飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

聖書について!!⑬

2009-01-16 14:40:16 | 聖書について

放蕩息子の譬(たと)え!!


 聖書には、ルカ伝第15章11章から32章にかけて、記されている。内容は概ね下記と同様であるが、宝瓶宮福音書から引用転記した。聖書は御各位ご確認頂きたい。ずっとこの方が分かり易いからである。

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<今度は、シロクマとかくれんぼするカメラマン:記事に無関係>

 

 言いたいのは、こうである。


 放蕩息子というのは、人間のことである。父とは、主なる方である。万軍のエホバと言っても良いし、ヤハウェー、でも良い。聖書に馴染みのない方であれば、大仏様で良い。正確に言えば、内なる生命である。真我であり、人間を存在せしめている根源のパワーである。


 この事は、親鸞聖人の悪人正気説に相通ずる。あの『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや・・・!』である。


 それより、この方がずっと分かり易い。放蕩の報いは、当然、因果律により自ら背負わなくてはならない。本心に立ち返ると言うことは、そう言うことである。雇い人の身に自らを置こうと発心する様を言う。しかし、父なる方はそうではない。やはり、可愛い息子である。死んだと憂えた息子である。諸手を挙げて迎える存在が、父であり、母である。それが『愛』である。


 その事は、人間の内なる生命の本質であって、そうではないモノは、本質ではないと言うことである。だから、夢疑う事なかれと訴えかける。人間は、過ち多き者である。しかしながら、自らを愛おしむ事を忘れてはならない。又、その心は、父の心であって、息子を裁かない。愛は常にいかなる場合にも、裁くことをしない。常に受け入れるのみである。


 「聞く耳、さとる心ある者は、このたとえの意味が分かるであろう。」


 分かる。


  分かろうと思う。


    分かる人間でありたい。!


 

《主と弟子たちはガリラヤ地方の町々村々通って旅して、テベリヤに来た。そこで少数のキリストの名を愛する者に逢った。イエスは彼らに内なる生命について多くのことを語ったが、民衆がやって来たので、二つの譬(たとえ)話をした。

 「ある金持ちに二人の息子があった。弟が家庭生活に飽きが来て言う。『お父さん、どうか財産を分けて、わたしの頂く分を下さいませんか。外国に行って、自分の運命を開きたいと思います。』父は望みどおりにしたので、青年は外国に行った。

 彼は放蕩者で、間もなく罪に身をくずして、財産をみな使い果した。

 彼にはもう何もすることがないので、畠に行って豚飼いの仕事を見つけた。飢えても誰も食べるものを与える者がないので、豚に食べさせていたいなご豆を食 べた。幾日かたってから、彼は本心に立ちかえって言つた、『父は金持ちで、雇人がありあまるほど食べているのに、息子のわたしは畠で豚と一緒で、今にも飢え 死にしそうだ。わたしは再び息子として迎えられることを望まない。でもすぐ立って父の家に行き、自分のわがままを白状しよう。そして父に言おう、お父さ ん、もどって参りました。わたしは放蕩者です。財産は、罪を犯してみんななくしました。わたしはあなたの息子と呼ぱれる資格はありません。わたしは今更皇 子として迎えられようとは思いません。どうか雇人のなかに入れて、嵐、を避けて十分に食べさせて下さい。』 

 そして彼は立って父の家を訪ねた。彼が来ると母親は遠く離れているのに彼を見つけた。(母心は放蕩息子の一番さきのかすかなあこがれを感じ得る。)

 父が来た。そして両親は手に手をとり、道を降りて来て子供を迎えて、大喜びであった。
 子供は一生懸命に憐れみを乞い、雇人の身分にしてほしいと願った。しかし愛は大きく、この願いなど耳に入らなかった。

 門は大きく開いた。彼は心から母に歓迎され、心から父に歓迎された。

 父は雇人を呼んで、彼のために一番立派な着物、足には取っておきのサンダル、手には一番よい純金の指環を持って来るように命じた。それから、父は雇人に 言った、『お前たち、行って肥えた仔牛をほふり、祝宴を用意するんだ、おれたちはうれしいんだよ。死んだと思ったわが息子がここに生きている。失ったと 思った宝が見つかったのだ。』

