2017年5月31日-2
美術修行2017年5月31日(水)-1:読書録 山口晃2012『ヘンな日本美術史』
*山口晃.2012/11/10.ヘンな日本美術史.252pp.祥伝社.[本体1800円+税][Rh20170531][大市阿図721]
「この〔鳥獣人物戯画の実物を見たときの墨の綺麗さ、ガラス絵を見ているような透明度と色の奥行きの〕感じは、印刷した図版では絶対に分かりません。印刷の技術ももちろん進歩していますが、今でも油絵における、表層に透明度がある材質がのっているような感じは出ないのです。
やはり透明度と云うものは、定着した紙面では表現が難しいのかもしれません。〔略〕視点が移動すれば、画面に差し込む光の見え方もそれに応じて変化します。そのズレが透明感を生んでいるのですから、それを印刷ではなかなか出せないのでしょう。」(山口晃 2012/11: 14-15頁)。
絵画実物と平面てく印刷物との違い。人の視覚の精妙な自動調節。
「「鳥獣戯画」などの絵巻物を見るときに昨今よく言われるのが、これはアニメの源流であるとか云ったことですが、〔略〕現代から遡る視点で昔のものの持つ意味をあれこれと言うのは、むしろ好ましくありません。〔略〕
〔略〕それが描かれた時代を起点にして、その時代からどうなるかわからない未来を見据えた視線を一生懸命想像する方が、あるべき態度かと思います。
なぜなら、遡る態度と云うのは、家系図を反対から見るように、何であれ、それを必然にしてしまうからです。」(山口晃 2012/11: 27頁)。
「家系図と云うのは下の時代から辿ってみると、そこには運命しか書かれていないように読めますが、私たち自身の将来を見通すことができないように、当時から見れば、偶然の山積物の結果が表わされている訳です。
美術の歴史においても、本来そのような見方をしないといけないはずです。
漫画やアニメの源流と言うのではなく、鳥獣戯画などの絵巻物から始まったものが様々な工夫を経て、さらにカートゥーン、つまり外国の漫画がどんどん入って今のような形になっている。
絵巻物のように場面が移り変わるのが「コマ割り」の基本だと言われることがありますけれども、コマと云うものは昔から外国にもありました。〔略〕ジョットの壁画「聖フランチェスコの生涯」なんかは思い切りコマが割られています。時間と空間を区切る「コマ」のような合理性はいかにも西洋です。
むしろズルズルと空間がつながって、曖昧な雲とか林で空間が仕切られている妙の方が、日本人が受け継ぐべき所のような気がします。
〔略〕「鳥獣戯画」を見たときに私たちが漫画的であると感じるのは、ある種の力の抜けた画調にあるのでしょう。」(山口晃 2012/11: 27-28頁)。
歴史の見方として妥当である。
→ダント,アーサー・C.1965, 1966.(河本英夫訳 1989.2)物語としての歴史:歴史の分析哲学.390pp.国文社.[ISBN 9784772001724 / 4,200円+税].〔Danto, Arthur C. 1965. Analytical Philosophy of History. と、1966の論文"〔Symposium: Historical Understanding〕The problem of other periods", The Journal of Philosophy, 63: 566-572. の訳。〕.
