オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

穏やかな一日・・・

2019-03-31 | Weblog

3/31(日) 年度末と云えども、素浪人にとっては係わりのない一日。穏やかな一日となった。暇なので、午後から散歩がてらに水辺の遊びに出掛けた。

                  

平和島に着いたのは二時過ぎで、あまりの暖かさに驚いたが、その暖かな気分も二レースが終わるまでの間であった。束の間の暖かい気分も、続いた三レースで冷え込んでしまった。最終レースがスタートする間際から雨粒がポツリポツリと落ち始めた。

              

この雨粒が干天の慈雨となるか?涙雨となるか?そんな気持ちでレースのスタートを見守ったのであるが・・・・。非情な結末を迎えることになったのである!。まあ~こんなものさと、我が胸に言い聞かせて無料バスの列に並んだのであった。

 

トータルでは若干のプラスだが、逃がした魚は大きかったと反省をするのは常だが・・・・。反省ばかりの人生、ダメOYAJIである。それながら楽しく遊ぶ、我が人生である!。

 

 — 思い出酒場(3)ー

今回の思い出酒場は、八重洲北口の「グリン」と云うスナックである。前二店と異なり、店は未だ営業をしているはず。三代目となる息子のJUNちゃんが継いでいると思うが。

「グリン」初めて行ったのは、本社勤務となってから一年ほど経った頃か。先輩に連れられて行ったのが始まりである。八重洲の北口を渡って、一つ目の路地を右に折れて直ぐ、寿司屋の二階で板張りの階段を上がった。床も板張りで、酔って床を強く打つと階下の寿司店からクレームが来た。

何処にもあるようなスナックながら店の歴史は古く、当時のママは二代目の喜美子さんだった。カラオケはカセットデッキを差し込み歌集を見て歌うシステム。そんな時代であった。カラオケを歌うようになったのはこの頃からであろうか・・・。

妙に店の雰囲気が気に入り、地方からのお客さんがあると二次会で案内した。そんなことを繰り返すうちに、一人でも飲みに行くようになっていた。そんな中で、常連のお客さんとも親しくなり話をするようになっていた。皆さん落ち着いた大人であった。

ママの友人で渋い大人の中村さん、私と同じ会社であることが判明する岩淵さん、大手町の某新聞社の営業という佐藤さん達と仲よくなり話が弾んだが、私はママや皆より十五歳以上も年若であったが・・・。

「グリン」がはねたと後、喜美子ママの妹さんがご亭主とやっている「トムの店」、赤坂山王下の乃木坂通りの入り口にあったカウンターだけの細長い店にも皆でよく向かった。帰りは当然タクシーになるのだが、大森に住まいがある喜美子ママを送り、環七を北上して都立大学の社宅まで帰ったことは数えきれない。

ママや皆からすれば小僧のような私であったろうが、分け隔てなく大人として仲間にしてくれた。

いつしか、喜美子ママ、トムの恵美子ママ、中村さん、岩淵さん、佐藤さんと私の六人で会を作ろうとなり、竹林の七賢人を捩り「竹林の六賢人」と云う会の名称にした。要は六人で示し合わせて飲み行く会であったが。幹事役は若い私と云うことになっていた。

「グリン」で飲む酒は楽しかった。作法をわきまえた大人たちに交じって、少しは大人になったような・・・。何時しか本社から転勤する時期になり、当時、東京通信局の某部調査役だった岩淵さんから「どこが希望なの?」と訊かれ、応えたのは『岩淵さんとこの、管理係長ポストが空くでしょう。そこがいいですね』だった。

「そこは無理だね、もう入る人も決まってるようだし、ラインで固まってるから」だった。他からも聞いていたが、そのことは承知の上で応えたのだが・・・。岩淵さんは人事担当じゃないので、それ以上のことは言わなかった。

処が、人事発令があり私はそのポストに収まった。当時の上司や、その前の上司たちが動いてくれていた。かくして、岩淵さんと同じ職場に勤務することになった。「グリン」を媒介した不思議なご縁である。

