その捉え方が変わってしまうだけでなく、霊体から生じる感情や情緒(発信される光)やそれらの表現の仕方さえも変えてしまい、頭脳を通過する際の利己的要素にまみれたままで、他の人に受け取られてしまう。

*愛と我欲の関係が、人間の本質にどう作用するのか、まだ良くイメージできません。一体なぜ人は、愛することも利己的になることもできるのですか。この点を、どうか明らかにして下さい。

 ああ、もちろんだ。人間というもの玉ねぎで、芯に愛という光を放つ魂を持っていると想像してみなさい。

 中心の光の発信元は何重もの層に包まれていて、その各々が少しずつ光の進行を妨げるので、全部の層に覆われてしまうと、外に出て行く光はほぼ完全に遮られてしまう。

 これらの層の一つ一つは我欲を表しているのだが、最終的に愛という光を輝かせ、その最高の表現が可能になるように、序々に取り除かれていかねばならない。層を除去していくにつれて、内部の光(愛)は外に出易くなる。

 一番外側の層は、最も原始的で表面的な我欲に相当する。それは、虚栄心である。中間層は自尊心であり、一番内側のものは尊大である。

 人はそれぞれ、我欲を消去する工程の様々な地点にいる。

 地球に住む魂の大半は、最初の層の幾つかを除去できたに過ぎない。中間層の何枚かを取り除くことに成功した者もいるが、我欲の最も深層部を排除する過程にいる者は僅かである。

 この工程は連続的なもので種々様々なレベルの魂がいるとは言え、大きく三つのグループに種分けしてみることができる。

 層の除去段階に従って、親切で見栄っ張りな魂、寛大で気位の高い魂、愛情深く尊大な魂に分けられる。

*なぜ、肯定的な形容詞と否定的な形容詞の二つを使って分類するのですか。

 分類によって、魂の利己的な部分を際立たせるのではなく、各段階の魂が発達させている資質も認めるようにしたいからだ。最初の形容詞は、魂が愛の育成に努める際に到達可能な代表的な資質を表し、二番目の形容詞は、魂の我欲の段階を示している。

 虚栄心に満ちた者は大変親切になれ、自尊心の強い者はとても寛大に、また尊大な者は、自我に打ち勝ち感情のために戦おうとする時には、とても愛情深くなれるのだ。

 我々一人ひとりの中に我欲が存在することを認めて、それを自覚して克服するために定義づけをすることは、何も悪いことではない。

 魂にとって悪いのは、自我の存在を認めようとしないことだ。つまり、本当に愛し真に幸せになるために除去すべき利己的な部分を全員が持っている、という現実を認めないことである。アルコール中毒者が自覚しない限り治療できないのと同様に、認めないものを克服することはできないので、我欲を認識できないと霊的に停滞してしまう。

*あなたが、虚栄・自尊・尊大と呼んだ我欲の三つの顕現形態のそれぞれの特徴について、更に詳しく説明して下さいますか。

 いいだろう。虚栄心・自尊心・尊大という風に、最も低俗なものから巧妙なものへと、少なくとも三つの形態に我欲を分類することが可能だ。

 我々は、通常の会話の中でこの三つの言葉を頻繁に使用しているが、これから見ていくように、霊的な概念はずっと幅広く奥深く、多くの面で通常使用する意味とは異なっている。これからその一つ一つを定

義して、顕現形態を分析してみよう。

*虚栄心とはどういうもので、どんな顕れ方をするのでしょうか。

 虚栄心は我欲の最も原始的な形態だ。これは、若い魂と、知的面では充分進歩したにも関わらず、感情面ではまだ初心者の魂に特有なものだ。

 虚栄心の最大の特徴は、自分本位なことだ。特に自分が必要とすることや基本的欲求を満たすことに熱心で、他者の必要性にはほとんど、あるいは全くというほど関心を示さない。多くの場合に、他者の自由意志を侵害していることには気づかず、自分の自由意志ばかりを優先しようとする。

