SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

異言とは何か? 第6回

2016年05月24日 | 日記

不思議なことに、現代の聖霊の賜物を追求する多くの教会が、神様の十戒は十字架で廃止されたと信じています。今日、ほとんどの教会では、愛が神様の十戒を守ることの代わりになっています。しかしイエス様は、愛と服従は分けることが出来ないものであることを認め、そのことを条件に、聖霊の約束を与えられました。「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」(ヨハネ 14:15-17)。ぺテロはイエス様の御言葉をよく理解していました。彼は、聖霊は「神がご自身に従う者に賜わ」るものだと言いました(使徒行伝 5:32)。イエス様に最も愛された弟子ヨハネは、「彼を知っていると言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない」(Ⅰヨハネ 2:4)と言いました。

 

けれどもある人たちは、新約聖書に出てくる戒めとは、神様がシナイ山で与えられた十戒ではなく、「互に愛し合いなさい」(ヨハネ 13:34)と言われた、イエス様の新しい戒めを指すのだと考えています。イエス様が「新しいいましめをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい」と言われので、新しい戒めによって十戒は不要なものになったのだと言います。しかしここでイエス様は、今までとは全く違う新しい戒めを立てられたのではなく、昔から常に存在していた十戒の中心思想である愛を再度強調されたのだという事実に気付かなければなりません。「新しい戒め」とは、「神様を愛し人を愛する」という十戒の本質そのものなのです。イエス様は十戒の本質が厳格な規則やめんどうな戒律でなく、神様の愛に対する愛の応答であることを明らかにされたのです(Ⅰヨハネ 2:3-8)。そこでヤコブは、十戒の中の一つでも犯せば、全ての戒めを犯すことと同じであることをはっきりと述べています(ヤコブ 2:10,11)。これは十字架以後、ペンテコステから数十年が過ぎた時でも相変わらず十戒の教えが有効であることを証明しています。

 

ではどうして神様は、戒めを守る者に聖霊の賜物を与えられるのでしょうか?それは聖霊の賜物が個人の証に力を与えるためです。イエス様は昇天される前に、弟子たちに「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝 1:8)と言われました。神様は、戒めに従わないで不従順の生活をしている罪人に聖霊の能力をお与えになられるでしょうか?決してそのようなことはありません。イエス様は、聖霊を受ける条件として「いましめを守るべき」(Ⅰヨハネ 14:15)であると明言されたことを覚えてください。サタンは神様の奇跡を真似することはできますが、神様の「戒め」に完全に従うことはできません。もしある人が、神様の戒めや聖書の教えに従うこともなく、キリストの名前で奇跡を行っていたら、それはサタンの働きであり、キリストの霊によるものではないということが、聖書によって明らかになります。