4、国家的な特性がある教皇権
「十の角はこの国から起る十人の王である」(24節)。十の角が十の王であるならば、小さい角も同じ角であることから国家としての機能がなければなりません。ピラミッド形の組織形態をもつ教皇権は強力な王権を連想させるに充分なものです。実際においても、バチカンは今も教皇が君主として君臨する一つの特立国家であると同時に、絶対君主国家の形態として存在しています。この世界には、バチカンを除いて、どこにも教会自体が国家として君臨する形態はありません。
5、十の角とは異なる属性を持つ教皇権
「十の角はこの国から起る十人の王である。その後にまたひとりの王が起る。彼は先の者と異なり・・・」(24節)教皇権以前の帝国は、すべて政治的主権国家でしたが、教皇権は、政治的、絶対君主国であると同時に宗教的な主権国家という点で、それまでの国家と大きく異なります。それまでの帝国は、人のいわば身体を治めていましたが、教皇権は、人の魂まで治めます。それまでの帝国は、自国の領土内にある民だけ治めましたが、教皇権は、領土や民族を超えて治める世界的勢力です。小さな角には、「人の目のような目」(ダニエル7:8)がありますが、教皇権は世界に広がる情報ネットワークの目を通して、世界の政治と宗教界を監督し判断する役割を果たしています。
6、神様に敵対して「大きな事を語る口」を持つ教皇権
「大きな事を語る口があった」(8節)「いと高き者に敵して言葉を出し」(25節)。第二部で注意して調べたように、小さい角は自分を神と等しいとし、人の罪を赦す権威を持つと語る「大きな事を語る口」すなわち「汚れたことを語る口」を持っていて、「いと高き者に敵対して言葉を出」す勢力です。しかし、果たして教皇権は自らを神様と等しいとしているのでしょうか?また、人間の罪を赦す権威を持っていると主張しているのでしょうか?バチカンから公式に発行された本の内容を中心に、この質問に対する答えを探してみたいと思います。
「教皇だけが最も聖なる者と呼ばれ・・・聖なる君主、至高なる皇帝、そして王の王と呼ばれることが出来る」。教皇はあれほど威厳と力を整えているゆえに、キリストと一つになって同一な裁きを構成できる。そして教皇が行うことは何でも神様の口から発せられたようにみなされる」。 (Pope, Perraris, Ecclesiastical Dictionary)
「我ら(注:教皇ら)はこの地で全能なる神様の座を占めている」。(Pope Leo XIII, Encyclical Letter, 7/20,1894)
「教皇は威厳があり、至高であるがゆえに彼は単純な人ではなく、神であると同時に神の代理者である。教皇は地上の神であって王の王であり、最高の権勢を持っておられれる」(Prompta Bibliotheca, vol. VI, p. 25~29)
「聖書で教会のかしらなるキリストを自称するあらゆる名称と、そのお方の至上権に関するすべてのものは教皇にも適用される」。(Bellarmin, On the Authority og Councils Vol. 2.)