を見よ。
「わざとふにゃつと描くと云うか、ちょろまかすというか、仕上げすぎないのは日本の絵の特徴です。〔略〕解像度が一段階落ちるとでも云ったような感じになる。
ただ、解像度が落ちたことによって、ある全体性が逆にばっと浮き上がってくるのが、外国と比べて不思議なところです。」(山口晃 2012/11: 29頁)。
解像度の問題(の一部)を取り上げていることに感心する。
ならば、抽象絵画を目指すべき。
「日本の美術を考えたとき、私は「枠」とか「入れ物」と云う言葉が思い浮かびます。他の国の人たちが中身で勝負するときに、日本人と言うのは外側でそれをするのです。〔略〕
〔略〕一見、思想もないように見えるのですけれども、逆に中空と云う中がある。言い換えれば、そこに何が入ってもいいんだと考えた時に、日本美術は確固たる存在感を示してくるのです。」(山口晃 2012/11: 29-30頁)。
なんらかの同一性という分類枠のもとに継承し、他のところでの変化を行なって、伝統を革新する。これは、通常的である。
「日本的」を、日本語によるものと、
「横から光を当ててみると、金箔と云うのは透けて見えるのです。
これを美術館で体験するには、しゃがんで見るのが一番です。少し見上げるようにして見てみると、光の入射角が変わって、途端に金がふわっと明るくなります。奥行きが出て、一瞬のイリュージョンのように感じられるはずです。」(山口晃 2012/11: 78頁)。
う〜む。機会があれば、試みてみよう。
好ましい教科書である。
軽妙洒脱な説き口で、本格的。
具体例を出して、本質的なところを検討している。
教えられるところ、大である。
洛中洛外図屏風の舟木本、上杉本、高津本の三つを比較している。わたしの感性からすれば、そしておそらく現代美術的な観点からも、高津本が面白そうである。こんなのがあったとは。(ネット検索してその画像を探したが、解像度の良いのが見つからなかった。)
河鍋暁斎の筆意、若冲の神気(224頁)。
「見ながら描けば、目を凝らすたびに筆が止まります。筆勢を生かす事など覚束ないでしょう。逆に西洋絵画は、筆勢や筆跡は極力抑えて、画面内の形象の一部たり得るよう注意深く筆をおきます。それによって高い再現性の一助としているのですが、その再現性は多分に光学的な正確さを旨としています。」(山口晃 2012/11: 225頁)。
「近代の日本画は、私などには天心の危機意識と同志フェロノサの理想の押し付けが生み出した外発性の高い人工的な代物に見えるのです。先述した旧来伎藝の再編入以上に近代日本画に見られるのは、バルールの重視と透視図法の導入です。この二つは多分に西洋画的な要素であり、暁斎の描く実感による画と相容れませんが、西欧や欧化への対処のためにあえて加えられたのです。」(山口晃 2012/11: 229頁)。
内発性と画空間の形成(249頁)を重視しているようだ。
この二つの事柄は、しかしきちんした定義または解説は無かったと思う。
抽象絵画を取り上げないのは、なぜ?
抽象絵画への言及は無い。
抽象絵画では、透視図法も含めて、そもそも遠近法を必要としない。したがって、抽象絵画ではそれに関わる困難が生じない。
日本画でも、堂本印象の作品や、O美術館での〈日本画の抽象〉という展覧会など、抽象絵画があった。パンリアル展も抽象は少なくない。
美術修行2017年5月31日(水)-1:読書録 山口晃2012『ヘンな日本美術史』
*山口晃.2012/11/10.ヘンな日本美術史.252pp.祥伝社.[本体1800円+税][Rh20170531][大市阿図721]
「この〔鳥獣人物戯画の実物を見たときの墨の綺麗さ、ガラス絵を見ているような透明度と色の奥行きの〕感じは、印刷した図版では絶対に分かりません。印刷の技術ももちろん進歩していますが、今でも油絵における、表層に透明度がある材質がのっているような感じは出ないのです。
やはり透明度と云うものは、定着した紙面では表現が難しいのかもしれません。〔略〕視点が移動すれば、画面に差し込む光の見え方もそれに応じて変化します。そのズレが透明感を生んでいるのですから、それを印刷ではなかなか出せないのでしょう。」(山口晃 2012/11: 14-15頁)。
絵画実物と平面てく印刷物との違い。人の視覚の精妙な自動調節。
「「鳥獣戯画」などの絵巻物を見るときに昨今よく言われるのが、これはアニメの源流であるとか云ったことですが、〔略〕現代から遡る視点で昔のものの持つ意味をあれこれと言うのは、むしろ好ましくありません。〔略〕
〔略〕それが描かれた時代を起点にして、その時代からどうなるかわからない未来を見据えた視線を一生懸命想像する方が、あるべき態度かと思います。
なぜなら、遡る態度と云うのは、家系図を反対から見るように、何であれ、それを必然にしてしまうからです。」(山口晃 2012/11: 27頁)。
「家系図と云うのは下の時代から辿ってみると、そこには運命しか書かれていないように読めますが、私たち自身の将来を見通すことができないように、当時から見れば、偶然の山積物の結果が表わされている訳です。
美術の歴史においても、本来そのような見方をしないといけないはずです。
漫画やアニメの源流と言うのではなく、鳥獣戯画などの絵巻物から始まったものが様々な工夫を経て、さらにカートゥーン、つまり外国の漫画がどんどん入って今のような形になっている。
絵巻物のように場面が移り変わるのが「コマ割り」の基本だと言われることがありますけれども、コマと云うものは昔から外国にもありました。〔略〕ジョットの壁画「聖フランチェスコの生涯」なんかは思い切りコマが割られています。時間と空間を区切る「コマ」のような合理性はいかにも西洋です。
むしろズルズルと空間がつながって、曖昧な雲とか林で空間が仕切られている妙の方が、日本人が受け継ぐべき所のような気がします。
〔略〕「鳥獣戯画」を見たときに私たちが漫画的であると感じるのは、ある種の力の抜けた画調にあるのでしょう。」(山口晃 2012/11: 27-28頁)。
歴史の見方として妥当である。
→ダント,アーサー・C.1965, 1966.(河本英夫訳 1989.2)物語としての歴史:歴史の分析哲学.390pp.国文社.[ISBN 9784772001724 / 4,200円+税].〔Danto, Arthur C. 1965. Analytical Philosophy of History. と、1966の論文"〔Symposium: Historical Understanding〕The problem of other periods", The Journal of Philosophy, 63: 566-572. の訳。〕.
