コリント教会と現代の教会の状況を比較してみると、霊的賜物をどう扱うかということについての基本的な考えが違っているように思われます。おそらくパウロは、コリント教会に対して、サタンの支配下に陥った悲しむべき状態と宣言したかったはずです。しかし彼はそうしませんでした。耐え忍び、親切に、彼らと労苦を共にしながら、正しく彼らを指導しました。その結果コリントの教会員たちは、成熟したクリスチャンになることが出来ました。同様に、未熟なクリスチャンを愛で養育し、聖書の真理によって育てることが、今日の成熟したクリスチャンたちの責任です。現代の異言をすべてサタンの仕業だと言うのは正しくありません。それは、福音の活動に逆効果となります。たとえサタンが今日、いろいろな異言や聖霊の賜物を与えて不思議な現象を起こしているように見えても、神様は熱心に神様を探し求める者たちを知っておられ、彼らを安全に守ってくださるのです。使徒パウロがコリント教会にしたように、今も忍耐を持って救われるべき魂を探し出し助け続ける、そのような聖徒たちが必要です。未熟なクリスチャンというのは、キリストの周りに集まってくる幼い子供のようなものであり、キリストはご自身に従う者たちに、彼らの面倒をみる責任を与えられます。ですからこのように語ることが出来たのです。「また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい」(マルコ 9:42)。
皆さん自身の生活を振り返ってみてください。皆さんの生活の中には聖霊の果実が実っていますか?皆さんの証しは聖霊の能力によって力と愛と慎みがみなぎっていますか?「自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか」(マタイ 7:4)。私たちは、自分自身の足りなさを深く認識した時、自分たちよりもっと弱い人たちを、愛と配慮によって見守ってあげることが出来ます。一人の魂が真理の中へ導かれるためには、聖霊の臨在によってその人の心が動かなければなりません。
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ 4:23,24)。
3.あなたは知っていますか?
歴史をたどってみると、宗教的礼拝において、無意識の没我的状態を起こさせるようなやり方は、キリスト教会が成立する何世紀も前の異教主義に由来しています。一心不乱に経や呪文を唱えたり、意味のない音節を反復して没我状態を引き起こしたり、人を夢幻の世界に誘い、一種の催眠状態にして宗教的な高い境地に導こうとするのです。聖書でも、「自分を捨てる」とか「自己に死ぬ」「自己を十字架につける」などと教えられていますが、聖書の場合には、明確な意識と目的があり、神様と人のために自分を忘れて奉仕することを意味しています。それに対して、聖霊運動や異教の没我状態というのは、自己陶酔であり心理的なトリックと言えるもので、理性を失わせる危険な要素を持っているものと言えます。「自分の口と舌とを守る者は、自分自身を守って苦しみに会わない(新改訳)」(箴言 21:23)と言った賢者の忠告を、しっかり心にとめる必要があります。