今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

史跡若松城址・鶴ケ城(福島県会津若松市追手町)

2016年08月27日 | 
裏磐梯「五色沼」で知り合った二人の男性から喜多方ラーメンの有名店を紹介してもらった
店のおすすめという「ネギラーメンとギョーザ」を注文
ふだん「札幌ラーメン」に慣れ親しんでいる私にとっては、違和感のある味
店員の対応も酷く久し振りに嫌な時間を過ごした

そこで学生時代一度訪れたことのあり、良い思い出のある「鶴ケ城」を目指すことにした
ところが悪いことは重なるもので、ナビの案内通りに走っていたら鶴ヶ城公園に入る際、一方通行を逆走
早くもボケ老人の仲間入りをしてしまった



八重の桜の影響なのか公園内は観光客で賑わっていた
「はるか」と命名された桜の木



大河ドラマ「八重の桜」で山本八重、後の新島八重を演じた女優 綾瀬はるかのメッセージである



「鐘撞堂」
時守を置いて昼夜時刻を城下に報じていた堂
戊申の役で新政府軍の砲火により時守が相ついで斃れたが、開城の間際まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞した



史跡若松城址
地元では鶴ヶ城、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い
文献では黒川城、または単に会津城とされることもある



学生時代、会津若松駅で近くを歩いていた孫を連れたお婆さんに鶴ケ城までの道を尋ねると。親切にも城まで案内(約3km)してくれた
この時の感謝の気持ちは40年以上過ぎた今でも鮮明に記憶に残っている
その思い出を胸に再び会津の地に



武者走り
この石垣は、鶴ケ城の大手門の渡り櫓などへ簡単に「昇り」「降り」ができるように造られている



V字型に造られ「武者走り」とも呼ばれ鶴ケ城石垣の特色の一つ



「石垣」
鶴ヶ城で一番古いのが天守閣の石垣で、蒲生氏郷が築いたもの



「野面積み」という自然石を組み合わせて積み上げる
慶長16年(1611年)8月21日、会津盆地を震源とするマグニチュード6.9と推定される大地震が発生
民家2万戸が倒壊し、多数の死者も出る大惨事だったが、天守閣の石垣は持ちこたえたという



蒲生氏郷が豊臣秀吉の命令で会津を治め、七層の天守閣を築いた
江戸時代、地震で被害を受けて再建した天守閣は現在と同じ五層
幕末の戊辰戦争では西軍の猛攻に耐え難攻不落の名城と称えられたが、明治政府の命令で取り壊され、現在の天守閣は昭和40年(1965)に再建されたもの



城内の様子。再建された天守は若松城天守閣郷土博物館として利用されている









最上階まで上ってきた



天気にも恵まれ市街まで眺望することができた



この城は七層あった天守閣が地震で傾き五層になった
会津戦争では1か月の間持ちこたえ、板垣退助勢に、薩摩の援軍の助けをかりても遂に城は落ちなかった
ここからの眺めを見て熊本城で見た景色を思い出した



什の掟―じゅうのおきて(ならぬことはならぬものです)
 一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
 一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
 一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
 一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
 一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
 一、戸外で物を食べてはなりませぬ
 一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
   ならぬことはならぬものです

什の掟のいくつかを思い出しながら城を出た



茶室麟閣(福島県指定文化財)
千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられ、千家が茶の湯の世界から追放された
氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんでその子、少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に働きかけた



その結果、少庵は京都に帰って千家を再興し、千家茶道は一子、宗旦に引き継がれた
かくまわれている間、氏郷のために造ったと伝えられているのが「麟閣」



「寄付(よりつき)」



外露地に構えられる建物で、茶会に先立って客が連客と待ち合わせたり身支度を整えて、席入りの準備をする



「中門」
内露地の出入口に設けられた門で、高さが低く抑えられ、茶室の躙口同様、潜りの意味が込められている



「腰掛待合」
客が露地入りして亭主の迎えを待ったり、中立の祭に一旦露地に出て、後の席入りの合図を待つ建物



「蒲鶴亭」
戊辰戦争で会津藩が敗れ、明治初年、鶴ヶ城が取り壊される際、石州流会津怡渓派の森川善兵衛(指月庵宗久)は貴重な茶室の失われるのを惜しんだ
明治5年(1872)、自宅へ移築し、以来百二十年にわたり、森川家はその保全に努めた









茶室麟閣から見える鶴ケ城



学生時代、会津藩の選択した道に魅力を感じ訪れ、40数年後に再訪することとなった
昔、この城まで案内してくれたお婆さんのおもてなしの気持ちを忘れず生きてきた



そのお婆さんの年齢に近づこうとしている。この先、何ができるのか城を見ながら考えた



撮影 平成28年5月20日

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