 祝宴はすぐととのえられ、一同が陽気になっていたところに、遥か遠くに働いていて、弟が帰ってことをを知らなかった長男が戻って来た。彼はこの陽気なざわめきを聞くや、怒って家に入ろうとしない。

 父母はともに弟息子のわがままや道楽を見のがしてくれと、涙ながらに兄息子にたのんだ。しかし、彼は承知しないで言う、『見よ、わたしは何年も家に居っ て、毎日働き、大変無理な命令にも一度もそむいたことがなかった。それなのに、あなたがたはわたしのために、子山羊一匹ほふったことがないし、友人と簡単 なもてなしもさせてもくれなかった。しかし、あなたの息子、家を出て罪を犯し、おとうさんの財産半分を食いつぶした放蕩者が、何もすることができないの で、おめおめ帰って釆れば、そのために肥えた仔牛をほふって、大変な祝宴をするんだ。』

 父は言う、『わが子よ、わたしのものは全部お前のものだ。お前はいつもわれわれと一緒におって、われわれの喜ぴなんだ。しかし、われわれにとって至って 親しい愛するお前の弟が、死んだと思っていたのに、無事に帰って来たのだから、喜ぶのは当然のことだ。彼は放蕩者で、浮気な遊び女や盗人と一緒であった が、やっぱりお前の弟、われわれの息子だよ。』」

 それから、イエスは人々に聞こえるように言った、「聞く耳、さとる心ある者は、このたとえの意味が分かるであろう。」

 それから、イエスと十二人はカペルナウムに来た。<宝瓶宮福音書より>》


聖書について!!⑫

2008-12-21 13:17:46 | 聖書について

聖書の改変について
ちょっと書いてみる!!


 聖書は、現在に於いても金言が今に生きている。それに間違いはないが、改変も多くあることは確かである。有名なのが、325年ニケーア(ニカイア)公会議において、正統とされるキリスト教信仰の標準を定めた改変である。

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 その後も、何度か改変があると、言われている。現在もそれは、進行中である。結局、いずれの時代も、時の為政者に都合が良いように、改変された歴史を持っているのが、大方の歴史書の宿命であるとすれば、驚くには当たらない。


 問題は、聖書は霊に依って書かれたから、一元一句、改変はないとする盲信家や、矛盾を追求することもない聖書読みの聖書知らずが多いことである。

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 イエスは、言われた。『求めよ、されば、与えられん。』と言うことは、聖書そのものについても当てはまる。何故か、どうしてか、何を言わんとしているのか、と常に考えて読めば、必ず、その解答は与えられる。それを封ずるとすれば、それこそ、聖書改変は、そこに目的があると言うことであろう。


 前にも書いたが、投稿者はクリスチャンでも、カトリックでもない。いかなるキリスト教信者でもない。ましてや、エホバの信者などであろうはずがない。エホバの信者こそ、聖書を悪用したマインドコントロール被害者だと断じている。


 先ず、新約聖書はイエスの言行録の編纂である。それぞれを福音書と呼んでいる。福音とは、良い報せの意がある。その言行は、概ね、一致している。それが金言は生きているというとの意味である。しかし、いずれもイエス亡き後の記録である。そして、聖書にはマタイから始まり、ヨハネにいたる4つの福音書から成っている。それ以外は、異端とされたのである。


 しかし、他にもある。時折しも、1990年代になって、多くのキリスト教文献が発見された。それによると、トーマス福音書、マグダラのマリヤ福音書にいたる数多くの福音書がある。それでも言行は、概ね、一致している。金言は変えようがないのである。

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 教義は、都合良く改変されている。三位一体の理論や、十字架に対する偶像崇拝、聖母マリヤに対する信仰、正統とされるイエスの代行者などは、後でくっつけた理論(後付理論)である。イエスの生誕の時期、生誕の経緯(処女懐妊)などは、インチキである。クリスマスはイエスの生誕と関係がない。


 イエスに兄弟姉妹がいたことや(以前、兄弟にヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、そして、妹にマルタとルツがいた、と書いたが、一人抜かっていた。兄弟にもう一人、トーマスという人物もいたようだ。)、マリヤのヨセフという夫がいたことを、暗に無視している。ヨセフを無視する(処女懐妊)と、イエスがアブラハムの子孫であることを否定することになるのだが、そんなことはお構いなしだ。ヨセフが、大工であったこと、イエスも良き大工であったことなど全く無視。


