ヨハネの黙示録13章には龍(サタン)から権勢を受ける勢力の象徴として、小さい角の姿が出てきますが、その箇所で、「大きな言葉」の意味を知ることが出来ます。「また、龍がその権威を獣に与えたので・・・この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ」(黙示録13:4、5)。聖書でいう大きな言葉は「汚しごとを語る」と同一の意味を持ちます。それでは「汚しごとを語る」というのは何を指しているのでしょうか?新約聖書では「汚す」という単語は次のような二つの意味として用いられています。一つは人間が自分で自分の罪を赦す権威を持っていると主張することです。「すると律法学者とパリサイ人たちとは、『神を汚すことを言うこの人は、いったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか』と言って論じはじめた」(ルカ5:21)。次に、人間が自分を神様と等しい位置に置くことを言います。「ユダヤ人たちは答えた、『あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである』」(ヨハネ10:33)。
ヨハネによる福音書10章で、イエス様がご自分と神様が一つであると言われると、ユダヤ人たちはイエス様が神を汚したと叫びながら、イエス様に向かって石を投げようとする場面があります(ヨハネ10:30~33)。また、マルコによる福音書2章では「汚れ」についてのもう一つの定義が出てきます。イエス様が中風の者に「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われて自分の持っておられる罪を赦す権威を語られると、ユダヤ人たちはイエス様に向かって、神を汚すことだと言いました(マルコ2:5~7)。こういった聖書の言葉から、聖書が語る「汚れ」を以下の2つに要約することが出来ます。
聖書が語る汚れ
1)人間が自ら罪を赦す力を持っているという主張(マルコ27、ルカ21)
2)人間が自らを神とすること(ヨハネ10:33)
もちろん、イエス様は神様と等しいお方ですから、ご自分をそのように言われることは、正当なことです。また、罪を赦す権威を持っておられるのも事実です。しかし、イエス・キリストではない人間や、勢力が、自ら神様と等しいと主張するならば、彼は神様に敵対する「汚す言葉」すなわち「大きな事を語る」ことになります。小さい角は、神様に敵対する大きな事を言うわけですが、それは、この勢力が自らを神様と等しいとして、罪を赦す権威さえあると主張することを意味しているのです。
7、神様の聖徒たちを迫害する小さい角
「いと高き者の聖徒を悩ます」(25節)。小さい角は神の民を迫害して彼らの生命さえも奪った勢力でなければなりません。
8、時と律法を変更させる小さい角
「時と律法とを変えようと望む」(25節)。神様は偽キリストの勢力によって神様の時(時間)と神様の律法(十戒)が変えられることをあらかじめ預言して下さいました。それは、ご自分の民が偽キリストの欺瞞から逃れることができるためです。小さい角は、神様の律法と、そのお方の時を変更させた勢力でなければなりません。
9、ひと時と、ふた時と、半時の間に権力をふるう小さい角
「聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる」(25節)。ここで「ひと時と、ふた時と、半時の間」は預言の期間を表わす時に用いる象徴的な表現として、小さい角の勢力が、地上でどれぐらいの期間その権力を保持するのかを表しています。小さい角は「ひと時と、ふた時と、半時」の間、聖徒たちを迫害していた勢力でなければなりません。