私の先祖は コッチに違い無い
柱は吉野ケ里遺跡よりずいぶん太い
いや、掘建て小屋と言う語源がこのへんに有るのか、と、思う建築様式であります。
「掘立柱建物」と言うらしいんですが、現代人の私らでも簡易的な小屋など立てる時には地面に喰いを打ち込む掘建て小屋な訳であります・・・これって、胸熱じゃぁありませんか? やっぱしオラぁ~キッチリと縄文人の流れを汲んでいるのであるな、ナンて思うと
4000年も前にこんな巨大な建物をどーやって?
冬期の共同住宅? いや、集会場? いやいや、共同作業場? と、いろいろ言われているそうですが、私の勘では上記の全てが正解じゃないかと思います。
まっ、柱が出て来たのを元に大きさを割り出し、他所の遺跡の情報なども加味して再現しているんだそうであります。
しかし、縄文人より4000年後の文明を持つ私ですが重機もクレーンも無しにこの建物を建てる技は持ち合わせていません。
中は外から見るよりも遥かに広く快適です
穀物倉庫の柱
いや、ここに疑問がわいたのであります。
縄文末期から弥生時代と言われる、九州は吉野ケ里遺跡の穀物倉庫には「ネズミ返し」があるんですけれども、陸奥の国の三内丸山遺跡のそれには無いのであります。
知識が無かったのか? それとも必要がなかったのか?
こりやぁ~アマゾンさんから縄文時代の本を買わなくちゃ収まりませんね。
竪穴式住居
インディアンの家みたいな竪穴式住居は地元の小学生が体験学習で作った物でありまして縄文人の作はもっとしっかりした右側の物であります。
小さく見えますが中はけっこう広くて、新婚の子供一人くらいなら余裕です。
この辺りの家が妥当な気がしますが
これは3世代住宅だそうであります
私が三内丸山遺跡を見た瞬間に感じたのは「平和」でありました。
いや、これ、ホントでありまして、この地には「和み」の空気が漂っていると言いますか、ナンでアレ争い事の雰囲気も気配も皆無なのであります。
で、やっぱし比べる物としては吉野ケ里遺跡なんですけれども、あちらは見た瞬間に「城」か?「要塞」か?と、思わせる物でありまして城壁に囲まれ攻め込まれないように掘りなど巡らしているわけであります。
農耕が栄えると備蓄がなされ、それを奪うとか、より良い土地を巡って争うとか、揉め事の種が有ったそうでありますが、私しゃそればかりじゃない様な気がするんであります。
やっぱし熊襲とアイヌの違いなんでありましょうかねぇ~・・・いや、ナンの知識も無く言ってみただけですけど。
私にとって縄文時代はハッキリ言って謎だらけであります。
いや、三内丸山遺跡が謎だらけと言うのが正しいかもしれませぬ。
まずは雪であります。
入り口の低い竪穴式住居は豪雪のときどうやって出入りしたんだろう?と、思い掛かりのオネェさんに質問したら、除雪しつつ上から入ったんでしょうねぇ・・・ナンて宣ってましたが、除雪などしていたならその手の形跡が残る・・・例えば防寒のための衣服や道具など・・・そう言うのが無いんですよね。
まっ、浅い知識でナニなんですが縄文海進は5000年前には終わっているわけで、今とそんなに変わらない気候であったかと思うんですが・・・へっ?違いますか?
と、言う事で・・・私しゃ三内丸山遺跡的縄文人が大好きになっちまいました。
なんか、突然であっても仲良くなれると思うんですよね。
で、生きる力に関しては縄文人が遥かに上ですから、役に立たネェ奴だなぁ~なんて茶化されるんですよ、きっと。
青森の話しは明日も続く・・・へっ? もう沢山でストぉ~?
では 皆様 おやすみなさい、と