そこで使徒パウロは、次のように真剣に問いかけました。「みんなが使徒だろうか。みんなが預言者だろうか。みんなが教師だろうか。みんなが力あるわざを行う者だろうか。みんながいやしの賜物を持っているのだろうか。みんなが異言を語るのだろうか。みんなが異言を解くのだろうか」(Ⅰコリント 12:29,30)。答えは明らかに「いいえ!」です。従って、ある奇跡や賜物があるからといって、その人が、真実のクリスチャン信仰を持っている、と救われていることの証拠としてはならないのです。イエス様は「このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである」(マタイ 7:20)と言われました。そして聖霊の実は「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ 5:22,23)なのです。しかし、教会はもちろんですが、個人でも、異言などのある特別な賜物を持っているかどうかで、互いを評価したり判断したりしています。
おそらく、異言ほど教会の中で、問題を引き起こすものはないでしょう。本来、霊的賜物が教会に与えられる主な目的は、「神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致」(エペソ 4:13)に導くためなのですが、現代の異言は、逆に教会の不一致と混乱の要因となっているのです。今日、異言を語るクリスチャンたちは、異言を語れない人たちの信仰を未熟なものとみなしています。反対に、異言を語らない多数のクリスチャンたちは、異言を行う人たちに対して劣等感を持ったり、あるいは、狂信的な人々と見なして軽蔑する傾向があります。
もちろん、聖書には正しい異言の賜物があることは約束されていますから、全ての異言を否定することは、明らかに間違っています。イエス様は昇天される前に、「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、・・・」(マルコ 16:17)と語られました。この賜物はペンテコステの日に初代教会に与えられ、伝道のための非常に効果的な賜物となりました。聖霊は、人間が一生頑張っても達成できないようなことを、一瞬にして彼らのために行ってくださいました。その日から彼らは各地を訪れて福音を伝え、その地域の言語を簡単に話すことができました。この奇跡的な賜物は、彼らが天で承認された者たちであるという事実を、世界の人々に伝える強力な証拠となりました。
聖書のどこを見ても、このような異言の賜物が、最後の時代には無価値なものになるという暗示はありません。むしろ私たちは「こうして、あなたがたは恵みの賜物にいささかも欠けることがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れるのを待ち望」まなければなりません(Ⅰコリント 1:7)。そしてすべての霊的賜物は、教会が「キリストの満ちみちた徳の高さにまで至る」(エペソ 4:13)よう教会の中で正しく用いられなければなりません。しかし、すべてのクリスチャンが霊的賜物を用いたり、見分けたりする時に忘れてはならないことがあります。聖書は最後の時代に、サタンが、真理の上にしっかりと錨を下ろしていない人たちを惑わすために、偽りの霊を送って偽りの体験を与えることをはっきりと警告しています。サタンもまた「あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議」(Ⅱテサロニケ 2:9)を行うと言われています。「こういう人々はにせ使徒、人をだます働き人であって、キリストの使徒に擬装しているにすぎないからである。しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから」(Ⅱコリント 11:13,14)と言う警告を覚え、正しい判断をしていかなければなりません。