9/17(水) 昨夜の退社は八時過ぎ。それから「ローカーボ」で久々のフローズンダイキリを飲み、ハイボールを頂く。この日、情報誌の取材スケジュールが全て決まった。ホットした気分が、カクテルを飲む気にさせたか・・・。
其処から、「ちょっぷく」に立ち寄った。奥で常連の助っ人隊の面々が賑わっていた。九月・二人の誕生日とかで、そのお祝いの最中であった。私もその場に拉致され、祝い酒の吟醸酒と焼酎(魔王)をふるまわれた。何時も元気なメンバーである。魔王は、SEIJUのママからのお祝いだとか・・・。
-南松院と東光寺―
故・小澤先生の奥様より「新生 10月号」(倫理研究所発行)と、致知の日めくりが、古い刊行物に紹介されている『南松院』の記事が届いた。奥様も九十歳に届こうと云う年令だがお元気のご様子である。
出会いは、今を去る四十年余も遡る、古いこととなる。もうすぐ半世紀が経とうと云う頃のことだ。私自身は、そんなに月日が経ったとは思わないが、数へてみればそんな年月を経ている。それが『南松院』、臨済宗妙心寺派で、山梨県身延町下山にある寺を訪れた最初である。
と云っても、訪れたのは都合三度だけだ。最初は下見で、後の二回は夏の合宿でお世話になった。当時、私は剣道部のリーダーをしており合宿先を探していると、当地出身の部員(望月君だったか)から、この寺の住職が剣道家で寺の境内に道場が有ると聞かされた。それで、一度目は下見に来ている。それから二年連続してここで夏の合宿を行った。
『南松院』の住職は小澤常敏先生といい、学校の先生をされていた。気性のさっぱりした先生で、胸襟をひらき我々を快く受け入れてくださった。三十数名の部員とともに、地元の剣道愛好家を交えて稽古をしたのは、つい先のことのようである。
その後、私は転勤となりチームを離れ、合宿場所も変わった。が、小澤先生との年賀の挨拶状だけは先生が逝去されるまでつづいた。先生は、学校を退職された後、生家の寺『東光寺』(富士市南松野)を継がれ、南松院住職も兼務されていた。先生からは毎年、南松院へ東光寺へ、立ち寄るようにとお誘いを受け続けていた。
漸く腰を上げて、富士市の『東光寺』を訪れたのは、先生の葬儀の日となっていた。大勢の坊さんが居並んだ、住職らしい荘厳な葬儀の後、合間を縫って奥様に挨拶をした。驚いたような表情は多分、四十年ぶりに見る私の顔であったろう。確かに、あの頃の精悍で、ふさふさとした黒髪は跡形もないのだから・・・。そんな時代を誰も知らねえだろうから、なんとでも言えるが。
若かりし頃の合宿で、奥様にもお会いしてるし、お世話を掛けた。その頃の面影を探そうたって、お互いどこに有るやらだ・・・・。が、先生が亡くなってからは、奥様から賀状を頂き、時折、本山の冊子なども送って下さる。小澤先生は、私の亡父と同じ年頃であろう。先生は、お寺の修行で入った大学から、学徒兵として従軍しておられた。
そんなことを知ったのも、先生が亡くなれた後に奥様から贈られた本「辻参謀と七人の僧」と云う本で知った次第。それだけ先生と話をする、聞く機会がなかったということだが。
未だ奥様から、「奥さんも連れて、富士に遊びにいらっしゃい」と誘って頂くが、腰が重い(私の家人も当時の剣道部員であり、よく覚えておられる)。多分、私より先に逝かれれば、そっと葬儀の場の片隅に座らせて頂くことであろう。その折が、東光寺を再び訪れる日になろう。
―思い出は連鎖し―
昨日そんなことを、頂いた冊子などを見ながら思っていた所為か、深夜に目覚めた時「みんな夢の中」という懐かしい歌が聴こえてきた。ラジオを点けたまま寝入り、深夜の三時半に目覚めたのだ。そこで蘇ってきたのが、三島市本町の「バー・リラ」のマスターだった田村勝利さんのことであった。
「みんな夢の中」は、高田恭子さんが唄いヒットした。その高田さんをゲストに招いて、三島市の飲食業組合の創立何十周年かの祝賀会が催されたのは、私が未だ二十歳代の頃であったろう。当時、田村さんは、その飲食業組合の代表を当時されていた。
学生時代からバー・リラに出入りして昵懇となり、三島を離れる前の数ヵ月をリラのカウンターの中で過ごした。そんな縁で、サラリーマンになってからも度々三島を、リラを訪ねていた。何時も一緒に遊んでいたHOSOKAWAがTV業界に居たことから、マスターから相談を受けたのが、飲食組合の記念パーティの目玉として芸能人を呼びたいが・・・予算が限られている。であった。
TV業界でADやディレクターをしている業界人HOSOKAWAに話をし、無理が利く芸能人で名が知られている高田恭子さんに出て貰うことになった。勿論、表からではなく、裏からの出演であろうが。当日は、私もHOSOKAWAも会場に詰めたのは云うまでもない。かつてのヒット曲「みんな夢の中」を唄った。
深夜のラジオから流れるこの歌を聴きながら(唄は山崎ハコだったが)、あの日の三島のこと、マスター田村さんを思い出していた。それから十年程で、マスターは声を無くし、そして亡くなった。私が墓前を訪れたのは、更に十年程経った後のことであった。
眠れないままに夜明けを迎えた。今朝は簡単に「オムスビ」と決めてあった。鮭とタラコを焼、梅干しを用意した。三種のオムスビを握った。小さいものを含めて都合九個。これを海苔で包んで完成だ。そして、卵焼きとゆで卵を作る。長女は、今日も休みだとかで弁当不要。
会社のベランダに置いた朝顔が、そろそろお仕舞の時期だが咲き誇って綺麗だ。例年になく、次世代に残す種も大きく膨らんでいる。