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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

異言とは何か? 第1回

2016年05月19日 | 日記

 第1部:奇跡と賜物を求めますか?

 1.序論

 

夏休み、信一は休暇を過ごすため、実家へ向かっていました。無宗教であった母親が、最近クリスチャンになり、祈祷会にも出席していることを聞き、彼は道中、心弾んでいました。これから母との信仰の壁がなくなり、クリスチャンとして話し合うことができるようになったことが、とても嬉しかったのです。家の玄関に着くとすぐ、「主よ、感謝します」という母の喜びに溢れた大きな声が聞こえてきました。それは、旅の疲れを吹き飛ばしてくれました。そんな言葉を、これまで一度も聞いたことはありませんでした。その日の夜、疲れてはいましたが、信一は、母と共に祈祷会に出席できる喜びを、諦めることなどできませんでした。

 

信一は、母と他のクリスチャンたちが賛美歌を歌い、互いに自分たちの体験を証し合う姿に見とれていました。様々な人々が、自発的に信仰の喜びや感謝をあらわしました。罪の告白と感情のこもった祈り、両手を上げて熱心に祈る姿は、聖書的なものだと思えました。しかし次の瞬間、彼はとても驚きました。人々が異言を語りだし、「神様の聖母マリアがこのようにおっしゃいました・・・」という異言の解説が続きました。

 

信一のこの経験は、現代の多くのクリスチャンが直面している問題を、よく表しています。今日多くのキリスト教会では、聖霊の賜物を真剣に信じているため、異言や預言、病気の癒しなどの超自然的現象が、本当に神様から来たものであるかどうかを疑ってみることさえしていません。もちろんそのような人たちも、全ての奇跡的な現象を、神様から来たものとして受け入れてはならず、聖書のみ言葉に完全に一致していなければならないことを知っていますが、自分が経験していることについては、そのような原則を適用しません。とても素敵に包装された箱であっても、その中にプレゼントが入っていないかもしれないのです。きれいに包装された物が、すべて良いものとは限りません。もしかしたら、悪意のある人が危険物を入れているかもしれません。霊的賜物と呼ばれる感情的興奮や奇跡の裏に、神様からのものではない何かが隠されているということはないでしょうか?

このような非常に重大な質問の答えを探すために、私たちはまず、神様からの真の賜物は、「すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである」(Ⅰコリント 12:11)という事実を覚える必要があります。自分たちが、自由に思いのままに聖霊を用いるのではなく、聖霊ご自身が、福音事業を進めるために、あなたの祈りや願いに応じて、人を通して働かれるのです。聖霊の賜物は、人間が自分の必要に応じて選ぶのではなく、聖霊が主導権を取って、人の必要性と目的に沿って、準備された人に与えてくださるという聖書的真理を忘れてはいけません。