オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

帰京に備え・・・

2019-03-28 | Weblog

3/28(木)明日は帰京となる。十日余の郷里での滞在であったが、過ぎてしまえはあっというまの期間である。今回の帰省で予定したことは概ねできた。次は何時の帰省になるか、珍しく予定は立ててない。帰京すると新たな動きがありそうだし、そう云う点では先見の明ありか?。

帰京すれば、その夕には目黒川で花見。土曜日は故古賀武夫の生誕祭がある。月曜日は午後からTUGAWA&HANAOKAさんと、恒例になった小金井公園での花見が待っている。

明日の帰京に備えて、最後の畑遊びでミカンの収穫と焼芋をした。焼芋は三度目になるので、上々の焼け具合であった。谷川に従弟が植えた葉ワサビを採取して夕食の摘みにした。昨晩、安芸市の白川すし店でこれが摘みに出たので作ることにした次第。お酢を入れたものと、擂りごまで和えたものの二種を作ってみた。

                

 洗濯物を仕舞い、夕食の準備をしたが、今夜のメインは「スキ焼」である。隣近所の従姉と従弟が来るので最後の晩餐らしく、土佐和牛の肉を昨日に買っておいた。

                

晩餐のメニューは、葉ワサビが二種、イカ&ネギの酢味噌和え、イカと芋の天ぷら、茄子&椎茸煮、茄子の味噌炒め、自然薯汁にサラダなどであった。今回の帰郷で完全に体重が増加したようだ・・・。

                

 

川沿いの桜が漸く四分咲となった。着実に春は深まり、季節は巡ってゆく・・・。

                  

 

 — 思い出酒場(2)—

その店は「ココ」といい、高円寺駅北口の路地にあった小さなスナック(あの当時、スナックと言ったか?)で、十人も入れないような店であった。

三島から東京に移り、東十条の三畳間のアパートから中野の四畳半で暮らした頃であったはずだが・・・。「ココ」に初めて行ったのは、三年生か四年生になっていたのか記憶が定かでない。

アルバイトだけは数多くやった、どれも長続きしなかったがそれはそれでよかったと思う。下手に長続きするとその業界に沈殿したであろうから。土方、清掃、バーテン、映画やTVの仕出しと呼ばれるその他大勢役などを転々としていたのだから。

四畳半の家賃が6~7千円でなかったか?。見栄を張って仕送りは1万5千円でいいと言ったが、足りない分はバイトだった。色んな世界を知りたいという興味の方が強かったと思う。

学校の方は、学園紛争で行く必要もなかったし、学内に入れない期間が続いていた時代のことである。

仲間が高円寺のアパートに住んでおり、その縁から高円寺で遊ぶことが多かった。ある日、仲間と高円寺のスナックに遊んだ。石田あゆみの歌う「ブルーライト横浜」が流行っていた頃である。

初めて入った店にいた姉さんから「今度、新しい店に変わるから、遊びにきてね」と言われた。その移った店が「ココ」であった。なぜか、行かなくちゃ悪いような気がして行ったのだが。その姉さんは小柄で丸ぽちゃで何時も着物であった。名前は記憶から失せたが。

「ココ」に、二~三度顔出しするうちに、その姉さんは店を辞めて何処ぞへと居なくなった。そんなこととは関係なく、小さな店、落ち着いたママの大人の雰囲気が好きで時々顔を出した。そんな中で、バーテン経験があるということからバイトを頼まれてカウンターに入るようになった。

ママさん一人に、ど素人のバーテン。そんな小さな店だった。お客さんは熟年層が多く、酔っ払いの映画か演劇畑らしい人が印象的であった。ママの素性も知らないし、若僧には感心もなかった。ただ、大柄でたおやかな大人の雰囲気が好きだった。

お客さんの数も、支払額も大したことはないながら、勤務時間を超過すると残業代が入っていたのに驚いた。

こうして当時のことを思い返すと、多分四年生になっていたろう。下宿は中野駅ながら、住所は南高円寺になる安達さんの処に下宿してたはずだ。就職後も二年ほど安達さんの処で世話になっていたから・・・。と言うのも、就職してからも「ココ」には顔だししていたから。中野駅から一駅先の高円寺まで乗り越して。

ただ、「ココ」が何時店を閉めたのか覚えていない。が、就職してから短い期間であったろう。それからママはサンフランシスコに住み、そこから絵葉書を貰った。「こちらはレイニーシーズンです」とあったのを覚えている。

ママに再会したのは、結婚を前にしてママが勤めているという品川駅前のホテルの花屋を訪ね、報告した時であった。そして娘さんが居るというハワイに住み、その後、日本に戻ったことまでは分かっているが・・・、とそこから音信が途絶えた。

店を閉めた後、居所が変わるたびに絵ハガキが届き、心強くなるような言葉が何時も添えられていた。そんな心優しい大人の女性であった。どんな人生を送られてきたのか、山や谷を乗り越えてこられたのか知らない。何時も穏やかな方であった。

「愛媛の穏やかな北条の海が好きです」と、ある時のハガキには書かれていた。ママさんの名は、吉田夏子さんと云った。生まれは、福井・大野市と聞いたことがある。家人が福井生まれと伝えた時のことである。ご存命であればいいが・・・。

高円寺駅北口の路地にあった小さな店「ココ」。学生から社会人へ、結婚と移り行く中で出会った、大人と云う存在を知った貴重なページである。

 

 

 

 

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竹林彷徨えど・・・

2019-03-28 | Weblog

3/28(木) 目覚めると夜も明けぬ四時半であった。昨夜、久々に安芸市内のすし店「白川」で一杯やり、二軒目は店名も覚えていないスナックで濃~いハイボールを飲んでカラオケに興じた。零時前に帰宅してすぐに布団に入ったが、酔いが覚めての目覚めであろう。

地元の〒局長と一緒だったが、すし店のカウンターで隣合わせた客はその人の従兄だった。更に、同伴していた方が私と同じ地域の出身と判明したのだ。我が家や親戚のことなどよく知っていた。偶然に居合わせたとは云え、田舎は狭いねぇ~。そんなことを実感する夜となった。

               

暖い日が続き、橋の袂の桜も咲き始めた。そんな陽気に誘われたわけでもないが筍を掘りに行き、竹林を彷徨った。彷徨えど目当ての筍の姿を見つけることができなかった。発見したのは、なんと鹿&猪の罠であった。従弟が仕掛けたものであろう。

          

僅かに植えた庭のチューリップも咲き揃い、数少ない花も咲いて春の到来を実感する。菜の花の先に見える山里も春そのものである。

           

 

そんなノンビリトとした日々であるが、明日は帰京だ。今日はネーブルと清美を収穫し、最後の焚火をと思っているが天気が思わしくないようだ。

不動産屋のマッチャンから電話があり人形町の申し込みを入れてあった店舗が決まりそうだとのこと。

店の方は条件が厳しいので半ば諦めていたのだが、申し込みがあった各社も降りたようだ。帰京してから契約内容のチェックや、家主との面談があるようだが店を開く確率が高まってきた。我が人生、最後の遊び場となろうか・・・・。

 

 

 

 

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