 見栄っ張りな人は自分が中心であろうとして、他の人達から注目されることを望む。愛をほとんど知らないので、真の愛とおだてとの違いが良く分からない。愛よりも要求が多い。それゆえ、人間関係では、愛され愛すことよりも、知名度や賞賛や賛美を求め、おだてられたり自分の要望が叶うことを好む。

 見栄っ張りな人は常に自分と他者とを比較し、いつも人よりも上位に立とうとする。能力や物的面で自分より下だと見なした者を馬鹿にしたり蔑むことが多く、自分にとって有益だとと思う人を過剰に賞賛する。

 常に自分の利益を優先し、不公平な行動を取ることが多い。そして、利己的な行為をカモフラージュしようと、しょっちゅう事実を曲げる。感情が未発達なので自分自身に不満を覚えることが多く、孤独になるのを極端に嫌う。

 他者を大いに必要とし、自分の必要性のみならず趣味や気まぐれまでを満たそうと、しばしば相手を操り思い通りにするので、周囲の人を肉体的にも精神的にも隷従させてしまうほどだ。しかし、期待する満足感が得られなければ、直ぐにその人間関係に飽きてしまう。そのため、家庭では伴侶や子ども、仕事では部下などの弱者を、自分の影響下から逃れられない所有物のように見なし、蹂躙することがしばしばである。

 自分に値すると思っていた注目が得られない場合には、被害妄想や攻撃、脅しや嘘など、思いつく限りの策を弄し、いかなる手段や代償を払ってでも、注意を引こうとする。

 この欠点が顕著に顕れると、そのネガティブな息詰まる波動で周りの人々が消耗してしまうので、虚栄心というものを知らず、どう扱っていのかが分からなければ、長時間我慢できる人など滅多にいないだろう。

 これが、彼らには知人は多いのに、余り友人ができない理由だ。誰も何もせず自分だけがどれほど頑張っていることか、としょっちゅう自慢するにも関わらず、努力が要ることには直ぐに飽きて、他者に責任を負わせようとする。

 私心なく人にさりげなく尽くすことは稀で、いつもそれを誇示し、一般的に自分の行為以上の返礼を見返りに求める。見栄っ張りな人は、善い人になるつもりはなく、そう見せかけようとしている。

*それなら、そんな人が余りいないことを願いますよ。

 実のところ、人類の四分の三はまだこの初期の進化段階にあり、君たちの世界の政治家層の一番の欠点が虚栄心なのだ。もっとも、自認できること自体がより進歩していることになるので、今話したことが自分に当てはまると言う人はいないと思うがね。君たちの惑星がこんな状態なのも、そのせいだ。

*そんな風に利己的な人と暮らすのは、耐え難いでしょうね。

 このようなものや、もっと目立たないエゴから、君自身が無関係だとでも思っているのかね? 進化していない人と一線を画そうとして、理解しかねると言い切ること自体に、君自身の我欲がチラついている。

 虚栄心の段階は、その後の自尊心と尊大という段階と共に、完全性への道程において、全ての魂が一つ残らず通過しなくてはならないものだ。

 これらの段階を超えられた者は、ある時点で自分の欠点に気づき、克服の努力をしたのであり、高次の人の見習うべき手本のお陰で、それを成し遂げることができたのだ。進化した魂たちが自分たちだけで前進して、進歩の遅い同胞を見捨てたとしたら、一体どんな愛を育んでいると言えるのだろうか?

