8.救いと報い
私たちは、この問題の最も重要な局面に入ってみましょう。なぜ、イエス様はこの地球に再び戻ってこられるのでしょうか?使徒ヨハネは、この答えを記録しています。「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう」(黙示録22:12)。
気が遠くなるほど長い数千年の苦難の歴史を通して、神様の民はたえずサタンの勢力によって拘束され、束縛されてきました。悪魔の勢力の印は、地上の聖徒たちの共同墓地や殉教したキリスト教徒たちの墓碑の上に押されています。聖徒たちの涙とうめき声は、アダムが罪を犯して以来、全人類の歴史を通して途絶えることなくあげられてきました。罪の呪いが消え、全人類の最大の敵が永遠に消え去る日が早く訪れることが、どんなに待ち望まれることでしょうか?パウロはその日の事を、次のような言葉で描写しました。「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(Ⅰテサロニケ4:16,17)。
キリストが携えてこられる報いは、どのような言葉をもってしても表現できないものとなるでしょう。何よりも、死んだ義人たちが復活する光景は、荘厳さにおいて、歓喜において、私たちの想像をはるかに超えた栄光あるものとなることでしょう。数世紀もの間、眠っていた多くの聖徒たちが、まるで夢も見ずに一晩熟睡して朝を迎えた時のように、すがすがしい心で起き上がるでしょう。その時、ある人たちは、生涯自分を苦しめてきた痛みから解放されるのです。また、感触と声を通してしか愛する者を知ることが出来なかった人たちも、自分の目で愛する者を見ることが出来るようになるのです。
パウロは、聖徒たちが一瞬で変化し、永遠に死と苦痛から解放されるということを、このように描写しました。「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである」(Ⅰコリント15:51-53)。よみがえった者たちが空中でイエス様に会うために起き上がり、全ての生きている聖徒たちが、一瞬で不滅の若々しい体に変化します。イエス様の足は、その時地を踏むことはなく、全ての救われる者たちが空中に引き上げられ、空中にとどまっておられるイエス様にお会いするのです。その再会の光景は、地球の歴史の中で、最も感動的で喜びに満ちた場面となることでしょう。聖書の多くの言葉が、その祝福の瞬間を、最も熱気を帯びた口調で描写しているのも当然なことといえます。
現代の多くのクリスチャンは、キリスト再臨についての正しい理解や、それがどのように人々に影響を及ぼすかについて、ほとんど理解していないと思われます。ほとんどのプロテスタント教会員が、彼らの原点である宗教改革者たちの見解から離れ去っており、カトリック教会に由来する秘密携挙説を受け入れています。その結果、多くの教会が決して起こりえない出来事を切に待ち焦がれているのです。計り知れないほど多くの人が、主の来臨を非常に恐ろしく、荒唐無稽な出来事にしてしまっています。多くのクリスチャンが、再臨の出来事について無感覚な理由は、彼らが主を迎える個人的な確信が不足しているためだと言えます。