訪問日 令和2年9月11日
知立神社<別名:池鯉鮒(ちりゅう)大明神>
重文の多宝塔拝観が目的であったが、調べてみると千年以上の歴史を持つ三河国二宮
三河国一宮は、愛知県豊川市にある砥鹿神社(とがじんじゃ)
「大鳥居」
「知立神社由緒」
社伝では、第12代景行天皇の時に東国平定に赴いた日本武尊が当地で戦勝を祈願
平定後の帰途に感謝して建国祖神の4柱を祀ったのが創建という
「祖風歌碑」
井村祖風の句碑 『行戻り小川に暮る小鴨可南(かな)』
「手水舎」
多宝塔(重要文化財)
社伝では、嘉祥3年(850年)に慈覚大師円仁が神宮寺を建立した際に2層の塔を建立
現在の遺構は室町時代後期の永正6年(1509年)重原城主山岡伝兵衛によって再建されたもの
廃仏毀釈を生き延びた神社における仏塔は全国的にも数少ない
塔の前が参拝者駐車場になっていて、車が入り込まないようにするのに苦労した
「千人塔」
「石橋(知立市指定文化財)」
江戸時代の享保17年(1732年)の造営の花崗岩製の太鼓橋
鯉が眼病を患った長者の娘の身代わりになったという「片目の鯉」の伝説地でもある
長者の家に信心深く気立ての優しい娘がいたが、或る時から目を患い、病篤くあわや失明という容態になってしまった
両親は深く心配し、娘の目が良くなるようにと、池鯉鮒大明神のご神前に通い、お祈りをした
二十一日目の満願の日、突如娘の目がはっきり見えるようになった
目が見えるようになった娘は、父母とともに、お礼参りに神社を訪れた
境内にある御手洗池をのぞき込んだ時「池の鯉がみんな片目になっている」ことに驚いた
拝殿・幣殿・本殿(国登録有形文化財)
別名「池鯉鮒(ちりゅう)大明神」
江戸時代東海道三社(他は三嶋大社・熱田神宮)の一つに加えられた名社
現在の主要社殿は、江戸時代後期から昭和にかけての造営
社殿配置は「尾張造」と呼ばれるもので、本殿・幣殿・祭文殿・回廊・拝殿を縦長に接続する
「儀式殿」
「社務所」
「神楽殿」
「末社 秋葉社」
「神馬」
「絵馬」
「末社 小山天神社」
「末社 合祀殿」
摂社 親母神社 (うばがみしゃ)(国登録有形文化財)
祭神:豊玉姫命
一間社流造で朱塗で彩られ、屋根は檜皮葺
左から「親母神社」「合祀殿」「小山天神社」
愛車と多宝塔
旅の初日に、このように形が良く美しい多宝塔に出会えると思ってもいなかった
撮影 令和2年9月11日
知立神社<別名:池鯉鮒(ちりゅう)大明神>
重文の多宝塔拝観が目的であったが、調べてみると千年以上の歴史を持つ三河国二宮
三河国一宮は、愛知県豊川市にある砥鹿神社(とがじんじゃ)
「大鳥居」
「知立神社由緒」
社伝では、第12代景行天皇の時に東国平定に赴いた日本武尊が当地で戦勝を祈願
平定後の帰途に感謝して建国祖神の4柱を祀ったのが創建という
「祖風歌碑」
井村祖風の句碑 『行戻り小川に暮る小鴨可南(かな)』
「手水舎」
多宝塔(重要文化財)
社伝では、嘉祥3年(850年)に慈覚大師円仁が神宮寺を建立した際に2層の塔を建立
現在の遺構は室町時代後期の永正6年(1509年)重原城主山岡伝兵衛によって再建されたもの
廃仏毀釈を生き延びた神社における仏塔は全国的にも数少ない
塔の前が参拝者駐車場になっていて、車が入り込まないようにするのに苦労した
「千人塔」
「石橋(知立市指定文化財)」
江戸時代の享保17年(1732年)の造営の花崗岩製の太鼓橋
鯉が眼病を患った長者の娘の身代わりになったという「片目の鯉」の伝説地でもある
長者の家に信心深く気立ての優しい娘がいたが、或る時から目を患い、病篤くあわや失明という容態になってしまった
両親は深く心配し、娘の目が良くなるようにと、池鯉鮒大明神のご神前に通い、お祈りをした
二十一日目の満願の日、突如娘の目がはっきり見えるようになった
目が見えるようになった娘は、父母とともに、お礼参りに神社を訪れた
境内にある御手洗池をのぞき込んだ時「池の鯉がみんな片目になっている」ことに驚いた
拝殿・幣殿・本殿(国登録有形文化財)
別名「池鯉鮒(ちりゅう)大明神」
江戸時代東海道三社(他は三嶋大社・熱田神宮)の一つに加えられた名社
現在の主要社殿は、江戸時代後期から昭和にかけての造営
社殿配置は「尾張造」と呼ばれるもので、本殿・幣殿・祭文殿・回廊・拝殿を縦長に接続する
「儀式殿」
「社務所」
「神楽殿」
「末社 秋葉社」
「神馬」
「絵馬」
「末社 小山天神社」
「末社 合祀殿」
摂社 親母神社 (うばがみしゃ)(国登録有形文化財)
祭神:豊玉姫命
一間社流造で朱塗で彩られ、屋根は檜皮葺
左から「親母神社」「合祀殿」「小山天神社」
愛車と多宝塔
旅の初日に、このように形が良く美しい多宝塔に出会えると思ってもいなかった
撮影 令和2年9月11日
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