ハイッ!みんぽう6月号エッセイスト大石邦子「続:風のあとさき」には、
私は小さい頃から母に夜ノ森の桜の話を聞かされてきた。富岡町を知らなっかたが、富岡町に母の師範学校時代の同級生がいて、寄宿舎も一緒の仲良しでも、大正末期の貧しい女学生から、今のよう旅行など望むべくもなく、互いの家に招きあったのかもしれない。友人は夜ノ森の桜トンネルを案内してくれたのだろう。卒業後二人は故郷に戻り教員となった。
その母が亡くなって21年になる。母はいつも寝込まずに死にたいと言っていた。その度に私は言った。「死ぬなら春にしてね。独りぼっちになり春でないと耐えられない。冬に向かう晩秋なんて絶対ダメよ」と。その頃、続になる前の「風のあとさき」を書いていた。
4/20締切が過ぎて、母と花見らしきことをした白木蓮の花について書き終えると、午前一時を回っていた。ホッとしたせいか、寝ずに待っていてくれた母に少しばかり優しいことを言って、ベットに入ろうとする私の手を掴んだ母が「今夜は何だか安心して眠れそう」とそれから間もなく、私の胸に倒れ込み、どんなに呼んでも叫んでも意識が蘇えることはなかった。
平成5年4月22日、母は約束どうり春、大好きは花に抱かれるように逝った。数年後富岡で桜サミットがあり、北海道から九州まで加盟自治体の参加集会に招かれ「わたしと桜」の演題で話した。
この時誰がこの美しい町から、避難することを想像したであろうかと。しかし、悔いても仕方がない、現実を見つめて線量の低い所から住民の手で復興していくしかないと思う。
私は小さい頃から母に夜ノ森の桜の話を聞かされてきた。富岡町を知らなっかたが、富岡町に母の師範学校時代の同級生がいて、寄宿舎も一緒の仲良しでも、大正末期の貧しい女学生から、今のよう旅行など望むべくもなく、互いの家に招きあったのかもしれない。友人は夜ノ森の桜トンネルを案内してくれたのだろう。卒業後二人は故郷に戻り教員となった。
その母が亡くなって21年になる。母はいつも寝込まずに死にたいと言っていた。その度に私は言った。「死ぬなら春にしてね。独りぼっちになり春でないと耐えられない。冬に向かう晩秋なんて絶対ダメよ」と。その頃、続になる前の「風のあとさき」を書いていた。
4/20締切が過ぎて、母と花見らしきことをした白木蓮の花について書き終えると、午前一時を回っていた。ホッとしたせいか、寝ずに待っていてくれた母に少しばかり優しいことを言って、ベットに入ろうとする私の手を掴んだ母が「今夜は何だか安心して眠れそう」とそれから間もなく、私の胸に倒れ込み、どんなに呼んでも叫んでも意識が蘇えることはなかった。
平成5年4月22日、母は約束どうり春、大好きは花に抱かれるように逝った。数年後富岡で桜サミットがあり、北海道から九州まで加盟自治体の参加集会に招かれ「わたしと桜」の演題で話した。
この時誰がこの美しい町から、避難することを想像したであろうかと。しかし、悔いても仕方がない、現実を見つめて線量の低い所から住民の手で復興していくしかないと思う。