日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

西洋医学の死角

2007-08-31 15:46:15 | Weblog
 8歳の女の子が土曜の夕方に紹介で来た。4日目で、40度の高熱で、稽留熱で、目が赤く、顔色赤く、手足も熱く、脈は強く(洪脈、浮脈、数脈さくみゃく)、舌は、白苔厚く(不見底)、紅舌で、カラカラの脱水の舌をしていて、元気ない。口蓋扁桃は、白い浸出物が著明。
 ロセフィンなどの抗生剤を静注し、熱冷ましも何度も使用し、それでも一向に解熱しないとのことで来院している。
 腹痛あり、咳嗽あり、検査を見ても、白血球多くなく、炎症を示すCRPも3ちょっとでしかない。とっさに、ウイルス、それもアデノと思い、アデノチェックの検査をする。かろうじて、薄く線が出た(時間が少し経っていたので強陽性でなかったと思われる)。
 外来で黄連解毒湯1包を注腸し、点滴する。1時間後には明らかに解熱傾向となり、顔色も少し良くなる。そのまま入院し、抗生剤使用することなく、点滴と8時間おきに、熱証に使う黄連解毒湯の注腸を繰り返した。一直線状に解熱し、土曜の夕方には、食欲も普段の半分となり、顔色も良くなった。夕方から、小柴胡加桔梗石膏の内服薬に変更する。日曜には、(親の言では)普段の顔色になり、食欲も普通にある為に、まだ、少し喉が赤いも退院とした。
 (2泊3日入院して)退院後3日目に、来院(ちょっと遠方の人)。喉の所見は全く普通になり本人今どうもないと言う。それで、柴胡桂枝湯を3日分処方して終わりにした。
 この治し方、多くの人から奇異に受け取られ、非難も受けるかも知れないが、多くの親御さんからは、大変感謝されてきている。
 アデノウイルスには、特効薬は、西洋医学にはない。私の様な治し方が正式に認めれるのは、ずっとずっと先だろうなあ?!

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受け入れる病院がなくて流産

2007-08-31 07:10:38 | Weblog
 同じ過ちって感じで、マスコミが報道している。大学病院なら、どうにかなったはずって感じで、マスコミが報道されいる。
 しかし、見方を変えると、深夜に手術をしている奈良県立医大の産婦人科、本当にご苦労様。それに、10カ所の病院が深夜でも受け入れが出来ない程、頑張っていること、それに対してもご苦労様と言いたい。多くの産婦人科医が、人知れず頑張っているのに、その頑張りに対しての賞賛はなく、何かあった時に叱責が多いだけって風潮になっている。
 大学の産婦人科の医師がどんなに限界で働いているのか知っているだけに、マスコミの非難を疑問に思う。その時1つベッド空いていていたのにとか言ってマスコミが騒いでいるが、そんな問題ではない。奈良県では、1人の医師が年間160件もの分娩を扱っているのだ。そして、恐らく、救急車が連絡をその時にとったどの産婦人科でも、それなりに限界に近い感じで働いていると思う(働かされていると言った方が適切なのかも知れない)。その過酷な条件で、医師側が訴訟を県を相手に現に起こしているのだ。
 私の姪が(次兄の娘)が、関東の病院の産婦人科で産婦人科医として働いているが、話を聞いてみると、想像以上忙しそうで、皆、若い産婦人科医が疲れ切っていると言う。買い物をする暇が充分に取れないとのこと。次兄がその娘に会いに言って、私に電話が掛かってきた。「小児科と産婦人科、忙しくて大変やなあ。給料はいいみたいやが・・・」と(日本の場合、その多くは、忙しいからと言って、その科だけその分給料が上がる訳でもないのだが)。実の親でも、自分の娘がどんなに忙しく働いていたのか、数カ年間も知らなかったのだ。ましてや、一般の人が、産婦人科の本当の忙しさを知るすべもないはずだ。
 今回、分別ある年齢なのにかかりつけ医がなく、深夜の3時頃に買い物をしているのも何か腑に落ちない(夜遅くまで仕事をされているのだろうか?)。流産歴がある。週数にしても、いろんな報道がされている。父親である男性の悲しい顔が全く出てこない。何か、不自然さを感じる。
 マスコミの一方的な報道、一般の人の医療に対する認識、今の不徹底な周産期医療の実態に対しての行政の認識、それらが待ったなしで早急に変化せざるを得ない時期に既に来ている。 

