○昭和54年5月2日(水)晴。
明日は、後輩の○山君の結婚式だと言うのに、○○産婦人科から23時前に紹介があった。1.600g余だった。特に問題はない様だ。ドクタ一の子どもさんとのことで、それなりに気を使う。未熟室は、今、これで3人だ。○○ベビ一、助かった。とても嬉しい。
○昭和54年5月3日(木)晴。
長崎まで朝早く行って、その日の内に帰って来た。長大の小児科の教授はおっとりした感じの人で、長大の雰囲気がそれなりに分かった。和気あいあいって感じだ。
○昭和54年5月4日(金)曇。
来年佐伯に帰ろうかなあと言う気になってきた。大学では、来年の4月からは、リサ一チをしないといけない。もう、医者になって来年で5年目になるから、大学にいる限りリサ一チせざるを得なくなる。しかし、そんな時間にもっと自分が社会に貢献できることがあると思う。それが小児救急だ。大分県の新生児・未熟児医療は、常にワ一スト10に入っている。それも、最後のワ一スト5に入ることが多い。特に、県南の医療は、最悪だ。今の自分の能力と体力があれば、出来そうな気がする。一番したいこと(新生児・未熟児医療を含む小児救急医療)をする時には、残念だが、同時に一番好きなことを捨てなければいけない。人生とは、そんなものだ。捨てるもの、それは学生の教育だ。
○昭和54年5月7日(月)雨。
忙しかった。8時から二外科との心臓カンファランス、9時からポリクリに来ている学生の講義、10時から外来、13時に外来がやっと終わってメシを急いで食って、病棟へ行って、それから午後の心カテをして、この日は当直。若さで乗り切っている。佐伯では、○海か西田か?産婦人科で大きくなった西田にしようかなあ。
*(○○先生や△△先生から、西田では、個人病院なので、良心的に出来ないぞと言われていた。それがずっと気になっていた。しかし、事実は、全く逆であった。西田病院で長く続けられたのは、自分の思う様に医療が出来たからである。初代の産婦人科医である西田茂先生、二代目のやはり産婦人科医である西田猛史先生には、私はとても大事に可愛がって頂いて、忙しかったが、とてもやり甲斐のある小児救急医療が出来ていた。)
○昭和54年5月17日(木)晴。
明日、医学生の百日咳の講義があるので、○○さんに
プリントするべきものを渡した。僕が一番よく症例の記録を取っているとのことで、H教授から、症例をプレゼンテ一ションする様に頼まれたのだ。こんなことも、佐伯に行くとなくなるなあ。
○昭和54年5月28日(月)晴。
満30歳になった。スゴイ、しかし、やっと30歳になったって感じもする。医者になって丸3年経って、来月から4年目になるのだなあ。これで一人前でないと何をやっているのだって感じになる。20歳の時は、浪人だった。この10年間、スゴイ進化だ。佐伯に帰れば、何と、30歳で小児科部長になれるのだなあ。
*写真は、8カ月(6月1日)の長女。
明日は、後輩の○山君の結婚式だと言うのに、○○産婦人科から23時前に紹介があった。1.600g余だった。特に問題はない様だ。ドクタ一の子どもさんとのことで、それなりに気を使う。未熟室は、今、これで3人だ。○○ベビ一、助かった。とても嬉しい。
○昭和54年5月3日(木)晴。
長崎まで朝早く行って、その日の内に帰って来た。長大の小児科の教授はおっとりした感じの人で、長大の雰囲気がそれなりに分かった。和気あいあいって感じだ。
○昭和54年5月4日(金)曇。
来年佐伯に帰ろうかなあと言う気になってきた。大学では、来年の4月からは、リサ一チをしないといけない。もう、医者になって来年で5年目になるから、大学にいる限りリサ一チせざるを得なくなる。しかし、そんな時間にもっと自分が社会に貢献できることがあると思う。それが小児救急だ。大分県の新生児・未熟児医療は、常にワ一スト10に入っている。それも、最後のワ一スト5に入ることが多い。特に、県南の医療は、最悪だ。今の自分の能力と体力があれば、出来そうな気がする。一番したいこと(新生児・未熟児医療を含む小児救急医療)をする時には、残念だが、同時に一番好きなことを捨てなければいけない。人生とは、そんなものだ。捨てるもの、それは学生の教育だ。
○昭和54年5月7日(月)雨。
忙しかった。8時から二外科との心臓カンファランス、9時からポリクリに来ている学生の講義、10時から外来、13時に外来がやっと終わってメシを急いで食って、病棟へ行って、それから午後の心カテをして、この日は当直。若さで乗り切っている。佐伯では、○海か西田か?産婦人科で大きくなった西田にしようかなあ。
*(○○先生や△△先生から、西田では、個人病院なので、良心的に出来ないぞと言われていた。それがずっと気になっていた。しかし、事実は、全く逆であった。西田病院で長く続けられたのは、自分の思う様に医療が出来たからである。初代の産婦人科医である西田茂先生、二代目のやはり産婦人科医である西田猛史先生には、私はとても大事に可愛がって頂いて、忙しかったが、とてもやり甲斐のある小児救急医療が出来ていた。)
○昭和54年5月17日(木)晴。
明日、医学生の百日咳の講義があるので、○○さんに
プリントするべきものを渡した。僕が一番よく症例の記録を取っているとのことで、H教授から、症例をプレゼンテ一ションする様に頼まれたのだ。こんなことも、佐伯に行くとなくなるなあ。
○昭和54年5月28日(月)晴。
満30歳になった。スゴイ、しかし、やっと30歳になったって感じもする。医者になって丸3年経って、来月から4年目になるのだなあ。これで一人前でないと何をやっているのだって感じになる。20歳の時は、浪人だった。この10年間、スゴイ進化だ。佐伯に帰れば、何と、30歳で小児科部長になれるのだなあ。
*写真は、8カ月(6月1日)の長女。