生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

なんのこっちゃ。

2011年11月06日 18時40分51秒 | 生命生物生活哲学
2011年11月6日-1
なんのこっちゃ。


 ふと思いついた。統計学では有意差検定というのがあるらしい。で、適合度検定で、どちらの否定もできない場合がある。ならば、ということで、たとえば赤池の情報量でもって、モデルの良さを評価して、どれかのモデルを選択する。
 しかし、比較できるモデルたちは、そのような評価基準で比較できるものであろう。評価対象としてモデルたちは、ぜーんぶ予測が外れるかもしれない。どのモデルも外れた場合は、過去の現象への(数値的)適合が良くて採用されたモデルも、あたらなければ役立たない。比較したって、意味がなかったことになる。つまり、当たらないことで五十歩百歩の比較をしていたことになる。
 結局、モデルの大きな分類をして、そのような定式化が正しいかどうかが問題である。わからなければ、わからないというしかない。当たるかどうかわかりません、である。例:地球温暖化予想に使われるモデル群。この場合、研究機関によって使われるモデルが異なるようである。どのような種類と程度で異なるのかは、未調査。おそらく、どのモデルも確証されていない。過去の値の再現は経験的試験では、決してない。

 違いのわかる人から、関係のわかる人へ。この方向は正しい。
 たとえば、有意水準を5%にするか、10%にするか、片側検定にするか、両側検定にするか、それらは主観的決断の問題である(確率の値を表示すればよろしい。しかし、なんらかの判断をしたいのも、もっともである)。もっとも、課題に応じての適した水準を決めるということはあるだろう。しかし、その段階でまた、主観が入る。どう課題を解釈し、定式化して、どの_既存_の道具を選ぶか、である。
 むろん、予想に道具は必要である。

 相手を知り、己を知れば、百戦危うからず。
 したがって、百一戦目には、役立たないかもしれない。敵は自分よりも、防御と攻撃のどちらか、あるいは両方で、自分よりも進歩しているかもしれない。
 しかしまた、武力に訴えるというのは、上等ではない。こんにち、世界を混乱させ破滅に向かわせているのは、金力である。とりわけ、金融において危機的である。
 銀行口座の残高といった数値的貨幣の力や現物的財物に力を付与しないためには、物物交換、物労交換、あるいは労労交換が有効であろう。あるいは、或る範囲内での信用をもととした地域通貨である。