日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

今、地方の産科医は、・・・。

2007-06-05 06:45:24 | Weblog

医療の崩壊が現実になろうとしている。特に、産科だ。もう、既に起きているかな。
 当院の病院の産科の先生、ここでもう、15年と2ヶ月になる。ずっと(殆ど)一人で頑張ってきている。昨日の夕方、その先生と少し話をした。
 先生は、ここに来る前は、別の所で、8年半していたとのこと。医局のドアを開けてベランダに出て、医局の前に見える広々とした海を二人で見ていると、先生は、指さして、向こうに見える所が○○市で、そこにある病院で精一杯昼も夜もよく働きましたよと懐かしそうに話す。そこでは、年間400~500以上のお産を扱っていたと言う。睡眠不足のままで、外来、手術、病棟と忙しかったなあと話す。しばらくして、研修1年後のドクタ一が来るようになったが、一年間しっかりと鍛えてやっと使えるかなあと思った時に、次のドクタ一と交代になってしまう。若いドクタ一をしっかりと見てないといけないので、それでかえって苦労したこともあったと言われる。この病院に来て、自分が○○市にいなくなったら、大学から二人もちゃんとした産婦人科医が直ぐに派遣されて来たと言われる。
 私と同じ団塊の世代。医大の援助がなければ、もう、体力的に、お産はこの先、出来ないなあと寂しそうにポツリと小さな声で言われた。
 産科医一人で頑張っている病院、まだ、地方では多い。そうでなくても、産科医の少ない時代。一人だと、大学も派遣しづらいとのこと。
 団塊の世代も、いつまでも、元気であるはずはない。
 今日は、朝、5時半に病院から電話があった(朝の4時から、私の拘束になっている)。吸引分娩している子が生まれたので、診て欲しいとの電話があったのだ。直ぐに行くと、産科の先生が、元気に仕事をされていた。
 マスコミは、一人でこんなに頑張っている人を取り上げることは、まずない。足りない時は、大騒ぎするのに。


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為になるかも知れない本(その109)

2007-06-05 06:14:56 | Weblog
○昭和51年6月17日(木)晴。
 久し振りに早く帰った。今から、21時には、帰るとしようかなあ。この1カ月間は、夜の0時前後まで病院にいることが多かった。朝は、7時前には行かないといけない。出来たら、毎朝6時半に(注射の下手な僕は、この頃より、朝早く行って、病棟の子の採血をした)。
○昭和51年6月21日(月)晴。
 初めての給料日だった。手取りが、7万3300円。しかも、こちらが、「給料日なのに、自分等(自分と先成君)だけないのはどうしてか?」と聞いて、事務の方が、「忘れていた」と言って、遅れて持ってきたのだ。全く馬鹿にしている!今日は、忙しかった。テクニックが下手と言うことだけで、全てが駄目と思われて、看護婦から馬鹿にされるから、早く覚えねば。
○昭和51年6月26日(土)曇。
 土曜というのに忙しい。今、受け持ちは7名。来月は、間違いなく10名以上になるなあ。来月からは、当直(正確には、当番で、小児科だけを診るだけで、それも、自宅待機可。もちろん、研修医には、報酬は0円)。夜、二人急患を診た。一つ一つ、症例を大切にして、それなりに記録し、確実に自分のものにして行くしかない。
○昭和51年7月1日(木)曇。
 一ケ月間、本当に過ぎてしまった。何もかもが新しいことばかり。本当に未熟って感じだ。次の1カ月で大きく成長して行こう(小野先生は、自分等に未熟児を持たせたかった様であったが、梶原先生は、「まだ、未熟児だから」ということで、初めの3カ月は、少ししか、新生児・未熟児を持たせてもらえなかった。しかし、それ以後は、経験に関係なく、新生児・未熟児に関しては、順々に受け持って行くことが多かった)。
○昭和51年7月2日(金)曇。
 川崎病の子どもを退院させた。肩の荷が降りたって感じだ。肉をもらった。本当は(勉強させて頂いて)こちらがお礼をしないといけないのに。写真を一緒に撮った。「先生は、これで川崎病は何人目?」と親から聞かれた時、正直に言えなくて、そんな自分がみじめだった。しかし、僕だって1年経てば、立派にある程度のことはやって行けるだろう。この日は、初めての一人での当番で、胃洗浄をした。
*この頃より、次第に、習得の早道の要領がわかってきた。兎に角、早朝に出来ることは、早朝にして、朝の8時00分の部長の診察に間に合う様に、外来に行き、処方を書くことで、どんどん覚えて行った。小児科で使ういろん薬の添付文書を集めて、成分が何で、どこに効いているのか、調べて行った。又、先輩の入院カルテを引っ張り出して、病名と指示の仕方をノ一トに書いて、まとめて行った。


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為になるかも知れない本(その107)

