横蔵寺から車で10分もかからない場所に、華厳寺がある。
考えてみると早朝から水分は補給しているが食事はとっていない。
かなりの空腹だが30歳半ばで即身成仏を志し、断食断水の行にはいって入定した妙心上人を見たあとでは我慢しようとする気持ちが強くなる。
途中、駐車場があったが、さらに近いところにあるのではないかと仁王門の近くまで進むが残念ながらなく最初確認した場所に戻る。
緩やかな上りの参道が続き、土産物店、飲食店、旅館などの立ち並ぶ。
1キロはありそうな距離で正直疲れたが正面に仁王門が見えてきたため気持ちが楽になった。
谷汲山 華厳寺の歴史
岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積にある天台宗の寺院。 山号は谷汲山(たにぐみさん)。
本尊は十一面観音、脇侍として不動明王と毘沙門天を安置する。
西国三十三所第三十三番札所、満願結願の寺院。 西国三十三所の札所寺院では唯一、近畿地方以外にある。
仁王門
入母屋造、三間の二重門。奥の間左右に仁王像を安置。その手前、通路の左右に巨大な草鞋が奉納されている。
延暦20年(801年)、桓武天皇の勅願寺となり、延喜17年(917年)には醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜。
華厳寺の写真の枚数がなぜか極端に少ない。本来なら仁王像や草鞋なども撮しているはずだが1枚もない。
仁王門からは長い石畳が続く。
しばらく歩くと本堂が見えてくる。
本堂
華厳寺は延暦17年(798年)、会津黒河郷の豪族大口大領なる人物によって創建された。
大口大領は都の仏師に依頼して十一面観音の像を造立した。
大口大領は観音像とともに会津に帰ろうとしていたが、途中、美濃国の赤坂(現・岐阜県大垣市)で観音像が動かなくなってしまった。
赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、大口大領は同地に草庵を建立。
延暦末年に、当地で修行していた僧・豊然上人(ぶねんしょうにん)の協力を得て華厳寺を建立した。
本堂本尊の十一面観音立像は、厳重な秘仏で、写真も公表されておらず、制作年代、構造等の詳細は不明である。
十一面観音立像。どこで撮したかは記憶にないが、時間系列から本堂にあったものと思われる。
本尊は秘仏なので御前立なのかもしれない。
今、写真を見て気づいたが、仏像の衣にお経らしきものが書かれている。写真を少し加工してみた。
本尊を実見した人の話として、十一面観音像は榎の一木造、像高7尺5寸、像身に華厳経を書し、衣には三千仏像と諸仏の三昧耶形を描く特異な姿の像であるという。
脇侍として不動明王像と毘沙門天像(後者は重要文化財)を安置する(いずれも非公開)。
堂内右手に納経所、地下に「戒壇巡り」があり、正面向拝の左右の柱には「精進落としの鯉」と称する、銅製の鯉が打ち付けられている。
西国札所巡礼を三十三番札所の当寺で満願した者は、その記念にこの鯉に触れる習わしがある。
笈摺堂
西国三十三所霊場の中興者と伝承される花山法皇は徒歩で巡幸し、当寺を第三十三番札所の満願所と定め、禅衣(笈摺)、杖、及び三首の御詠歌を奉納した。
この堂には西国三十三所巡礼を終えた人々の奉納した笈摺、朱印帳等が置かれ、多数の千羽鶴が奉納されている。
千羽鶴は折鶴(おりつる)が笈摺(おいづる)にちなむことから奉納される
写真ではわからないが参拝者が多い。
第三十三番札所の満願所となっているため、観光気分で参拝している私とは違う雰囲気がある。
写真の枚数が少ないのもそのような理由なのかもしれない。
本堂から少し離れた小径をあるいてみると、猿でなく狸が
この直後、目の前が真っ暗になり倒れてしまった。
気がつくと大切なカメラをきちんと胸に抱き守っていたから可笑しい。
多少の擦り傷はあったが、睡眠不足、猛暑、空腹という理由もわかっているので心配はなかった。
仁王門を後にして駐車場に向かう。
北方系民族には慣れるまでこの暑さは厳しい。今日から主食は「そば」と決めているが、どこまでもつか楽しみだ。
もう一つ、この寺の写真と印象があまりにも少ないので機会があればもう一度来たい。
撮影 平成22年7月23日