 このように露骨な説明をしてしまうと、大変手厳しく思えるだろう。しかし私には、誰かを差別したり除外する意図はなく、君たちが虚栄心という我欲の形態を理解し、その知識を自己改善に役立てるよう望んでいるのだ。

*この場合は、虚栄心になって顕れる我欲のことですが、魂は、自分のエゴをどのように自覚して、克服していくのですか。

 通常は、自分と似たレベルの者の利己的な行為を、身を持って痛感することによる。「霊的裁きの法則」は、他者の行為を通してであろうと、各人を自分の行為と向き合わせ、自己改革のために最大の恩恵が得られるようにする。

 魂は実際に苦しむことで感受性を高め、特に自分と似通った状況を経験した他者の苦悩を、より敏感に感じ取れるようなる。その者に対して芽生える連帯感は、愛の萌芽なのだ。

*魂は、自分の行為が生み出した苦悩を必ず実体験して、それらの行為が他者に有害であった、と学ばねばならないのですか。

 いや、自分の行動が他者に与えた害を自覚でき、自分の過ちや他者の経験から学ぶことができれば、理解したことになるので、その必要はない。しかしそのためには、感受性や愛が充分に発達していなければならない。なぜなら、愛がある場合にのみ、他者の気持ちを苦悩も含めて、自分のことのように感じられるからだ。

 初歩段階の魂の場合は、自分の利己的な行為を自分自身が味わって苦しんだ方が、速く進歩することができる。一方、愛を育むことができれば、自分の過去の体験や他者の体験を理解することで、もっと速く進歩できるのだ。

*理解によって、虚栄心を克服するにはどうしたらいいのですか。

 最初の一歩は欠点を自覚することで、その次は態度を是正することだ。

 自分の欠点を認識したからと言って、それが表面化しないようにできる訳ではない。自覚し認めるだけではなく、我欲に従った行動を避け、その言いなりにならずに気持ちに従って決断するなら、我欲は次第に力を失い、最終的には克服されるだろう。自覚すれば、虚栄心がどういうものかを深く認識でき、それがどのように自分に顕れ、何によって増長されるのかを知ることができる。

 幸せになるためには周囲の注目の的となるのが重要で、皆から褒めたたえられたりちやほやされて、喜びや贈り物や注目を山ほど貰うのがいい、と信じることで、虚栄心は増大する。

 虚栄心は、幸せになるためには、物であろうと人であろうと身の周りの全てのものを所有する必要がある、と自分にも他人にも思い込ませるように現実を変えてしまう傾向となって顕れる。

 虚栄心は、進路にある全てのものを吸い込む掃除機みたいに自分に溜め込みはするが、持っているものを何一つ評価しない。それは、見たところ世界一素晴らしくそれなしには幸せになれそうにないおもちゃを買ってくれと、地団太踏んで親に要求する子どものようだ。だが、おもちゃを手に入れると、何分とも遊ばず、直ぐに飽きて壊してしまう。

 従い、感情を呼び覚ます努力をせず、自分の気まぐれを満たすことばかりに夢中でいる限り、彼らは常に不満・空虚・不幸であり、他者から愛されてもそれが分からず評価もできない。

 自分自身の努力や意志によって成し遂げることでなければ、それを本当に理解して評価することも楽しむこともできないが、虚栄心の強い者は、何に対してもほとんど努力をせず、他人が自分のためにしてくれるのを望む。

 目的を持った場合には、外見的・物質的・表面的なものが多く、魂の内面的目標であることは滅多にない。

 見栄っ張りな者は、自分で火を起こすのが面倒なので、いつも隣人の焚き火で暖を取る人に似ている。常に他人に依存し、自分自身では何もしない。自分に独自の火を起こせば、他人に頼って暖まる必要はない。この火は、霊的次元では愛の炎であり、魂を慰め暖め、進歩して本当に幸せになる力を与える。

*でも、幸せになろうとして成功を求める人は大勢いますが、彼らに言えることはありますか。

 自分自身を偽っていると言いたい。成功は虚栄心を満足させるが、感情にとっては落とし穴となる。幸福を勝ち取る唯一の方法は、自分を愛で満たすことだ。

*理解を通して虚栄心を克服するにはどうするべきかを、短くまとめていただけますか。

 いいだろう。虚栄心の強い者が欠点を克服する第一歩は、幸福は外部にあるのではなく、内面次第なのだと理解することだ。

 我々全員が学ぶべき大切な教訓は、 真の幸福とは、他者が自分を愛すかどうかで決まるのではなく、自分が愛せるかどうかによるということだ。だから幸せになりたければ、他者が自分を愛してくれるのをがむしゃらに求めるのを止め、自分自身の感情を目覚めさせるようにしなさい。