を見よ。
「わざとふにゃつと描くと云うか、ちょろまかすというか、仕上げすぎないのは日本の絵の特徴です。〔略〕解像度が一段階落ちるとでも云ったような感じになる。
ただ、解像度が落ちたことによって、ある全体性が逆にばっと浮き上がってくるのが、外国と比べて不思議なところです。」(山口晃 2012/11: 29頁)。
解像度の問題(の一部)を取り上げていることに感心する。
ならば、抽象絵画を目指すべき。
「日本の美術を考えたとき、私は「枠」とか「入れ物」と云う言葉が思い浮かびます。他の国の人たちが中身で勝負するときに、日本人と言うのは外側でそれをするのです。〔略〕
〔略〕一見、思想もないように見えるのですけれども、逆に中空と云う中がある。言い換えれば、そこに何が入ってもいいんだと考えた時に、日本美術は確固たる存在感を示してくるのです。」(山口晃 2012/11: 29-30頁)。
なんらかの同一性という分類枠のもとに継承し、他のところでの変化を行なって、伝統を革新する。これは、通常的である。
「日本的」を、日本語によるものと、
「横から光を当ててみると、金箔と云うのは透けて見えるのです。
これを美術館で体験するには、しゃがんで見るのが一番です。少し見上げるようにして見てみると、光の入射角が変わって、途端に金がふわっと明るくなります。奥行きが出て、一瞬のイリュージョンのように感じられるはずです。」(山口晃 2012/11: 78頁)。
う〜む。機会があれば、試みてみよう。
好ましい教科書である。
軽妙洒脱な説き口で、本格的。
具体例を出して、本質的なところを検討している。
教えられるところ、大である。
洛中洛外図屏風の舟木本、上杉本、高津本の三つを比較している。わたしの感性からすれば、そしておそらく現代美術的な観点からも、高津本が面白そうである。こんなのがあったとは。(ネット検索してその画像を探したが、解像度の良いのが見つからなかった。)
河鍋暁斎の筆意、若冲の神気(224頁)。
「見ながら描けば、目を凝らすたびに筆が止まります。筆勢を生かす事など覚束ないでしょう。逆に西洋絵画は、筆勢や筆跡は極力抑えて、画面内の形象の一部たり得るよう注意深く筆をおきます。それによって高い再現性の一助としているのですが、その再現性は多分に光学的な正確さを旨としています。」(山口晃 2012/11: 225頁)。
「近代の日本画は、私などには天心の危機意識と同志フェロノサの理想の押し付けが生み出した外発性の高い人工的な代物に見えるのです。先述した旧来伎藝の再編入以上に近代日本画に見られるのは、バルールの重視と透視図法の導入です。この二つは多分に西洋画的な要素であり、暁斎の描く実感による画と相容れませんが、西欧や欧化への対処のためにあえて加えられたのです。」(山口晃 2012/11: 229頁)。
内発性と画空間の形成(249頁)を重視しているようだ。
この二つの事柄は、しかしきちんした定義または解説は無かったと思う。
抽象絵画を取り上げないのは、なぜ?
抽象絵画への言及は無い。
抽象絵画では、透視図法も含めて、そもそも遠近法を必要としない。したがって、抽象絵画ではそれに関わる困難が生じない。
日本画でも、堂本印象の作品や、O美術館での〈日本画の抽象〉という展覧会など、抽象絵画があった。パンリアル展も抽象は少なくない。