 それは、教義に関係するからだ。イエスの神格化は、カトリックの重要課題、十字架、マリヤ信仰は偶像崇拝の原点となる。兄弟が多数おり、処女懐妊でないとすると、イエスの神格化もマリヤ信仰も影が薄くなる。

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 他にも多数ある。律法に対する見解も、復活に対する記述も多くの矛盾点がある。が、今回は深入りしない。紙数に限りがあるからである。


こうした点を、甘受した上で、尚かつ、聖書を愛読するのは、こうした改変に影響を受けない金言が生きているからである。改変は、先に書いたように為政者、指導者の都合によるもので、イエスの思いを知る上ではあんまり関係がない。宗教を実行する者、利用する者にとっては重大かも知れないが、その余は無関係である。


 世俗に宗教を利用するのは、本来、旨としていない。この世の世俗から離れ、もっと大きな世界(内的宇宙、宇宙の実在)から、人生を見つめるには、聖書は未だに生きている。

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 また、聖書を利用し、世界に捏造の混乱を招き寄せようとしている悪を見抜くにも、聖書は絶対に欠かすことの出来ない書物でもある。


 

聖書について!!⑪

2008-11-19 12:23:18 | 聖書について

聖書は難しいと言われる所以は何故か?!!


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<土星のオーロラ:記事に無関係>


 聖書は、難しい。何故難しいか。具体的な説明が不足しているからである。当初からそうであったとは思われない。時の経るままに、相当割愛されたか、変更されたきらいを否定出来ない。本来、イエスはその教えを、大衆に説いた。決して時の知識階級(律法学者や司祭、パリサイ人)に説いた訳ではない。むしろ彼らは、イエスを疎んじ、怖れ、迫害し、最後は殺したのである。


 その大衆は、無学文盲とは言えないかも知れないが、似たようなものである。ゴーダマ・ブッタも同じである。だから、決して小難しく説いたわけではなかろう。きっと、噛んで含めるように説いたはずである。しかし、聖書は難しい。


 難しい中で、最も難しいのは、マタイによる福音書 / 21章 18節から21節にある次の記述であろう。


【引用開始】マタイによる福音書 / 21章 18節~21節    
 朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。
 そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。
 弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。 
 イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。
【引用終了】


 字義通り読めば、気ままな思惑で、何の罪もないいちじくを枯らしてしまった。そして、その奇跡を信仰の強さを示すために見せたように読める。果たして、イエスがそのような事のために、そのような所為をするであろうか。どうしても信仰を示す所為としては、バランスを欠く。大仰に感ずるのは投稿者ばかりではないであろう。


 これは、聖書の説明不足である。もし、下記のように言葉が加えられるとどうであろうか。


もし人の子に対して罪を犯すなら、あなたがたは赦され、あなたがたの罪は親切と愛の行いで清められよう。しかし、もし聖気があなたがたのために生命の戸を開く時に、これを無視して罪を犯すなら、また、聖気があなたがたの心に愛の光を注ぎ、神の火をもって、これを清めようとする時に、魂の窓を閉じてしまうなら、あなたがたの罪は現世においても来世においても、消えぬであろう。好機は二度と来ないから、幾時代かめぐり来るまで待たねばならぬ。

 

 その時になって、聖気は再びあなたがたの生命の火に息を吹きかけて、えんえんたる火に煽(あお)り立てるであろう。そうすれぱ、聖気は再び戸を開くから、あなたがたはこれを迎え入れていつまでも親しく食事を共にすることも出来ようが、若しそうでなければ、つい幾度もこれを軽んずることになろう。あなたがたイスラエル人よ、今こそあなたがたの好機である。


 あなたがたの生命の木は見かけだけの木で、葉は豊かにしげり、枝は実でたわわに垂れている。見よ、あなたがたの言葉は葉、あなたがたの行為は実である。人々があなたがたの生命の木の林檎をもぎとって見たが、全く苦くて、芯まで虫が喰っている。


 葉や無用の実が一杯ついているあの道端のいちじくを見よ。それからイエスは自然物の霊が分かる一言を発した。すると見よ、いちじくは枯葉のかたまりとなった。その時イエスはまた言った。「見よ、神は聖言(みことば)を語り給う。そうすれぱ、あなたがたは日暮れに立っている一本のいちじくの木である。ガリラヤ人よ、遅すぎぬうちに、選定者を呼んで、あなたがたの無用な枝や、見かけ倒しの葉を切りとらせて、日光の当るようにせよ。」


