ひまわりさんより(5月6日)
先週の日曜日に、父の畑を借りて、ホウレンソウの種を播きました。
父は、間引きをするから、たくさん種を播いた方がいいと言いましたが、
私は、せっかく命が与えられて芽が出たのにそれを間引くのはかわいそうなので、
間引かなくてもいいようにパラパラと播きました。
1週間たって、少しずつ芽が出てきました(上の写真)。これから、何回かに分けて収穫できるように、
間隔をあけて播いていく計画です。
ところで、植物の固い種は、適度な温度と水分、そして、土の中に埋められ暗黒を通ることによって芽が出てくるそうです。
人の霊的な誕生も、これと似ていて、暗闇の体験を通らなければならないように思います。
イエス様が言われた、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、豊かに身を結ぶようになる」(ヨハネ12:24)は、
自我の死という、暗闇を通って初めて、人が新生し、豊かな実を結ぶようになっていくことを教えていると思いました。
(今日からデビット・カン先生のメッセージは新しいシリーズになりました)
二つの契約
二人のアダムの再会 (デビット・カン講演1)
天国の神様の御座の周りに、私たちが共に集まるとき、私たちは皆、同じ言葉を話すようになります。
そのとき、この世界で経験したあらゆる悲しみ、悪い思い出などは忘れ去られています。
かつて自分たちがとても罪深くて、邪悪な者であったということは覚えています。
しかし、神様の恵みによって過去に行った罪深い行為とか、そういったものを記憶しないようになっているのです。
なぜなら、私たちは、罪の除去という経験にあずかるからです。
私たちの脳から、あらゆる罪の記憶を神様が消去してくださいます。
そこで、救いの喜びを、完全にして十分に味わうことができるようになるわけです。
私が小さかった頃、母から聞かされた話があります。
私は5人兄弟として育ったわけですけれども、私がひとり男の子で、あと姉が1人、妹が3人いました。
そのとき母から聞かされた話で、一番印象に残っているのは、第1のアダムと、第2のアダムが再会するという話でした。
イエス・キリスト、救い主イエス様とくらべて、アダムの背丈はだいたイエス様の肩ぐらいなんです。
そして、そのとき、救われたすべての人に、イエス様が金の冠を授けてくださいます。
その一つひとつの冠には、私たちの名前が刻まれています。
ガラスの海で、何らかの順番通りに整列するわけですけれども、一人ひとり、天使たちに名前が呼ばれます。
最初に呼ばれる名前はアダムです。第二のアダムであるイエス・キリストの前にアダムがやってくるとき、
アダムはどういうわけか、その冠を受けるのを躊躇するのです。
なぜなら、彼は自分のせいで、自分が失敗したせいで、
この6000年もの罪深い悲惨な歴史を引き起こしてしまったという事実を知っているからです。