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美術修行 読書録20170506 レナード コーレン 2014/6 わびさびを読み解く

2017年05月07日 01時24分05秒 | 美術修行
2017年5月7日-1
美術修行 読書録20170506 レナード コーレン 2014/6 わびさびを読み解く

コーレン,レナード.1994, 2008(内藤ゆき子 訳 2014/6/30).わびさびを読み解く.108pp.ビー・エヌ・エヌ新社.[本体2,000円+税][Koren, Leonard. Wabi-Sabi for Artists, Designers, Poets & Philosophers][Rh20170506][大市中図701.1]

 ★ →「読み解く」と題している。感じ解く、感性で解くということはないのか?。もっとも、英文原題には、「読み解く」は無い。原書本文に、そのような語が出てくるのだろうか?。

 「わびさびは、生命【いのち、とルビ】のはかなさの美的鑑賞である。夏、青々と茂つていた木々が、今、冬空の下で枯れた枝を見せている。豪奢な邸宅の跡に残るものは、ただ雑草と苔が覆う崩れ落ちた土台だけである。わびさびのイメージは、私たち自身の生命に限りがあることを直視させ、存在することの孤独と静かな悲哀を感じさせる。私たちはまた、すべての存在が同じ運命を分かち合っていることを知っているがゆえに、ほろ苦さの入り交じっ
た安堵の気持ちをも抱くのである。」
(レナード コーエン 2014/6、14頁)。

 無常観または無常的感性との関係性は?。

 「利休は、わびさびの雰囲気を伝えるとして、古くから愛称される藤原定家の和歌を挙げている。

  見渡せば花も
  もみぢもなかりけり
  浦のとまやの
  秋の夕暮

(レナード コーエン 2014/6、54-55頁)。

 佐々木健一(2010/9)『日本的感性』は、和歌を調べて日本的感性を探っている。しかし著者自身が述べているように、明確な結論には至っていない。主張したい仮説とその根拠立てというふうには書かれていない。


 ★ わびさびとノスタルジアとの関係性は?。

 「わびさびとは、〔略〕出会うものすべてに感応しながらこの地球の上を軽やかに歩いていくことである。「物質的貧しさ、心の豊かさ」は、わびさびの決まり文句である。言い換えれば、わびさび、成功——富、社会的地位、権力、贅沢——に対する執着を手放して、肩肘張らない生き方を楽しむようにと私たちに語りかける。
 質素なわびさび生活を送るには、ある程度の努力と意志と、ときに厳しい決断が必要である。」
(レナード コーエン 2014/6、59頁)。

 ★ 鍵となる概念。
  ・日常性と非日常性。
  ・物質に囲われた、物的資源を利用する生活と、精神的営み。

 ★ 気づきの美学?。
  →弥勒(マイトレーヤ)やジッドゥ クリシュナムルティの教え(良い訳があまり無いらしい)。

 わびさびと簡潔性 simplicity?、simpleness?。

 「わびさびのシンプルさを言い表すならば、誠実で謙虚で心温かな知性が到達する幽玄の境地とするのがもっともふさわしい。この知性がとる戦略は手立ての削減である。本質を残して削減するが、詩は排除しない。」
(レナード コーエン 2014/6、72頁)。

 ?。知性だって?。感性または情緒ではないのか?。

 「大抵の場合、これは、用いる素材が限定されていることを暗に示している。それはまた、人目を引く特徴を最小限にまで抑えることを意味している。しかし、複数の構成要素をひとつの意味あるものにまとめ上げている目に見えない細胞組織を取り除くことを意味するものではない。それがまた何かの「興趣」、つまりそれを何度も何度も繰り返し眺めずにはいられない気持ちに私たちをさせる「特質」を減らすことを意味するものでもない。」
(レナード コーエン 2014/6、72頁)。

 「デジタル形式では、わびさびが必要とする無限大の繊細さに応えることができない。」
(レナード コーエン 2014/6、78頁)。

 ★ →ヒトの視覚の空間解像度も時間解像度も有限である。たとえば一秒当たりに30駒の静止画面を人が見れば、それは連続し運動しているように見える。また、電光板ニュースは、各発光点が点滅しているだけだが、あたかも「ニュース」という字が移動しているように見てしまう。
 わびさびが必要とするかもしれない繊細さは、有限であろう。
 液晶テレビはピクセル単位で映像を提供している。つまり離散的またはデジタルである。映画やドラマはデジタルの動画だが、連続して見える。そもそも、ヒトの視覚能力東京は関係なく、この覚醒世界は、量子的に運動しているかもしれない。

 中期モダニズムと比較して、わびさびの特徴を列記している。あまり説得性が無い。
 文中に出てくる「空」とか「無」とはどんなものなのか定義または説明が無い。そのため、この人の立論がわからない。
 ファンキーな[funkyの主な意味は、「おじけづいた、おびえている、憂うつな、落ち込んだ、臆病な」とか、また「一風かわった、いかす、いやなにおいのする、悪臭のする」(http://ejje.weblio.jp/content/funky)とかだが、ここでは〈憂うつな〉であろうか?]わびさびの一例の写真が6頁に掲載されている。目立つのは、頭付き釘であろう丸い形状のもの10個(の分布)である。註の部分の92頁には、京都で最も古い旅館の「美的信条は、主人の話によれば2つのゆるぎないわびさびに似た原則に要約」されて、
  ・〈い〉: 部屋の中ではいかなる物も目立たせるな
  ・〈ろ〉: 古いというだけで尊ぶな
とある。頭付き釘は白黒写真の紙印刷では目立つが、〈い〉の美的信条とはどういう関係または適用の仕方になるのか?。
 同じ写真には(わたしには)次いで目立つ流木が写っている。流木は生きているときの木のときよりは古いし、色形からも古く見えるが、〈ろ〉の美的信条との関係はどうなるのだろうか?。


□ 文献

佐々木健一.2010/9/**.日本的感性 触覚とずらしの構造.中央公論新社[中公新書].302pp.[903円][B201*/*、][Rh2015?*]