昨年秋の車中泊の旅の記録。人との出逢いや思いがけない発見などがテーマになっている
13 一乗院 鰐淵寺の浮浪の滝
出雲には何度か足を運んでいるが、鰐淵寺の存在は知らなかった。雑誌を見てその写真に驚き、今回の旅の目的地にした
開山智春上人が滝壺に仏像を落として困っていると、鰐がそれをくわえて浮上したので鰐淵(がくえん)の名が生じたという

この場所に進む参道には案内板が一つもないというのも緊張感があっていい
川に置かれた石の上も歩くことになる

受付所から少し歩くがここに来るまで耳に入る音は水の音だけ。勿論世間の雑音もない
受付所に戻ると、住職からお茶をすすめられ、20~30分程話しを聞くことができた
参拝者との会話を大切にしていることがよくわかる

途中宿泊した道の駅のパンフで「鰐淵寺」に伝わる寺宝を島根県立古代出雲歴史博物館で展示していることを知り、運の良さを感じた

「八百屋お七と寺小姓吉三」の墓
天和2年(1682)江戸本郷の火災の時、お七は若衆小野川吉三郎に出会い、激しい恋情を抱いた
お七は吉三郎が忘れられず、逢いたい一心で天和3年放火して、火刑となった
吉三郎はこれを憐れみ、出家して、お七の遺骨と供に全国の寺院を行脚、鰐淵寺で行き倒れになったと伝えられる

14 道の駅で写真家に声をかけられる
前夜から、私の車の10m程離れていたところにキャンピングカーが駐まっており気にはなっていた
その方が車に乗り私の前を通過したときに軽く会釈すると、突然車を止め私の所にやってきた
私の車が気になっていたようである

話の途中で彼がプロのカメラマンということを知り、しつこく質問し、参考になる話をたくさん聞かせてもらうことに
道の駅を紹介する仕事もしているそうで、ここでは俯瞰して撮影することを薦められた

山と渓谷社から出版されている「日本の歳時記」の写真家
そのカレンダーの写真を撮らせてもらったが、愛機G1Xも興奮したのか、とんだピンボケ写真になってしまった

彼は本橋昴明という写真家
HP「写真家 本橋昴明 自然からのメッセージ」には作品もアップされている
1時間半以上も話を聞かせていただき、感激し刺激も受けたが、その後写真技術が向上したかは定かではない
15 初めての津和野
道の駅「津和野温泉 なごみの里」では電車の通過する音が山に響き目が覚めた
「太皷谷稲成神社」 今年度最初のブログで使った写真


「史跡 森鴎外旧宅」 鴎外がこの旧宅に住んだのは、わずか11年であり、その後再び津和野も、この家も訪れることはなかった

鴎外の勉強部屋

津和野の地名の由来となった「ツワブキ」の花

死に及んで「石見人森 林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言を残して、大正11年7月9日に永眠した。 享年60歳

「森鴎外の墓」 永明寺は森家の菩提寺であり、親族の墓石の中央に鴎外の墓がある

「森林太郎として死せんと欲す」の遺言通り墓石には「森林太郎墓」と刻まれている

鴎外の遺言により、中村不折の筆による「森林太郎墓」としかない質素なもの
中村不折は洋画家・書家として活躍。漱石の「我が輩は猫である」の挿絵を描いた

「乙女峠マリア聖堂」 津和野カトリック教会神父、岡崎祐次郎が殉教者の霊を慰めるために乙女山の中腹、光淋寺跡に建立された聖堂

明治政府がキリスト教を改宗させるために、長崎県浦上の切支丹信徒総員163名を津和野に
乙女山の光淋寺境内の納谷に預けられ、日夜残酷苛烈な拷問にかけられて改宗を迫った
13 一乗院 鰐淵寺の浮浪の滝
出雲には何度か足を運んでいるが、鰐淵寺の存在は知らなかった。雑誌を見てその写真に驚き、今回の旅の目的地にした
開山智春上人が滝壺に仏像を落として困っていると、鰐がそれをくわえて浮上したので鰐淵(がくえん)の名が生じたという

この場所に進む参道には案内板が一つもないというのも緊張感があっていい
川に置かれた石の上も歩くことになる

受付所から少し歩くがここに来るまで耳に入る音は水の音だけ。勿論世間の雑音もない
受付所に戻ると、住職からお茶をすすめられ、20~30分程話しを聞くことができた
参拝者との会話を大切にしていることがよくわかる

途中宿泊した道の駅のパンフで「鰐淵寺」に伝わる寺宝を島根県立古代出雲歴史博物館で展示していることを知り、運の良さを感じた

「八百屋お七と寺小姓吉三」の墓
天和2年(1682)江戸本郷の火災の時、お七は若衆小野川吉三郎に出会い、激しい恋情を抱いた
お七は吉三郎が忘れられず、逢いたい一心で天和3年放火して、火刑となった
吉三郎はこれを憐れみ、出家して、お七の遺骨と供に全国の寺院を行脚、鰐淵寺で行き倒れになったと伝えられる

14 道の駅で写真家に声をかけられる
前夜から、私の車の10m程離れていたところにキャンピングカーが駐まっており気にはなっていた
その方が車に乗り私の前を通過したときに軽く会釈すると、突然車を止め私の所にやってきた
私の車が気になっていたようである

話の途中で彼がプロのカメラマンということを知り、しつこく質問し、参考になる話をたくさん聞かせてもらうことに
道の駅を紹介する仕事もしているそうで、ここでは俯瞰して撮影することを薦められた

山と渓谷社から出版されている「日本の歳時記」の写真家
そのカレンダーの写真を撮らせてもらったが、愛機G1Xも興奮したのか、とんだピンボケ写真になってしまった

彼は本橋昴明という写真家
HP「写真家 本橋昴明 自然からのメッセージ」には作品もアップされている
1時間半以上も話を聞かせていただき、感激し刺激も受けたが、その後写真技術が向上したかは定かではない
15 初めての津和野
道の駅「津和野温泉 なごみの里」では電車の通過する音が山に響き目が覚めた
「太皷谷稲成神社」 今年度最初のブログで使った写真


「史跡 森鴎外旧宅」 鴎外がこの旧宅に住んだのは、わずか11年であり、その後再び津和野も、この家も訪れることはなかった

鴎外の勉強部屋

津和野の地名の由来となった「ツワブキ」の花

死に及んで「石見人森 林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言を残して、大正11年7月9日に永眠した。 享年60歳

「森鴎外の墓」 永明寺は森家の菩提寺であり、親族の墓石の中央に鴎外の墓がある

「森林太郎として死せんと欲す」の遺言通り墓石には「森林太郎墓」と刻まれている

鴎外の遺言により、中村不折の筆による「森林太郎墓」としかない質素なもの
中村不折は洋画家・書家として活躍。漱石の「我が輩は猫である」の挿絵を描いた

「乙女峠マリア聖堂」 津和野カトリック教会神父、岡崎祐次郎が殉教者の霊を慰めるために乙女山の中腹、光淋寺跡に建立された聖堂

明治政府がキリスト教を改宗させるために、長崎県浦上の切支丹信徒総員163名を津和野に
乙女山の光淋寺境内の納谷に預けられ、日夜残酷苛烈な拷問にかけられて改宗を迫った
