聖霊の油の必要
私たちは賢い乙女とならなくてはいけません。油の入った燈火を持たなくではいけません。ランプを持たなくてはいけません。ランプと言うのは私たちが学んだ真理を表わしています。これらのランプをだれがこれらの乙女たちにあげたのでしょか。その結婚式をとり行おうとしている家族が、ランプを与えました。そして町の灯が消えた時に、このランプに油を持っていなければならなかったのです。教会に行くとき聖書を携えていきますね。しかし皆さんが持っているランプというのは、皆さんが携えたものは、自分で発明したものでなくて、聖書から、また教会から、教会の指導者から受けた教えなのです。
まもなくキリストがお出でになります。こういった教会が編み出した教理というのは私たちを救ってくれません。そのとき灯りが消えてしまうのです。その時に、私たちは腰に余分の油を持っていなくてはならないのです。それは、聖霊を表わしています。自分で聖書を研究しなくてはいけません。聖霊の助けによって御言葉を理解しなくては、真理を理解しなくてはいけません。そういった個人的経験が、皆さんが闇の中を進む時に照らしてくれます。皆さん、自分の人生に聖霊を持っていますか。
昔バビロンの国で、ネブカデネザル王が巨大な像と建てたときに、多くの民衆を呼び寄せて礼拝を強要しました。そして人々は平原に集まって、この像を拝むように要求されたわけです。その場にヘブル人の三青年がいました。シャデラクと、メシャクと、アベデネゴ。彼らはこの像を伏し拝むことを拒みました。なぜでしょうか。すべての指導者たち、権威者たちを含めて全員が、この像を拝むように強要されて屈服しました。しかしダニエルの三人の友人たちは、礼拝することを拒んだのです。なぜでしょうか。理由は何だったのでしょう。神様が十戒の第二条で、刻んだ像を造ってはならない、拝んではならないと命じておられるからです。神様が戒めで偶像を拝んではならないと言っておられるから、この像を拝むことを拒んだわけですね。彼らは神様を愛していたから、そのような行動をとりました。彼らは、神様だけを礼拝し、神様の戒めのみに従った人たちでした。
今後、別の、この「獣の像」というものが打ち建てられることになります。そして民衆にこの像を拝むように強要することでしょう。拝まなければ売り買いが禁じられて、経済活動が出来なくなります。
このことについて真剣に考えてみて下さい。これは礼拝をめぐっての戦いなのです。あなたは誰を拝むのか、真の神様なのか、それとも人間の作った組織や制度なのか、創造主なる神様を拝むのか、人間の権力、権威を伏し拝むのか。