*見栄っ張りな人にはどう助言して、自己進化に役立ててもらいますか。

 他者の賞賛や慈しみ、成功や信任を得ることでは、絶対に幸せになれない。

 自分の人生に不満足で、孤独感や虚無感があるとしたら、不幸の原因を外部に探さないことだ。原因は外にあるのではなく、自分の中にあるからだ。

 満ち足りることは絶対にないので、他者の火で暖まろうとしてはいけない。他者が君のためにしてくれたりしなくなることに自分の状態が左右されないように、自分自身の炎を起こしなさい。

 利己主義は脇に置いて愛しなさい。内面の虚無感を満たす唯一の方法は、無条件に愛すことなのだ。

*今言われたことは、前に話されたことと矛盾しているようです。他者から愛されることを放棄したとしたら、どうして自分を愛せるのでしょう。

 説明が良くなかったかもしれない。愛されるのを放棄する必要はない。間違ったやり方で幸せを求めている、と言いたいのだ。天秤の片方の皿にだけ重りをかけて、均衡を保つように要求しているのだ。

*どういう意味かがはっきり分かりません。理解できるように例を示して下さいますか。

 良いだろう。世界にある全ての愛を分配するために、全人類を巨大な広場に集合させたとしよう。

 そして先ず「愛が欲しい人はいますか」と聞くのだ。すると、100%の人が「僕だ、僕だ。最初に僕だ。僕が最も必要としている」と訴えながら手を挙げることだろう。

 しかし次に「愛を与えようという人はいますか」と聞けば、広場は直ぐに空っぽになり、手を挙げようと居残る者は僅かだろう。

 分与できるものは何か? 少数の者が与える愛だけだ。

 これが君たち人類に起こっていることで、大半は愛を受け取るつもりしかないので、世界を支えているのは僅かな者の愛なのだ。しかも大半の者は、愛を受け取っているのではなく、主に我欲を満足させているだけのだ。

 我々は主体性に欠け、愛が外からやって来るのを待っているのだ。外部からの愛が、あたかも魔法のように我々に達して幸せにしてくれて、秘薬のごとく何をする必要もないと思い込んでいるのだ。

 しかし、必要なものを全て受け取っても、受身であり続けて我欲を克服しようと努めないのであれば、内面の全てを与えて君を愛してくれる存在が現れても、「まだ足りないよ。僕はまだ幸せではない。もっと愛してもらう必要があるよ」と言うだろう。そして、絶対に内面の虚しさを満たすことができないので、もっともっと、と要求するのだ。

 くれたものは決して評価せずに、貰っていないものばかりにこだわる。人生のどんなに些細な障害であろうと、文句の口実となる。朝起きた時に、曇り空なら寒いとぼやき、天気が良ければ暑いと愚痴るのだ。

 これは、幸福の求め方が間違っているからなのだ。自他に対して能動的に呼び起こす愛のみが、空虚な感覚を満たすことができるのだ。それゆえ、幸せになるためには、愛を受け取るだけではなく、愛を与える必要があるのだ。

*虚栄心の問題に戻りますが、虚栄の段階にいる全ての人に同じ特徴があるとは言えないと思うのですが。

 同じ特徴ではなく、虚栄には様々な段階がある。

 虚栄の初期の段階では、我欲は、強欲(自分の持っているものを他者と分かち合いたくない)、貪欲(他者を犠牲にしてもどんどん欲しがる)、羨望(自分が欲しがる物的なものを持つ人を拒絶する)といった、より原始的で物質的な顕れ方をする。