考えてみると早朝から水分は補給しているが食事はとっていない。
かなりの空腹だが30歳半ばで即身成仏を志し、断食断水の行にはいって入定した妙心上人を見たあとでは我慢しようとする気持ちが強くなる。
途中、駐車場があったが、さらに近いところにあるのではないかと仁王門の近くまで進むが残念ながらなく最初確認した場所に戻る。
緩やかな上りの参道が続き、土産物店、飲食店、旅館などの立ち並ぶ。
1キロはありそうな距離で正直疲れたが正面に仁王門が見えてきたため気持ちが楽になった。
谷汲山 華厳寺の歴史
岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積にある天台宗の寺院。 山号は谷汲山(たにぐみさん)。
本尊は十一面観音、脇侍として不動明王と毘沙門天を安置する。
西国三十三所第三十三番札所、満願結願の寺院。 西国三十三所の札所寺院では唯一、近畿地方以外にある。
仁王門
入母屋造、三間の二重門。奥の間左右に仁王像を安置。その手前、通路の左右に巨大な草鞋が奉納されている。
延暦20年(801年)、桓武天皇の勅願寺となり、延喜17年(917年)には醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜。
華厳寺の写真の枚数がなぜか極端に少ない。本来なら仁王像や草鞋なども撮しているはずだが1枚もない。
仁王門からは長い石畳が続く。
しばらく歩くと本堂が見えてくる。
本堂
華厳寺は延暦17年(798年)、会津黒河郷の豪族大口大領なる人物によって創建された。
大口大領は都の仏師に依頼して十一面観音の像を造立した。
大口大領は観音像とともに会津に帰ろうとしていたが、途中、美濃国の赤坂(現・岐阜県大垣市)で観音像が動かなくなってしまった。
赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、大口大領は同地に草庵を建立。
延暦末年に、当地で修行していた僧・豊然上人(ぶねんしょうにん)の協力を得て華厳寺を建立した。
本堂本尊の十一面観音立像は、厳重な秘仏で、写真も公表されておらず、制作年代、構造等の詳細は不明である。
十一面観音立像。どこで撮したかは記憶にないが、時間系列から本堂にあったものと思われる。
本尊は秘仏なので御前立なのかもしれない。
今、写真を見て気づいたが、仏像の衣にお経らしきものが書かれている。写真を少し加工してみた。
本尊を実見した人の話として、十一面観音像は榎の一木造、像高7尺5寸、像身に華厳経を書し、衣には三千仏像と諸仏の三昧耶形を描く特異な姿の像であるという。
脇侍として不動明王像と毘沙門天像(後者は重要文化財)を安置する(いずれも非公開)。
堂内右手に納経所、地下に「戒壇巡り」があり、正面向拝の左右の柱には「精進落としの鯉」と称する、銅製の鯉が打ち付けられている。
西国札所巡礼を三十三番札所の当寺で満願した者は、その記念にこの鯉に触れる習わしがある。
笈摺堂
西国三十三所霊場の中興者と伝承される花山法皇は徒歩で巡幸し、当寺を第三十三番札所の満願所と定め、禅衣(笈摺)、杖、及び三首の御詠歌を奉納した。
この堂には西国三十三所巡礼を終えた人々の奉納した笈摺、朱印帳等が置かれ、多数の千羽鶴が奉納されている。
千羽鶴は折鶴(おりつる)が笈摺(おいづる)にちなむことから奉納される
写真ではわからないが参拝者が多い。
第三十三番札所の満願所となっているため、観光気分で参拝している私とは違う雰囲気がある。
写真の枚数が少ないのもそのような理由なのかもしれない。
本堂から少し離れた小径をあるいてみると、猿でなく狸が
この直後、目の前が真っ暗になり倒れてしまった。
気がつくと大切なカメラをきちんと胸に抱き守っていたから可笑しい。
多少の擦り傷はあったが、睡眠不足、猛暑、空腹という理由もわかっているので心配はなかった。
仁王門を後にして駐車場に向かう。
北方系民族には慣れるまでこの暑さは厳しい。今日から主食は「そば」と決めているが、どこまでもつか楽しみだ。
もう一つ、この寺の写真と印象があまりにも少ないので機会があればもう一度来たい。
撮影 平成22年7月23日
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