私が六本木勤務から日比谷勤務になり、暫くして喜美子ママが引退した。お嬢ちゃんが暫くママの後を継ぎ、そして息子のJUNちゃんが後を取ったが、我らの足が遠のいた。喜美子さんが居ない店は、僕らのグリンでなくなった、これは致し方ないことだが。

そして、私が横須賀研究所で勤務していたある日、喜美子さんが亡くなったと岩淵さんから連絡を貰った。二人で通夜に行き、その帰りに大森駅まで偲び酒を飲んだ。思い返さば、葬儀場は平和島であったはずだ。私が水辺で遊ぶ時に前を通る葬祭場であったろ。今になってそれを思い出すとは・・・。

岩淵さんが亡くなられて四年が経つか。その三月ほど前に「奈加野」で一杯やろうと声を掛けれていた。果たせぬままに、岩淵清さんも逝かれた。

「 酒場」で出会い、その酒の作法をみて親しくなる。人それぞれながら、出会う人、出会う人、皆さんいい人ばかりである。酒場のマスターも、ママさんも心に残る人ばかり。私にとって「酒場」は人生の道場と云って過言ではない。そんな気がしてならない。

この「思い出酒場」は、今は無き店や人との思いでを記すものです。現在進行形の店や、人については触れません。

 

 

 

 

 

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目黒川&武桜会2019㏌東京

2019-03-31 | Weblog

3/31(日) 年度末の日曜日を迎えたが、なんのお思いも湧かなくなった。かつては、職場を去る人たちのこと、そして翌日の新年度からスタートする若者たちに思いをはせたものだが・・・。一区切りをつけた後の生き方とは、こんなものであろうか?。

29日に帰京し、夕方から目黒川の桜を愛でるべく中目黒に行った。駅前から通りを渡った川沿いまで人出でごった返していた。例年の光景が広がる中を、高架の東急線とホームを見上げる大衆酒場「大樽」でUSUI老に合流。二杯ほど飲んでから狭い川沿いを歩きながら観桜となったが・・・。

      

小さな川を挟んだ両側の道は四メートル幅か。両岸からトンネルのように川を覆う桜はライトアップされて白く浮かんでいるが・・・人が多い、人の波、渦の中をノロノロ歩む。未だ7~8分咲か?。100mほど歩いて橋を渡って駅へと戻った。これで、今年もここの花見をしたと云うことだ。

                  

 そして人形町へと向かった。「高松」に席を確保してあったので、ここでHOYA兄いを迎えて飲む。満席である。さもあらん、週末・年度末の金曜日である。そして「ローカーボ」に移動したらここも混んでいた。正式には今宵で店仕舞いすることになっている。

『マスターが店を開けないなら、転居までの何日か俺がやろうか?』なんてことを言いながら常連の連中を相手に飲むうち・・・酔いが深くなる。「ちょっぷく」に移動するとこの広い店が満席!。「うまし」へと向かい、先着のHOYA&USUIの両御大に合流。界隈の行きつけの店はどこもかしこも満員御礼であった。遅い時間となり再び「ちょっぷく」に寄りなんとか席を確保した。帰京した夜は、そんな週末であった。

 

そして翌日となる昨夕、故・古賀武夫さんの生誕を祝う会を本家の佐賀・地球市民の会と連動した「武桜会2019in東京」が渋谷・道玄坂にある某社であった。古賀武夫から英語・空手に加えて人生とはなんぞやと、教育された弟子たちの企画による。

集まったのは古賀さんの次男YUDAI君夫妻、某省庁の役人DAISUKEとその同期が三人と、七人と少数ながら先ずは始めることが大事だ。佐賀と繋いだ映像を見ながら勝手放題であった。因みに某社とは(株)ペライチでYAMASHITA君が代表の気鋭のITベンチャー企業です。

                  

九時半、会を終えて外に出ると雨になっていた。

 

 

 

 

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