靖国神社は、明治2年(1869)6月29日、明治天皇によって建てられた東京招魂社が始まり
明治12年(1879)に「靖国神社」と改称された
私は昨年に引き続き2回目の参拝となる。羽田飛行場から重いバッグを引き摺ってたどり着いた
私のようにバッグを持った参拝者も多く少し安心した
「靖國神社」の社号標と第1鳥居(大鳥居)
大正10年(1921)、日本一の大鳥居として誕生した第一鳥居は、長年の風雨で損傷がはげしくなり、昭和18年(1943)に撤去
現在の第一鳥居は戦友たちの奉納により昭和49年(1974)に再建されたもので、高さは25m
第1鳥居から先に進むと遠くに銅像が見えてくる
境内を歩く下校時の小学生、平和な光景である
慰霊の泉
戦没者に捧げる母の像
大村益次郎銅像
日本陸軍の創設者で靖国神社の創建に尽力した大村益次郎の銅像
明治26年(1893)、日本最初の西洋式銅像として建てられた
第二鳥居
明治20年(1887)に建てられた。青銅製の鳥居としては日本一の大きさを誇る
神門
神門は昭和9年(1934)に建てられた
中央の二つの扉には、直径1.5メートルの菊花の紋章が取り付けられている
中門鳥居
この先の写真撮影は禁止されているのか、カメラを構えると注意された。昨年は問題なかったのだが
最も重要な祭事は、春秋に執り行われる例大祭
秋の例大祭は10月17日から20日までの4日間で、期間中、清祓・当日祭・第二日祭・第三日祭・直会の諸儀が斎行される
遊就館
明治15年(1882)に開館。遺品などを収蔵、展示する施設。平成14年(2002)に改修、増築
これまで、広島・長崎・沖縄などの展示物を見てきたが、知覧の特攻記念館とこの遊就館は特別な思いがよぎる
護国 海防艦
地面には世界地図が
パール博士顕彰碑
極東国際軍事裁判(通称 東京裁判)でインド代表判事を務め、裁判官の中でただ一人、被告団全員を無罪とする意見書を提出したパール博士の功績を伝えるため、平成17年(2005)に建てられた
母の像
この像は、苦難と孤独に耐えながら子供を育て上げた戦争未亡人への敬意と感謝を込めて、昭和49年(1974)に建てられた
立派に成長した子供(遺児)たちが奉納したもので、「お母さん、ありがとう」の気持ちの表れだ
特攻勇士之像
以上が遊就館前に展示物。館内に入る
国のために尊い命を捧げた英霊の遺徳に触れ、学んでもらいたいという願いが館名に籠められているそうだ
館内は撮影禁止であり残念ながら紹介することができない
要所要所の説明を読むだけで2~3時間を要する
靖国神社参拝や遊就館の展示内容がよく政治利用されているが私にはよく分からない
故三宅久之氏が遊就館で号泣した場所がある
花嫁を迎えることなく戦死した英霊に対し、戦後遺族から捧げられた「花嫁人形」が展示している場所だ
北海道の母親からの思いを読むとその気持ちが理解できる。つい禁を破り撮してしまった
この展示室を出る多くの人の眼には涙が。私も心で泣いていた
1階の大展示室(撮影可)
人間魚雷 「回天」
軍艦 「武蔵」
艦上爆撃機 「彗星」
「九七式中戦車」
特別展「大東亜戦争七十年展 最終章」が開催されていた
靖国神社参拝問題については自民党政権打倒を社是としているA新聞社の影響が大きいと聞く
中国を刺激して問題視させ、それに韓国も乗った
遊就館の資料を読み、戦死した英霊に対し失礼な話しだと憤りを覚えるのは私だけか
撮影 平成27年10月8日
明治12年(1879)に「靖国神社」と改称された
私は昨年に引き続き2回目の参拝となる。羽田飛行場から重いバッグを引き摺ってたどり着いた
私のようにバッグを持った参拝者も多く少し安心した
「靖國神社」の社号標と第1鳥居(大鳥居)
大正10年(1921)、日本一の大鳥居として誕生した第一鳥居は、長年の風雨で損傷がはげしくなり、昭和18年(1943)に撤去
現在の第一鳥居は戦友たちの奉納により昭和49年(1974)に再建されたもので、高さは25m
第1鳥居から先に進むと遠くに銅像が見えてくる
境内を歩く下校時の小学生、平和な光景である
慰霊の泉
戦没者に捧げる母の像
大村益次郎銅像
日本陸軍の創設者で靖国神社の創建に尽力した大村益次郎の銅像
明治26年(1893)、日本最初の西洋式銅像として建てられた
第二鳥居
明治20年(1887)に建てられた。青銅製の鳥居としては日本一の大きさを誇る
神門
神門は昭和9年(1934)に建てられた
中央の二つの扉には、直径1.5メートルの菊花の紋章が取り付けられている
中門鳥居
この先の写真撮影は禁止されているのか、カメラを構えると注意された。昨年は問題なかったのだが
最も重要な祭事は、春秋に執り行われる例大祭
秋の例大祭は10月17日から20日までの4日間で、期間中、清祓・当日祭・第二日祭・第三日祭・直会の諸儀が斎行される
遊就館
明治15年(1882)に開館。遺品などを収蔵、展示する施設。平成14年(2002)に改修、増築
これまで、広島・長崎・沖縄などの展示物を見てきたが、知覧の特攻記念館とこの遊就館は特別な思いがよぎる
護国 海防艦
地面には世界地図が
パール博士顕彰碑
極東国際軍事裁判(通称 東京裁判)でインド代表判事を務め、裁判官の中でただ一人、被告団全員を無罪とする意見書を提出したパール博士の功績を伝えるため、平成17年(2005)に建てられた
母の像
この像は、苦難と孤独に耐えながら子供を育て上げた戦争未亡人への敬意と感謝を込めて、昭和49年(1974)に建てられた
立派に成長した子供(遺児)たちが奉納したもので、「お母さん、ありがとう」の気持ちの表れだ
特攻勇士之像
以上が遊就館前に展示物。館内に入る
国のために尊い命を捧げた英霊の遺徳に触れ、学んでもらいたいという願いが館名に籠められているそうだ
館内は撮影禁止であり残念ながら紹介することができない
要所要所の説明を読むだけで2~3時間を要する
靖国神社参拝や遊就館の展示内容がよく政治利用されているが私にはよく分からない
故三宅久之氏が遊就館で号泣した場所がある
花嫁を迎えることなく戦死した英霊に対し、戦後遺族から捧げられた「花嫁人形」が展示している場所だ
北海道の母親からの思いを読むとその気持ちが理解できる。つい禁を破り撮してしまった
この展示室を出る多くの人の眼には涙が。私も心で泣いていた
1階の大展示室(撮影可)
人間魚雷 「回天」
軍艦 「武蔵」
艦上爆撃機 「彗星」
「九七式中戦車」
特別展「大東亜戦争七十年展 最終章」が開催されていた
靖国神社参拝問題については自民党政権打倒を社是としているA新聞社の影響が大きいと聞く
中国を刺激して問題視させ、それに韓国も乗った
遊就館の資料を読み、戦死した英霊に対し失礼な話しだと憤りを覚えるのは私だけか
撮影 平成27年10月8日