 魂が感情面を認識して進歩した次段階では、物質的な利己心は、霊的なものへと変化する。この段階での魂は、まだ我欲にしがみついてはいるが、同時に感情も発展させ始めている。まだ愛を与えようとはしないが、愛の存在を認知し心地よいと分かっているので、愛を受け取ろうとする。

 強欲が執着(特定の人からの思いやりや愛を他者と共有したくない)に変わるのはこの時で、貪欲は独占(皆が自分だけに注目して優しくしてくれるのを望む)に変わる。一方、羨望はもっと上手く化けて、自分にはないが欲しいと思う美徳を持つ人達に対する反感へと変わる。

 感受性が強くなって正義の概念はもっと発達するものの、我欲から離れられていないため、損得が絡むと、故意に自分の得になる不公平な行動を取ることが多く、自覚している分だけ余計に罪深いと言える。

*根本的にどのように進歩すれば、虚栄心の段階を克服したと言えるのですか。

 虚栄と自尊とを区別する主な進歩は、魂の愛を目覚めさせることである。

 虚栄心の強い者は一方的に愛を受け取るだけだが、自尊心の強い者は、もう愛の送り手となれる魂である。それは、かなりしっかりと主体的に、本当に愛すことができる能力を獲得したことを意味する。

*虚栄心の強い者は愛すことができない、または愛を体験したことがない、ということですか。

 もちろんそうではない。全ての魂は愛すことができる。実際、自尊心のレベルに達した魂は、全てがそれ以前に、虚栄心の段階を経ている。

 また当然のことながら、一夜にして愛の発信者となったのではなく、愛の炎を灯すか消すかという、感情の発露とエゴとの葛藤が長く続いた期間があったのだ。

 虚栄心の強い者の炎は弱く、絶えずついたり消えたりを繰り返す。感情面で努力する確固たる意志に欠け、利己的な気まぐれを満たすことにまだ一生懸命なので、炎を育むことに力を注がないのだ。

 別の言い方をすると、虚栄心の強い者がまだ自分の炎を灯せず活性できずに、他者の火で暖まろうとする一方で、自尊心の強い者は、すでに自分の内面の炎を起こす方法を発見している。また、その火が力強く燃える時に生じる真の愛の片鱗を認識し経験したことがあるので、より鮮明な体験ができるように、確固たる意志で炎が消えないように努力している。

*魂はどうやって、自分の火を起こす方法を学ぶのですか。

 自分自身の体験と、進化した魂たちを手本にして学ぶのだ。

 虚栄心の強い魂は、通常、身近に転生した愛の送り手となるもっと進化した魂によって、手ほどきを受ける。それは自分の伴侶であったり、父親や母親、息子や娘、兄弟や姉妹などの家族である。多くの場合、他者が自分に尽くすことに慣れ切っている進化の遅い魂は、その時点では与えられていることを自覚できずに、もっともっとと要求し...遂には失う羽目になる。

 その時になって失われた愛を懐かしみ、かつての愛を再び味わいたいと願い、愛されていたのに評価できなかったことを自覚し認識し始める。この欲求によって、自分をそれほど愛してくれた人達に対する最初の感情が芽生え、それが以後の転生に持ち越される。つまり、人が愛を与えられるようになるには、最初に愛を受け取れなければならない。

 要求ばかりしていた魂は以後の転生では、自分より進化の劣った者と身近に共存する体験を課され、過去に他者に求めたのと同じように要求されるであろう。こうして、他者の利己的な行為の中に自分のエゴを認識し、自分自身と向き合うことになるのだ。

 この学習は、愛の受け手または送り手という、主な役割を転生ごとに交代しながら、数え切れないほど継続することもある。送り手として与えれば与えるほど、受け手として受け取れるようになる。