 太陽は生命である。あなたがたの無用なものを価値あるものにすることが出来る。
 あなたがたの生命の木は良い。しかしこれを長いこと自我の露や、肉欲の霧で育てて、日光を遮ってしまった。
 人々よ、あなたがたに言う。あなたがたの語るすべてのつまらぬ言葉や、いやしい行為に対してあなたがたは神に申し開きをしなければならぬ。<宝瓶宮福音書>》

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<土星のオーロラ:記事に無関係>



 つまり、意訳するとこうである。人は本来、罪を犯す存在であるが、親切と愛の行いで清められる。又、聖気は愛の光を注ぎ、魂を清める。それがなければ魂の芯まで罪により喰われてしまうからである。


 その罪は、自我や肉欲であって、喩えて言うなら、あの葉や無用の実の一杯ついた、いちじくの木と同じである。聖言(みことば)により、いちじくは枯れた。自我や肉欲による無用の枝や、葉を切り取らせるように、自我を超克し、肉欲から離れるならば、聖気が魂の窓を開き、(生命本来の)良い実がたわわに実る良き木(生命)になることが出来る。


 という意味になる。これならば納得出来る。


 おそらく、仏典でも同じ。仏典だと結集(編纂)して2,000年を優に超している。しかも、サンスクリット語→漢語→日本語と変遷している。

 真理は単純だ。分かりやすいものである。少なくとも分かり易く説いたものに違いない。『無学文盲の比丘、比丘尼達よ!!... 云々』で説いた教えが、長い時を経て、知と意が加わり、省略され、変えられ、難しくなった。というより、訳が分からなくなった。


 聖書もそう言うところが随所にある。


聖書について!!⑩

2008-11-02 20:25:18 | 聖書について

キリストとは?

 久しぶりに...........。
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<衛星から見たハリケーン:記事に無関係>


 キリストとは、いわゆる役職名であって、『愛』担当常務みたいなモノである。聖書はかなり神格化が進んで、具体性にかけるところがある。イエスは、名をイマニエルと呼ばれた人である。父をヨセフと言い、母をマリアと言った。兄弟にヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、そして、妹にマルタとルツがいた。これは、事実である。しかし、聖書でははっきり言及していないし、カトリックは神格化に不都合だから、無視している。


 ルツの夫をアシャーと言い、宿屋の主人で、パリサイ人でイエスを認めることが出来ず、ルツを離縁させようとしたほどだから、兄弟達も当然、イエスに冷たかった。最後には、理解したが、『聖者は、故郷では容れられない。』とイエスに言わしめた程である。マリアはべつである。


 『見よ、人々はここに居る肉親の母、父、姉妹、兄弟を認める。しかし、ベールが裂けて、人々が魂の国に歩む時には、家族にある肉親のやからを結ぶ愛のか弱い血筋は消えるだろう。これは誰かに対して愛が少なくなろうというのではなく、人々はすべての人に、父母、姉妹、兄弟なることを見るからである。世の肉親関係は悉く普遍愛と神聖な友情となってしまう。』と言っている。
勿論、この言葉は、聖書にあるのではない。こんなことまで、聖書に記録はない。


 だから、聖書は難解なのである。


 聖書は、すべてを伝えていないのである。処女懐妊など、とってつけた物語であって、その必要は全くないが、そうでまでして神格化したかった意味を慮ることはできる。お釈迦様が、木の股から生まれた話よりもましである。



 さて、『愛』であるが、『愛』こそすべての基であって、創造主の想いのエッセンスがそこにあり、それなくしてはすべての被造物は存在しないことになる。そのエネルギーを体現するモノこそキリストである。であるから、イエスは我はキリストであると言った。そして、誰でも心の内にキリストを抱いていると言った。イエスはその魂において、純潔であったので、キリストの体現者として君臨したのである。それを王といい、心の王国を治めているのは『愛』である。


