2017年5月6日-1
美術修行 読書録2017年5月6日:三瀬夏之介・池田学 2011/6 現代アートの行方
三瀬夏之介・池田学[・は×の代用].2011/6/10.現代アートの行方.123pp.羽鳥書店[はとり文庫].[本体価格700円+税][B20170328、756円。][Rh20170330]
面白いと思ったのは、次の箇所だけであった[が、とつづく。→「本日さきほど、」以降を見よ]。
「〔三瀬夏之介〕「先生、芸術って何ですか?」って本当にバカみたいに直球のボールを投げたら、高階〔秀爾〕先生が即座に「世界観の拡張です」と答えられたんです。」
(三瀬夏之介・池田学 2011/6、113頁)。
高階秀爾氏の答えは、大風呂敷で包んだといった答えである。日本画の定義ではない。正しくは correctly または 精確には precisely 、「世界観の拡張の手段または方法または実践の一つです」といったところか。
「何ですか?」の問いは、定義を訊ねているとすれば、
芸術=【定義】=世界観の拡張
となる。左辺の言葉または事項と、右辺の言葉または事項の、両辺が等しくなければならない。
書き換えれば、
い: 芸術ならば、それは世界観の拡張である。 [芸術→世界観の拡張]
ろ: 世界観の拡張ならば、芸術である。 [世界観の拡張→芸術]
の両者が成り立たねばならない。つまり、どちらからも導出されることである。
あるいはむしろ、そのときの芸術的活動の文脈または質問の文脈に応じて、芸術の性質についての本質 essence または本質的性質 essentialistic property の一つを強調したものであろう。
日本画を、
地球人のうちの或る種類の人々
(「日本人」とは何か?、アイヌ人やギリヤーク人(→ニヴフ人)や琉球人、系譜では縄文人か弥生人か混血も含めて両方の子孫たちか、杣人など、を含めるのか、の問題が生じる。あるいは日本国籍を持つ人とするか、)
による絵画と定義するか、
膠といった或る種類の接着材の使用で定義するか(アートグルーや木工ボンドは?)、
あるいは、岩絵具といった絵具の種類で定義するか(顔彩や水干絵具だけとか、水彩絵具と水晶末だけの場合は?)、
線引きは、現実にジェッソや水彩絵具やアクリル絵具を使って日本画と称する人がいるので、無理である。
数年前か、名古屋での創画展では、数ミリの厚さの(牛の?)皮だけを全面に貼り付けたものが、受賞作品だった。
すると、絵具などの材料ではなく、「日本的」または「日本美的」でもって、定義するのは一方法である。
しかし、これもまた、論争になる。たとえば、わびさびは、日本的美意識だとしても、そのうちの一つである。新しい日本絵画をめざすとすると、わびさびの心または美意識の批判的継承、または全面的否認をすることになる。
結局、「日本人」と自称する各自が、それぞれなりに考えた「これこそ日本的」と思うことを、絵画に仕立てるほかない。
本日さきほど、目次の「日本画についてどう思う?[夏→池]」を見て、頁を繰ってみた。
「〔三瀬夏之介〕 日本画のいちばんオーソドックスな描き方というのは、モチーフをスケッチして、たくさん情報を集めて、小下絵つくって、小下絵をいろいろ動かして考えながら、大下絵つくって、それをさらに転写して、骨描きして、下地をつくって、岩絵具をのせて、さらにそれを丁寧に、何層も何層も重ねてっていうお手順がいろいろあって。」
(三瀬夏之介・池田学 2011/6、67頁)。
これは、たとえば美術系大学で使われる日本画(と称する)教科書に述べられている、使う絵具の種類と製作手順の紹介である。
「〔三瀬夏之介〕そのやり方
〔=オーソドックスな[オーソドックスとは、広辞苑によれば、正統的な。「伝統的な教義・学説・方法論を受けついだ」とある。]日本画の描き方。〕
って、僕、日本画の話だけでなくて、現在の日本のうまくいかなくなった構造そのものだと思うんですよ。みんなが、ある一つの理想に向かってググググッと突き進んでいって、どれかが一つでも外れてしまうと壊れちゃう。そのやり方は下手すると、完全にこの日本では行き詰まりを見せている。〔略〕
だから僕は、日本画という言葉をさまざまに考えながら変えていきたいと思うんです。」
(三瀬夏之介・池田学 2011/6、68頁)。
「〔三瀬夏之介〕「日本」と言う言葉は、多様性を一つにくくってしまうような非常に乱暴な言葉だなと感じます。〔略〕
日本画を逆手にとって、様々な日本や多中心な日本をとらえなおせる道具になるんじゃないかと。赤坂憲雄先生という〔略〕民俗学者が〔略〕「いくつもの日本」を唱えています。」
(三瀬夏之介・池田学 2011/6、68-69頁)。
さてでは、絵画活動または絵画的実践はどうなのか?。
「〔三瀬夏之介〕今年開催されるジパング展(日本橋髙島屋、2011年6月1日—20日、以降大阪・京都を巡回)」
(三瀬夏之介・池田学 2011/6、67頁)。
