では、どのようにしてクリスチャンと公言する多くの人が(イエス様が「多くの者」と明言されました)間違った方向に導かれ、結局他の人々をだます、サタンの代理人の役割を果たすようになってしまうのでしょうか?これは、今日キリストに従う全ての人々が、自分の魂を深く探らなければならない、厳粛な質問です。この質問に答えるために、私たちは聖書の真理と個人の経験についての正しい理解をしていなければなりません。この二つの関係を、すべてのクリスチャンははっきりと理解しなければなりません。真理と経験の関係を正確に理解できないクリスチャンは、サタンの偽りと惑わしに対して門を開いている状態なのです。イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ 14:6)と言われました。キリストのみ言葉の中にあるすべての真理は、クリスチャンを常に正しい経験に導きますが、私たちの経験がいつでも聖霊の導きによる正しいものではないのです。
なぜでしょうか?それは、いつでも真理自体は変わらないのに、真理を理解する私たちの知識と経験は、間違う可能性があるからです。ところが多くの場合、人々は自分たちの間違った知識と経験を根拠に、真理の方を変更しようとします。そして自分たちの体験を正当化するような聖句を集め、自分たちに都合の良い神学を作り上げたりするのです。そのために、現代では、同じ聖書を持ちながら、多くの神学が出来上がってしまったのです。しかし、真理は不変の権威を持っていて、矛盾しません。ですから、それはすべて経験の判断基準となるべきなのです。ただ真理だけが経験を判断し、評価できるのです。私たちの経験を通して真理を判断するのではなく、真理を通して私たちの経験と知識を評価、判断しなければならないのです。
人間の経験によっては、何も定義することができません。それにもかかわらず、サタンの精神は、経験が非常に重要だと人に思わせますが、経験は聖書の教えの枠内でだけ意味を持つものとなるのです。たとえば、何人かの人が同じ出来事を観察するとします。そうすると、各々まったく異なる見方や経験をするようになるでしょう。そのように一つのことを見ても、それぞれ受け取り方が違うように、私たちの経験は、先入観や個性、価値観、偏見などによって大きく違って来ます。ですから私たちは、ある人の経験や考えを絶対視することは出来ないのです。私たちはただ、聖書、聖書によってのみその経験を評価、判断しなければなりません。
そこで、聖霊の賜物を強調する運動が批評を受けなければならない最も大きな問題は、真理によって経験を判断するのではなく、経験を根拠に真理を論じていく傾向があるということです。聖霊の賜物を受けたと主張する人たちの立場や過程はおおよそ次のようなものです。
① 私はある驚くべき経験をした。
② 私は私の経験と非常によく似た経験を聖書の記録で発見した。
③ そのため私の経験は真理である。
これは、非常にもっともらしい論理の展開ですが、似ているからといってその経験が本物であるかどうかは確認できないのです。その人の経験が、初代教会のクリスチャンの経験と似ているからといっても、サタンも本物そっくりの経験を作り出すことが出来、奇跡や、癒しや感情の高揚、異言を語らせることも出来るからです。そのため、自分の経験を冷静に聖書で吟味しなかったり、経験があるからといってそれ以上聖書の学びを深めようとしなかったりする人はとても危険だと言えます。経験を信仰の土台や目標にしている人は、結局、真理や信仰を土台にしていないために、偽りの経験の上に立ち、最後になって、「あなたを知らない」と言われる人になってしまうかもしれないのです。パウロは「真理に対する愛を受けいれなかった」人々について、「そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送る」(Ⅱテサロニケ 2:10,11)と言いました。