 世の中に『愛』によらないモノは何一つ無い。生まれ、生きるのも愛ならば、エネルギーもまさしく愛である。智恵も愛なくして働かない。血筋も『愛』である。しかし、魂の『愛』に勝る『愛』はない。肉のベールが裂けて、魂の国を歩む時には........とはそう言う意味である。キリストはその『愛』の発現者であって、『愛』そのものなのである。故に、イエスはキリストと呼ばれた。言ってみれば、卑近な表現でしか表せないが、イエスは『愛』の熟練工なのである。


 


 『愛』は創造主の想いのエッセンスであるから、神の子である。人の子イエスは、キリストとなり神の子たり得たのである。そして、すべて人は、キリストを内在しているから、広義で神の子である。


 『愛』に対して、憎しみを言う人がいるが、憎しみは『愛』のない状態ではない。『愛』の変形した状態である。『愛』は時として、汚れ、歪められ、乾くと憎しみに変わる。その基はすべて『愛』なのである。その汚れ、歪みは自我による。欲望も所詮は『愛』の変形であるが、自我による歪みの結果であって、自我は肉の想いがそうさせるのである。


 

 本来は、魂において、只ひたすらに生かされているとの認識を把持していると言えども、生まれ出でて、肉体に宿ると、自分で生きていると勘違いをしてしまう。本当は生かされていることをすっかり忘れて、自我欲望に頼るのである。そこに大きな落とし穴があり、生きるが為に自己中心性が生まれるのである。それはそれで、ある程度仕方のないことではあるが、それに凝り固まると、本来の『愛』を忘れ、源を忘れて、苦悩のどつぼにはまる。


 

 それを救うとのは、キリストであり、故に、その権能を発揮出来る存在をキリスト、救世主と呼ぶのである。キリストと呼ぶのがふさわしくないとすれば、メシアでもいいし、只、『愛』でも差し支えがない。(了)

 


聖書について!!⑨

2008-09-22 15:47:11 | 聖書について

三位一体とは?


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 これが一番難しい。聖書によれば、父(創造主)=聖霊=イエス・キリストとある。これが、判然としない。一説によれば、イエスを神格化するために、後世、理論化したものだという。確かに、イエス生存中、そのように明言したと言うことはない。聖書の新約部分にそういう文言はない。


 したがって、これは後の世に確立された、神学理論であることに間違いはない。


 クリスチャンではない投稿者にとっては、どうでも良いことであるが、異説を唱えたい。イエスを神格化する必要はない。そうでなくてもイエスの偉大性に何ら損傷はないからである。仏陀(ゴーダマ)が木の枝から誕生した事実がなくても、仏陀は仏陀である。


 三位とは何か。?


 一位、二位の三位である。始めに一位があり、宇宙根源の神、創造主である。いわゆる父である。万軍の神である。別名、大道とも言い、太極とも言う。天地自然をあらしめ、日月星辰(にちげつせいしん)を出没さす、根源の意識であって、諸法無我であるところのものである。


 神にもいろいろあるが、神(上)の上の神(上)である。


 二位とは何か。一位が表現するとき二位が生まれた。父神であり、母神である。陰であり陽である。日本風に言えば、いざなぎ・いざなみの尊である。


 三位とは、キリスト(贖い・愛)である。結びの神である。


 そして七位の神が創られた。エロヒム(天使)である。こうして、宇宙あまねく表現することが始まった。創造物はすべてエロヒムによって創られた。


 イエスは、三位の化身であって、故に、キリストと呼ばれることとなった。キリストとは神の職名である。ヘブライ語ではメシアと呼ぶ。


 こう考えると、一位は二位を生じ、二位は三位を生じたわけであるから、三位は一体である。三位は七位を生じ、人間は七位により創造された。万物も又同じ。従って、人間を含む万物は神の子である。神の子でないモノは一切ない。万物にはすべて一位の意識が宿るのである。土も、水も、花も、動物も、空気すらそうである。地球とて同じ。銀河とて同じである。大宇宙もすべて、意識より成り立っている。


 何故、悪は生まれたのか。悪は生まれたのではない。一位の意識に反抗している闇である。闇であるから、一位が表現を止めれば元々ないものである。しかし、一位は始めも終わりもない存在であるから、闇は消えることはない。闇は創造物によって現れる。創造物が一位の意識に同化すれば闇は消える。


 闇は、光の届かない場である。光が強くなれば闇は引き立つ。秋の透き通った大気の光と影のようなモノである。今がその時期。闇を明らかにし、光に同化する時代を我々は生きている。(了)