とあった。二、三日前に、高橋龍太郎 2016/10『現代美術コレクター』を読んだときには、ジパング展は見ていないと思った。
三瀬夏之介氏の作品は、名古屋の中京大学構内や、最近では京都市立美術館別館での個展を見たので、「三瀬夏之介」でブログ内検索をすると、下記の一件だけが出てきた。
ジパング展(の巡回展)を見ていたのだった。大阪でだったとは。
(したがって、東京での展示は配置と照明条件は違うだろうから、また異なった見えになっていただろう。しかしおそらく、出品作品が同一物であるならば、感想はそれほど違わないと思う。最小主義的 mimalistic な作品では、出品作品本体の配置環境と照明条件の設定で、異なる作品だとも言える。)
===== ↓は、ブログの再録である。
[http://blog.goo.ne.jp/1trinity7/s/ジパング展(受信:2017年5月6日。)]
[このブログの文中での、「??」は、ブログを ぷらら から引っ越したときの文字化けである。「—」か「——」であろう。]
[きつい文言は〔略〕しました。]
美術修行2010年9月7日(水)
2011年09月09日 14時22分51秒 | 美術/絵画
2011年9月9日-2
美術修行2010年9月7日(水)
ジパング展??31人の気鋭作家が切り開く、現代日本のアートシーン。??/大阪髙島屋7階グランドホール/800円。
総じて、(新奇性無しの)幼稚。〔略〕多くの作品が、具体的対象を(絵画的深みの出ないような仕方で)線描的に描いているもの。たとえば絵画物体の質感ではなく、ほとんど概念的な提示内容だから、つまらないのだろう。
町田久美は、見飽きた。概念的一点勝負だからか。(照明が暗すぎるのもあって、)画面が小さすぎるのか。
なんとか見られるのは、会田誠「大山椒魚」。一部の様式美。
山口晃「歌謡ショウ圖」の左端に直角に配置した壁に横長の鏡がある(そうやって絵の左半分を対称的に稼いでいるのだろう)。それを左方へと覗くと、この部屋と次の部屋の鏡像が見える。その景は、ひとときだけ、面白いかもしれない。
束芋「にっぽんのちっちゃい台所」のアニメーションのビデオ画面は、小さ過ぎ。一人が正面に立つと他の者は見られない。面白さは無かった。国立新美術センターだったかで見たのとは、だいぶ違う。
三瀬夏之介「だから僕はこの一瞬を永遠のものにしてみせる」は大きいだけ。(丁寧に見えるようにしたゆえに?、)新奇性も工夫も無し。
それこそ概念的に総括して、新しい作品へと奮起してほしい。
美術修行 読書録2017年5月6日:三瀬夏之介・池田学 2011/6 現代アートの行方
三瀬夏之介・池田学[・は×の代用].2011/6/10.現代アートの行方.123pp.羽鳥書店[はとり文庫].[本体価格700円+税][B20170328、756円。][Rh20170330]
面白いと思ったのは、次の箇所だけであった[が、とつづく。→「本日さきほど、」以降を見よ]。
「〔三瀬夏之介〕「先生、芸術って何ですか?」って本当にバカみたいに直球のボールを投げたら、高階〔秀爾〕先生が即座に「世界観の拡張です」と答えられたんです。」
(三瀬夏之介・池田学 2011/6、113頁)。
高階秀爾氏の答えは、大風呂敷で包んだといった答えである。日本画の定義ではない。正しくは correctly または 精確には precisely 、「世界観の拡張の手段または方法または実践の一つです」といったところか。
「何ですか?」の問いは、定義を訊ねているとすれば、
芸術=【定義】=世界観の拡張
となる。左辺の言葉または事項と、右辺の言葉または事項の、両辺が等しくなければならない。
書き換えれば、
い: 芸術ならば、それは世界観の拡張である。 [芸術→世界観の拡張]
ろ: 世界観の拡張ならば、芸術である。 [世界観の拡張→芸術]
の両者が成り立たねばならない。つまり、どちらからも導出されることである。
あるいはむしろ、そのときの芸術的活動の文脈または質問の文脈に応じて、芸術の性質についての本質 essence または本質的性質 essentialistic property の一つを強調したものであろう。
日本画を、
地球人のうちの或る種類の人々
(「日本人」とは何か?、アイヌ人やギリヤーク人(→ニヴフ人)や琉球人、系譜では縄文人か弥生人か混血も含めて両方の子孫たちか、杣人など、を含めるのか、の問題が生じる。あるいは日本国籍を持つ人とするか、)
による絵画と定義するか、
膠といった或る種類の接着材の使用で定義するか(アートグルーや木工ボンドは?)、
あるいは、岩絵具といった絵具の種類で定義するか(顔彩や水干絵具だけとか、水彩絵具と水晶末だけの場合は?)、
線引きは、現実にジェッソや水彩絵具やアクリル絵具を使って日本画と称する人がいるので、無理である。
数年前か、名古屋での創画展では、数ミリの厚さの(牛の?)皮だけを全面に貼り付けたものが、受賞作品だった。
