昨日に続き石山寺
蓮如堂の右側にある階段の奥に本堂が見える
本堂(国宝)
正堂、合の間、礼堂からなる複合建築。
正堂は承暦2年(1078年)の火災焼失後、永長元年(1096年)に再建されたもので、滋賀県最古の木造建築物。
内陣は平安時代中期の建築、外陣(礼堂)は慶長7 (1602) 年淀殿の寄進により増築された
本堂内陣に安置されるのは、 安産・福徳・縁結びの観音さまとして信仰を集める本尊如意輪観世音菩薩。日本で唯一の勅封の秘仏で、御開扉は33年毎
京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場。
西国三十三所観音霊場第13番札所でもあり、白装束を身にまとい巡礼している人たちも多い
礼堂は傾斜地に建ち、正面は長い柱を多数立てて床を支える懸造となっている
懸造の本堂は、清水寺、長谷寺など、観音を祀る寺院に多い
相の間には、紫式部が『源氏物語』を起筆したことに ちなむ「源氏の間」がある
紫式部が『源氏物語』の着想を得たのも石山寺とされている。
伝承では、寛弘元年(1004年)、紫式部が当寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には「紫式部の間」が造られている
源氏の間の建物の右側に開山した良弁(ろうべん)座像が祀られているが、暗くてよく見えなかったので、カメラの力をかりることにした
本堂右側にある階段を進む
三十八所権現社本殿(重要文化財)
石山寺の鎮守社。一間社流造、檜皮葺で硅灰石の上に建っている
慶長期の伽藍復興時に本堂の礼堂とともに建立された。
蓮如堂は三十八所権現社の拝殿として建てられた
経蔵(重要文化財)
16世紀ごろに建立された高床の校倉で、かつては重要な経典 や聖教類などが収蔵されていた
滋賀県最古の校倉造
経蔵の柱の下を覗き込んでみると「腰掛石」がある。
若い女性が次から次へと座っていたが、安産するとの言い伝えがあるようだ
紫式部供養塔
松尾芭蕉句碑
(源氏の間を詠む)「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」
供養塔と句碑はこのように並んでいる
次回に続く
撮影 平成25年11月12日
蓮如堂の右側にある階段の奥に本堂が見える
本堂(国宝)
正堂、合の間、礼堂からなる複合建築。
正堂は承暦2年(1078年)の火災焼失後、永長元年(1096年)に再建されたもので、滋賀県最古の木造建築物。
内陣は平安時代中期の建築、外陣(礼堂)は慶長7 (1602) 年淀殿の寄進により増築された
本堂内陣に安置されるのは、 安産・福徳・縁結びの観音さまとして信仰を集める本尊如意輪観世音菩薩。日本で唯一の勅封の秘仏で、御開扉は33年毎
京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場。
西国三十三所観音霊場第13番札所でもあり、白装束を身にまとい巡礼している人たちも多い
礼堂は傾斜地に建ち、正面は長い柱を多数立てて床を支える懸造となっている
懸造の本堂は、清水寺、長谷寺など、観音を祀る寺院に多い
相の間には、紫式部が『源氏物語』を起筆したことに ちなむ「源氏の間」がある
紫式部が『源氏物語』の着想を得たのも石山寺とされている。
伝承では、寛弘元年(1004年)、紫式部が当寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には「紫式部の間」が造られている
源氏の間の建物の右側に開山した良弁(ろうべん)座像が祀られているが、暗くてよく見えなかったので、カメラの力をかりることにした
本堂右側にある階段を進む
三十八所権現社本殿(重要文化財)
石山寺の鎮守社。一間社流造、檜皮葺で硅灰石の上に建っている
慶長期の伽藍復興時に本堂の礼堂とともに建立された。
蓮如堂は三十八所権現社の拝殿として建てられた
経蔵(重要文化財)
16世紀ごろに建立された高床の校倉で、かつては重要な経典 や聖教類などが収蔵されていた
滋賀県最古の校倉造
経蔵の柱の下を覗き込んでみると「腰掛石」がある。
若い女性が次から次へと座っていたが、安産するとの言い伝えがあるようだ
紫式部供養塔
松尾芭蕉句碑
(源氏の間を詠む)「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」
供養塔と句碑はこのように並んでいる
次回に続く
撮影 平成25年11月12日
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