ブラタモリ、山形・酒田は鳥海山と日本海を臨む年間290万人が訪れる港町。古くは西回り航路の起点となり、北前船の時代に繁栄を極めた場所で、どうして江戸から遠く離れた酒田が日本の物流の中心になったかを探る旅でもあった。
日本三大急流の最上川の橋からスタート。水運と豊富にとれる米、北前船がもたらす全国の産物の恵み、そして酒田港を風から強くサポートする沖合いの風よけ港のとびしまは自然の恵みをたくましく生かした酒田の人々の知恵に迫る旅でもあった。
最上川の河口域を屋形船に乗って川岸を観察していると、古い石垣と船はかつて川を使って行われていた水運の痕跡。上陸して巨大な倉庫の中の米、酒田は最上川流域の天領米を集め、西回り航路を通じて一大消費地・江戸に送り込む重要な場所だであった。
この航路を利用して発展したのが、北前船。米だけでなく日本海側の優れた産物を流通させていた。そこで、繁栄を極めた豪商・本間家の旧本邸は600mの屋敷の広さ。部屋数23の大邸宅と工夫を凝らしたインテリア、北前船の帰り船底に積んだ石が庭に集められた全国の名石。ご子孫も登場して徳川斉昭の掛け軸や加藤清正ゆかりの瓶もご披露されてタモリさんもびっくり!
では、酒田の繁栄を支えた港が一望できる公園に来ると、いきなり吹きつける強風10m以上は年間100日も、しかも海岸はほぼ直線で、風よけもない酒田の港の弱点を克服するところは、沖合39キロも離れた「飛島」。そこには高さ40メートルの垂直で巨大な流紋岩の舘岩は天然の風よけ屏風の風待ち港で、飛島は酒田の港に入れないときの避難港となっていた。
地形と農作物、人間の知恵と工夫があいまって生まれた酒田の港町は江戸日本を支えた港町であった。
日本三大急流の最上川の橋からスタート。水運と豊富にとれる米、北前船がもたらす全国の産物の恵み、そして酒田港を風から強くサポートする沖合いの風よけ港のとびしまは自然の恵みをたくましく生かした酒田の人々の知恵に迫る旅でもあった。
最上川の河口域を屋形船に乗って川岸を観察していると、古い石垣と船はかつて川を使って行われていた水運の痕跡。上陸して巨大な倉庫の中の米、酒田は最上川流域の天領米を集め、西回り航路を通じて一大消費地・江戸に送り込む重要な場所だであった。
この航路を利用して発展したのが、北前船。米だけでなく日本海側の優れた産物を流通させていた。そこで、繁栄を極めた豪商・本間家の旧本邸は600mの屋敷の広さ。部屋数23の大邸宅と工夫を凝らしたインテリア、北前船の帰り船底に積んだ石が庭に集められた全国の名石。ご子孫も登場して徳川斉昭の掛け軸や加藤清正ゆかりの瓶もご披露されてタモリさんもびっくり!
では、酒田の繁栄を支えた港が一望できる公園に来ると、いきなり吹きつける強風10m以上は年間100日も、しかも海岸はほぼ直線で、風よけもない酒田の港の弱点を克服するところは、沖合39キロも離れた「飛島」。そこには高さ40メートルの垂直で巨大な流紋岩の舘岩は天然の風よけ屏風の風待ち港で、飛島は酒田の港に入れないときの避難港となっていた。
地形と農作物、人間の知恵と工夫があいまって生まれた酒田の港町は江戸日本を支えた港町であった。