日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

盆踊り太鼓

2007-08-26 20:22:43 | Weblog
  平成9年の初めに父が他界し、その年から、盆踊り太鼓を父の供養のこともあり(父が生前に太鼓を打っていたこともあり)、打っています。

  盆踊り太鼓、簡単そうですが、とても難しいと思っています。特に間(ま)の取り方が。

  以下は、私なりの私見です。

1、まず、音楽に合わせて太鼓を打つ。これが簡単な様で、難しい。少なくとも、踊り手が太鼓の音で踊りにくくならない様に。

2、次に、皆がよく聞こえる様に、強く打つ。又、それなりに強弱を付ける。

3、普通の太鼓演奏では、縁はあまり打たないが、盆踊り太鼓は、縁が命。聴いて快い感じで、リブミカルに打つことが大切。

4、衣装や格好も、大切。(端から見て、太鼓から打たれている様に見える感じで打つ)

5、踊りに合わせて、打つ。(踊りをそれなりに知らないと、打てない。曲に応じて、打ち方をそれなりに変え、出来れば、いろんな打ち方をする。太鼓の音に引っ張られて、踊りが始まり、踊りが続けられるのである)

*写真は、10年前のもの。地元の長島町で毎年打っています。



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派遣医

2007-08-26 09:13:48 | Weblog
 熊本県は、自治医大卒の人の拘束期間後の県内定着率が全国で一番最低とのこと。どうしてかなあ?
 9カ年拘束と言っても、実際には、研修病院で勤務したり、特殊なことを学ぶ為に県外に行ったりしていて、実質、県の指導下ではわずか4~5年前後でしか、へき地で活躍していないことになる。当院では、自治医大卒のドクタ一が当院勤務後に地元の強いコ一ルで拘束期間後に再就職して頑張っているが、こんな例は少ないのかなあ?
 今までは自治医大卒以外は大学医局主導の感じだったのが、来年からは、別枠で5人が県の派遣医予備軍として医学部に入学することになる。と言っても、一人前になるには、10年近く掛かる訳で、気の遠くなる様な話であるが、まあ、ちょっとだけは前進って感じかな。
 将来は、自治医大の2人を含めると、9ヶ年、毎年7人が県の派遣って感じになる。つまり、7人×9=63人が、県の主導で派遣されることになる。ちょっとした大きな医局員の数だ。その内、中央での研修や中央での診療の数を除くと、12名前後が、へき地に県の意向で派遣されることになるのかなあ?だとすると、それなりに、改善される感じになっていくと期待されるが、問題は、県主導でないドクタ一がへき地にその時まだ定着しているかどうかの方が大きな問題の様な気がする。
 我が田舎の病院では、産科(1人)も小児科(2人)も整形外科(1人)もある。今の時代、これは、例外だろう。しかし、4人の内3人は、還暦近くの年齢に達している。
 地方の医療は、派遣医以上に、今いるドクタ一の維持(いなくなった時の代わりのドクタ一確保を含めて)が、今後は一番大きな問題になりそうな気がする。

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為になるかも知れない本(その190)

2007-08-26 07:44:08 | Weblog
○昭和54年9月11日(火)晴。
 (神経芽細胞腫の)○○さんが心停止したとのことで電話があり、直ぐに行った。7:50に永眠した。挿管しても意味がないと思ったのでしなかった。話を聞いて、頭蓋内出血(+DIC)と思った。それにしても、母親にそれまで話していて、ちょっと目をそらした後に、意識がなくなったとのこと。急であった。昨日血小板が1万しかなかった。親も諦めていたし、オペしたことは、結果的には良くなかった。親が剖検したがっていなかったので、無理に勧めなかった。感謝していた。
○昭和45年9月15日(土)晴。
 敬老の日で、久し振りに家でボケッとしていた。溜まった総括も書き上げたし、患者さんも落ち着いている。佐伯に帰ってどんな感じで救急をして行くのか、今から考えておかないといけないなあ。1人でするので、時間帯を一応決めておく必要があるなあ。夜、必ず、1回、診ることが必要だと思う。そして、それを毎日続けることだ。自分なら出来ると思う。それを10年ほどして、状況を見て、クリニックでも開業しようかなあ。そして、外国にも行ってみたい。
○昭和54年9月22日(土)晴。
 (月~土○○町立病院)多かった。40人来た。嘔吐のひどいのが多かった(小形球状ウイルス?)。延岡までバスで行って、それから電車で佐伯に帰った。西田病院に夜23時にたまたまベビ一ル一ムを覗いてみたら、ひどいメレナの子がいた。(出血性の)ショック状態になっていた。検査するとHbが5しかなかったので、ビックリして直ぐに輸血をした(この子が佐伯で私が命を救えた第1号になった)。点滴したのは、ここでは初めてとのこと。(今まで、こんな感じになれば、まず、助からなかったらしい?新生児・未熟児医療は、県南では、殆どされていなく、2.000g未満は、諦めるケ一スが多かった様である)
○昭和54年9月23日(日)晴。
 輸血したベビ一が気になって、朝、4:30に帰り、点滴が抜けたとのことで、又、朝7:00過ぎに西田病院に行った。Hbが7にしかなっていなかったので、又、輸血をした。前よりも動きが良くなり、新しい血便はなくなった感じだ。助かった。嬉しかった。こんな患者さんが今まで沢山いたのだなあ。正に、県南は、新生児医療の未開地。(佐伯市の小児科開業医の先生は、あまりの忙しさに為に体を壊されて、時間外の診療は出来ない状態になっていた。小児救急医療のことが佐伯市議会でも取り上げられた。で、結論は、来年から西田病院に小児科医がくるので、・・・と言うことで、納得したらしい?!)
○昭和54年9月24日(月)晴、秋分の日。
 まだ、Hbが10を切っていたので、又、輸血した。これでバッチリと思う。うんちもあり、顔色もだいたい普通になり、元気に動いている。もう、大丈夫だ。こんな感じで、急変してその場に自分がいた為に救える患者さん、ここだと10人はいそうだなあ。(この日に、宮崎に帰る)
○昭和54年9月28日(金)晴。
 当直であった。3月末にここを辞めるまで、当直、あと30回するかなあ。佐伯に帰れば、1年365日当直だなあ。初めの3カ年は苦しいと思うが、体力に自信があるし、やる気はなくならないと思うから、出来ると思う。

*写真は、7月26日(10カ月目)の長女。


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