 愛の道を歩むのか、それとも我欲の道を続行するかは、魂の意志次第なのだ。

*虚栄の段階を超えた魂は、他にはどんな進歩ができたことになるのでしょうか。

 虚栄心から充分に解放され、完全に自尊の段階に入った魂が成し遂げたことを大まかに説明しよう。それは、しっかりとした愛の送り手になり、感情を理解できる魂になったことで達成できたものだ。

 先ず、正義の概念がもっと進歩している。自尊心に達した人は、外見的なものよりも本物で公正なものに気づいている。一般的に気位の高い者は、より公平に行動する。不平等になりそうな場合は、自分が得しようとはぜず、他者が被るであろう損害も考慮して決断する。

 もはやちやほやされたいとは思わず、真に愛され愛すことを求める。

 気位の高い者が獲得した見栄っ張りとは反対の資質は、控えめになることであり、目立つことはしようとせずに、公正で寛大であることに満足を覚える。

 自尊心の強い者は、自分が愛する者には寛大である。それゆえ、人間関係においても注目の的になろうとはしない。百の表面的なつき合いよりも、一つの本物の友情を望むのだ。

*気位の高い人は、見栄っ張りな人よりも霊的に進化しているので、進化の仕方も速いということでしょうか。

 そのようなことはない。進化の速度は、我欲から脱却して愛そうとする、魂の意志と力のかけ方によるのだ。

 自尊心の強い者でも進化が止まってしまって、多くの転生で停滞したままになることもあるし、虚栄心に満ちた者でも大いに努力して、素早い進歩を遂げることがある。

 だが、感情面の知識や自覚が大きいので、進化した者の方が能力があることも確かだ。彼らは進化しようとする意志がより一層固く、停滞すると苦しみが募るので、その不快感に後押しされて前進する。

 多くの転生経験を持つ進化した魂と、まだ若く余り進化していない魂とを比較することは、七歳の子どもと十五歳の若者に同じ知能検査をして、その結果の有効性を信じることのように、馬鹿げている。七歳の子がどんなにIQが高くても、普通は十五歳の方がいい結果を出すだろうが、それは、その子の方が年上で学習にかけた時間が違い、肉体的にも精神的にももっと発達しているためで、比べることには何の価値もない。

 それゆえ、他者と進化度合いの比較はするべきではなく、自分自身が前回からどれだけ進歩できたのかを比べるべきだ。進化のレベル差は、どれだけ速く学んだかだけで決まるものではなく、魂がどれだけの時間をかけて進化してきたのかにもよるからだ。

 霊的な年齢は人それぞれだが、一般的には、古い魂の方が若い魂よりも進化している。それは進化にかけた時間がその分長いからだ。

 しかしながら、若い魂が大変速く進歩して、自分より年上の魂を追い抜くという特別なケースもあるし、その反対に、大変古い魂が霊的に長時間停滞してしまって、もっと若い世代の魂に追い抜かれるということもある。

*進化レベルと進化速度との違いがはっきりする例を出していただけますか。

 同地点からスタートする二台の車のうち、一台が、もう一台よりも一時間早く出発するようなものだ。初めは二番目に発車する方が遅れているが、もっとスピードを上げれば、いずれ一台目に追い着けるだろう。

 走った距離が魂の進化レベルに相当し、速度がその時々の進化のリズムだ。

*自尊心の問題に戻りますが、自尊とは何で、どういう顕れ方をするのでしょうか。

 自尊心の強い者の最大の問題は、他者に感謝されなかったり、利己的に振舞われたり、愛してもらえないことを、なかなか受け容れられないことだ。特に、愛情の絆を築いてしまった場合は、そうすることが難しい。

 気位の高い者は、自分を愛してくれる者は容易に愛せるのだが、自分を愛してくれない者を愛すことがまだ難しい。そのため、自分が好きな者を在るがままに認めようとはせず、その美徳にも抵抗があるが、特に欠点は認めがたい。

 また、自分の考えが間違っているかもしれないと認めるのが、本当に難しい。
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