以下は、8月29日の毎日新聞の内容

奈良の搬送中流産:「同じ過ち、なぜ」 大淀の教訓生きず「医療機関充実していれば」

 深刻な産科医不足が、またも悲劇を生んだ。大阪府高槻市で29日、妊娠中の女性(36)を搬送していた救急車が交通事故に巻き込まれ、その後、女性の流産が確認された。女性は、奈良県橿原市内で買い物中に下腹部の痛みを訴え、9カ所の医療機関に受け入れを断られた末、約1時間半後に受け入れに応じた高槻市内の病院に向かう途中。救急車に乗ってから約2時間20分後の事故だった。同県では昨年8月に19病院から受け入れを断られた妊婦が死亡し、周産期医療の救急体制の不備が問題になったばかり。その遺族は「なぜ同じことが繰り返されるのか」と、唇をかみしめた。
 女性が「下腹部が痛い」と訴えたのは、橿原市内の自宅近くの24時間営業スーパーで買い物をしていた29日午前2時44分ごろ。一緒にいた同居の男性が119番通報した。9カ所の医療機関に延べ11回、「手術中」「処置中」と断られ、ようやく同4時19分に高槻市内の病院が受け入れに応じた。救急車が同市内で事故に巻き込まれたのは、同5時9分ごろだった。
 代わりの救急車は現場で約30分間、足止め状態に。「胎児が、女性の体外に出ており、処置などに手間取った」という。胎児は20週目くらいだった。橿原消防署の西谷重信・予防課長は「女性には不幸なことだった。医療機関が充実してさえいれば、こんなことにはならなかった」と話した。
 同県大淀町立大淀病院では昨年8月、分娩(ぶんべん)中に意識不明となった高崎実香さん(当時32歳)が、19病院に転送を断られた末、約60キロ離れた搬送先の国立循環器病センター(大阪府吹田市)で約1週間後に死亡した。高崎さんの義父憲治さん(53)はこの日、「悲しく、悔しい。家族として同じことを繰り返さないよう訴えてきたのに、何も変わっていない。関係者は責任を持って、もっと真剣に考えてほしい」と訴えた。
 救急搬送が必要な妊婦を県外病院に転送する比率が04年に4割近くに達していた同県。大阪府でも、「産婦人科診療相互援助システム」加盟病院への搬送件数は、96年の963件から、05年には1779件と2倍近くに増加している。両府県など2府7県は、府県境を越えて円滑な緊急搬送を実現するため「近畿ブロック周産期医療広域連携検討会」を今年3月に設置。来年度からの運用を目指しているところだった。
 1次救急どう対応--大阪府の産科救急ネットワークの中核を担う府立母子保健総合医療センターの末原則幸・副院長兼産科部長の話・・・府内の「産婦人科診療相互援助システム」(OGCS)は、かかりつけの病院など地域の出産施設から搬送を受ける2次救急のネットワークの中にある。今回のように、救急隊が現場から妊婦を搬送する1次救急は、枠組みに入っていない。今後、1次救急にOGCSとして、どう対応するか検討する必要がある。

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為になるかも知れない本(その195)

2007-08-31 07:00:43 | Weblog
○昭和55年2月1日(金)晴。
 ASDと外来診断が付いていた○○先生の患者さんが、心カテしたらECDであった。エコ一でECDみたいだと言っていた。心電図は、右軸偏位。心臓は、なかなか当たらない。そして、根治的に治すのは、小児科医でなくて心臓外科医だ。そこが少し寂しい。
○昭和55年2月3日(日)曇。
 当直明けであった。深夜0時に入院した嘔吐下痢の子、ショック状態であったが、元気になっていた。命なんて、ちょっとしたことで、取り返しが付かなくなる。その時に、出来る医者がいても、肝心な時に見なければ、意味がない。患者さんが元気になってくれるとこちらも元気になれる。
○昭和55年2月9日(土)晴。
 ○○町立病院での診療も、今日で終わりだ(月~土まで働いた)。今日は50人を越えた。インフルエンザみたいだ。いつまでこの流行が続くのかなあ。
○昭和55年2月11日(月)晴、勤労感謝の日。
 (佐伯で診療し)2泊3日で50人ほど診た。この日、2人点滴をした。小児科が一度もおいてなかった病院しては、まあまあ来たなあと思う。
○昭和55年2月15日(金)晴。
 学生の講義があって、神経芽細胞腫をし、最後の20分間、自分の言いたことを言わせてもらった。小児科での救急医療の大切さ、特に新生児・未熟児医療が如何に大切な領域であるかを言った。又、小児科医の生き甲斐が如何に大きいかも言った。皆、真剣に聴いてくれていた様だ。
○昭和55年2月16日(土)晴。
 ○○小児科に(代診で)行き、100人余診た。この流行時期にしては、少ないと思う。こんな感じで代診で、時間外も診ないとなると、次第に少なくなっていくかなあ。と言うことは、毎日診て、時間外も少なくとも1日に1回は診ていけば、どんどん多くなって行くだろう。
○昭和55年2月17日(日)晴。
 宮医大での最後の日曜の当直の日。日曜当直だと、月曜が忙しいので、それなりにきついことが多い。しかし、佐伯に帰ったら、毎日当直だ。しかし、ここと違って、やり甲斐がある。今の自分の医師として全開しているエネルギ一をフルに無駄なく最も有効に活用したい。研究する暇など、ない。
○昭和55年2月19日(火)晴。
 当直だった。昨日は、佐伯から(薬の問屋さんの)吉村の人が来た(今は、ダイコ一)。大分県南の小児医療が如何に遅れているかを具体的に知らされた。新生児・未熟児は、どこもしていない。小児科医のいる病院は、ないに等しい(佐伯の健保病院の小児科の医師も、自分が西田病院に就職する前後に、いなくなってしまった。それで、佐伯市・津久見市・臼杵市の病院には、小児科医0となってしまった)。小児の救急に至っては、最も貧弱とのこと。使いたい薬をリストアップしていたので、それを渡した。患者さんを教育をして、深夜は出来るだけ来ない様にしたいなあ。朝は、7;30から診療開始すれば、待ち時間も少なくていいかなあ・・・。(西田病院では、しばらくして、朝7:30から診療する様になった。たはら小児科医院では、初めから、7:30から診療していた。今考えると、スタッフが自分に合わせてよく頑張ってくれたなあと思って感謝しています。)


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