すると、絵具などの材料ではなく、「日本的」または「日本美的」でもって、定義するのは一方法である。
しかし、これもまた、論争になる。たとえば、わびさびは、日本的美意識だとしても、そのうちの一つである。新しい日本絵画をめざすとすると、わびさびの心または美意識の批判的継承、または全面的否認をすることになる。
結局、「日本人」と自称する各自が、それぞれなりに考えた「これこそ日本的」と思うことを、絵画に仕立てるほかない。
本日さきほど、目次の「日本画についてどう思う?[夏→池]」を見て、頁を繰ってみた。
「〔三瀬夏之介〕 日本画のいちばんオーソドックスな描き方というのは、モチーフをスケッチして、たくさん情報を集めて、小下絵つくって、小下絵をいろいろ動かして考えながら、大下絵つくって、それをさらに転写して、骨描きして、下地をつくって、岩絵具をのせて、さらにそれを丁寧に、何層も何層も重ねてっていうお手順がいろいろあって。」
(三瀬夏之介・池田学 2011/6、67頁)。
これは、たとえば美術系大学で使われる日本画(と称する)教科書に述べられている、使う絵具の種類と製作手順の紹介である。
「〔三瀬夏之介〕そのやり方
〔=オーソドックスな[オーソドックスとは、広辞苑によれば、正統的な。「伝統的な教義・学説・方法論を受けついだ」とある。]日本画の描き方。〕
って、僕、日本画の話だけでなくて、現在の日本のうまくいかなくなった構造そのものだと思うんですよ。みんなが、ある一つの理想に向かってググググッと突き進んでいって、どれかが一つでも外れてしまうと壊れちゃう。そのやり方は下手すると、完全にこの日本では行き詰まりを見せている。〔略〕
だから僕は、日本画という言葉をさまざまに考えながら変えていきたいと思うんです。」
(三瀬夏之介・池田学 2011/6、68頁)。
「〔三瀬夏之介〕「日本」と言う言葉は、多様性を一つにくくってしまうような非常に乱暴な言葉だなと感じます。〔略〕
日本画を逆手にとって、様々な日本や多中心な日本をとらえなおせる道具になるんじゃないかと。赤坂憲雄先生という〔略〕民俗学者が〔略〕「いくつもの日本」を唱えています。」
(三瀬夏之介・池田学 2011/6、68-69頁)。
さてでは、絵画活動または絵画的実践はどうなのか?。
「〔三瀬夏之介〕今年開催されるジパング展(日本橋髙島屋、2011年6月1日—20日、以降大阪・京都を巡回)」
(三瀬夏之介・池田学 2011/6、67頁)。
とあった。二、三日前に、高橋龍太郎 2016/10『現代美術コレクター』を読んだときには、ジパング展は見ていないと思った。
三瀬夏之介氏の作品は、名古屋の中京大学構内や、最近では京都市立美術館別館での個展を見たので、「三瀬夏之介」でブログ内検索をすると、下記の一件だけが出てきた。
ジパング展(の巡回展)を見ていたのだった。大阪でだったとは。
(したがって、東京での展示は配置と照明条件は違うだろうから、また異なった見えになっていただろう。しかしおそらく、出品作品が同一物であるならば、感想はそれほど違わないと思う。最小主義的 mimalistic な作品では、出品作品本体の配置環境と照明条件の設定で、異なる作品だとも言える。)
===== ↓は、ブログの再録である。
[http://blog.goo.ne.jp/1trinity7/s/ジパング展(受信:2017年5月6日。)]
[このブログの文中での、「??」は、ブログを ぷらら から引っ越したときの文字化けである。「—」か「——」であろう。]
[きつい文言は〔略〕しました。]
美術修行2010年9月7日(水)
2011年09月09日 14時22分51秒 | 美術/絵画
2011年9月9日-2
美術修行2010年9月7日(水)
ジパング展??31人の気鋭作家が切り開く、現代日本のアートシーン。??/大阪髙島屋7階グランドホール/800円。
総じて、(新奇性無しの)幼稚。〔略〕多くの作品が、具体的対象を(絵画的深みの出ないような仕方で)線描的に描いているもの。たとえば絵画物体の質感ではなく、ほとんど概念的な提示内容だから、つまらないのだろう。
町田久美は、見飽きた。概念的一点勝負だからか。(照明が暗すぎるのもあって、)画面が小さすぎるのか。
なんとか見られるのは、会田誠「大山椒魚」。一部の様式美。
山口晃「歌謡ショウ圖」の左端に直角に配置した壁に横長の鏡がある(そうやって絵の左半分を対称的に稼いでいるのだろう)。それを左方へと覗くと、この部屋と次の部屋の鏡像が見える。その景は、ひとときだけ、面白いかもしれない。
束芋「にっぽんのちっちゃい台所」のアニメーションのビデオ画面は、小さ過ぎ。一人が正面に立つと他の者は見られない。面白さは無かった。国立新美術センターだったかで見たのとは、だいぶ違う。
三瀬夏之介「だから僕はこの一瞬を永遠のものにしてみせる」は大きいだけ。(丁寧に見えるようにしたゆえに?、)新奇性も工夫も無し。
それこそ概念的に総括して、新しい作品へと奮起してほしい。