2007-06-04 07:33:17 | Weblog
○昭和51年6月2日(水)晴、4:55記(研修1年目、宮崎県立宮崎病院での31年前の日記より)。
 今日、早く行ってカルテを又見て、朝の内に診察しよう。今日、無事に終わるかなあ。デ一タ一に振り回されないことが大切だ。患者さんをよく診て、早く慣れることが大切だ。暇があれば、病棟に行こう。そして、患者さんや家族の信頼を得ることが大切だなあ。
○昭和51年6月4日(金)曇、7:05記。
 少し慣れた。カルテに書いてしまうと安心する感じだ。考察をカルテにちゃんと書くことが大切だなあ。今日は、食事会があった。野中先生が小児科の医長になったのと、松岡先生が宮医大に帰るのと、僕と先成君の入局の三つを兼ねていた。部長の回診って、試験みたいなものだなあ。今日、交換輸血をした。とても勉強になった。
○昭和51年6月7日(月)曇、8:56記。
 慣れてきた。指示は上手くいっているのかなあ?今、患者さんを5人受け持っている。これが、20人近くになったら、どうなるのかなあ。今は、正真正銘のやぶ医者だなあ。上の人に聞いたり、本に頼るしかない。無からの出発って感じで、全くすることが多過ぎるよ。しかし、一歩一歩確実に自分のものにして行くしかない。入退院の時の記載は、医者をする限り、しっかり書いておかなくてはいけないなあ。
○昭和51年6月8日(火)曇。
 ○砂君を昨日退院させた。医者になって、初めて退院させた。入院している患者さんには、どんな患者さんにも、処方しないとけいないということを初めて知った。薬がないと、子どもが不安がるので、ビタミン剤をやるのだ。この病院には、おかしな所が3つある。その一つは、食事の種類が5つあって、そのどれかを摂っていることが多いということ、つまり、カロリ一がきめ細かくないのだ。次に、カルテの記載が不完全ということ。POSには、ほど遠い。それに、しっかりとした研修医のシステムがない。
 
 カルテは、自分なりにタイプで4種類のものを作成して(カルテに貼り付けて)、それを自分なりに使用した。研修医の場合は、空いている宿舎にも入れなかった。研修医でも入れる様に自分等がずっと言い続けて、それが可能になった。研修医の給料は、1年目が月税込みで8万円、2年目が月税込みで12万円で、それ以外は、何も県からは支給されなかった。バイトも(献血以外は)禁止であった。自治医大卒の研修医は、自分等と全く同じことをしているのに、30万ほどもらっていた。


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ミニ回診

2007-06-03 15:42:46 | Weblog
 「ミニ回診」で医師と患者のコミュニケーションと満足度を改善との内容が発表されていた。

 小児科の場合は、その多くが急性の為、何度も病棟に足を運ぶ。ちょっと落ち着いていても、少なくとも、1日に2回は、普通は、3回は、病棟に行っている。日曜も祝日もである。親御さんからの要請があれば、もちろん、行っている。けいれんや喘息であれば、1日に何度も病室へ行っている。
 外来や院外の健診や予防接種や看護学校の講義などで、直ぐに行けない時に、要請がある時は、直ぐに対応できない。それで、けいれんや呼吸困難の時は、大変である。他の医師に依頼して、行くことになる。しかし、いつも診てきている小児科医の方が状況が把握しやすいのは、当たり前のこと。いつも診ている主治医だと、聴診器を当てなくても、(小さな小児の場合は、そのまま状態が出るので)顔色や食欲や動きなどで、経過が把握できることが多い。

 病室に行っても、親子共に、疲れ切っていて、朝遅くまで、お昼も、よく寝ていることが度々ある。又、室外に買い物に行ったいたり、電話を掛けに行っていたり、検査でいない時もある。付き添いの人が代わっていて、状況を聞いても、知らない場合もあるし、検査データを持って行って説明しようとしても、親御さんがいない時は、又、後ですることになる。
 
 医師も、自分のペースがあり、歯を磨いたり、トイレに行ったり、入浴したり、食事をしていることもあり、もちろん、夜は、寝ている訳で、夜、起こされない様にと、気になる患者さんの場合は、帰る直前に、病室に行って、状況を確かめている。
 点滴をしている場合は、私は、早朝、「おしっこは、普段と比べて多いですか、少ないですか?」と「よく眠れましたか?」と質問している。又、行った度毎に、ちゃんとご飯を食べたかどうか、質問している。
 ミニ回診と言う言葉、初めて耳にした。このミニ回診、時間がない場合、患者さんの立場に立てば、あまり変化がない患者さんの場合でも、顔色を診て、ちょっと話をして、1分前後でそこを後にしても、コミュニケ一ションを取る意味で、大変いい方法だと思う。
 いい臨床医は、病棟に、しばしば足を運んでいると思う。特に、小児科医は、親御さんを安心させる為にも、それが必要な気がしている。


 以下は、その内容。

医師と患者のコミュニケーションと満足度を短時間で効率よく向上させる方法として「ミニ回診」が有効であり、今後も研究に値するとの研究結果が出た。

「ミニ回診」は医師と患者のコミュニケーションと満足度を短時間で効率よく改善する方法として有効であり、今後大規模に研究する価値がありそうだ。このような報告が病院医療協会(SHM)の年次総会、Hospital Medicine 2007で発表された。

「医師と患者のコミュニケーション効率は質の高いケアを提供するうえできわめて重要である」と、研究を発表した主著者であるクリーブランド・クリニック・ラーナー医科大学(オハイオ州)臨床助教授のVesselin Dimov, MDはMedscapeに語った。「対面は必要なことだが、同時に時間がかかる。我々の目標は、大型三次医療センター教育病院の病棟のホスピタリストグループで、医師と患者のコミュニケーションと満足度を効率的に改善するミニ回診という方法を編み出すことであった」。
 医療訴訟の多くは、たいがい医療従事者と患者とのコミュニケーション不足に原因がある、と著者らは指摘している。ホスピタリストにとって、コミュニケーションは極めて難しい問題になりうる。ホスピタリストは常に初めて会う患者とのコミュニケーションに直面し、タイミングよく患者の信頼を得て親密な関係を築き、ハイレベルな医療の提供と外来主治医へのスムースな引継ぎをしなければならないからである。
 今回のパイロット計画で、クリーブランドクリニックの研究者らはホスピタリストと患者のコミュニケーションを改善する補助手段としてミニ回診の可能性を調べた。
「ミニ回診とは短時間の回診(1回約1分)を繰り返し行うことである。この間、医師は患者に体調に変化がないか聞き、その日の検査結果や予定などを話した」とクリーブランドクリニック病院医療部総合内科スタッフであるDimov博士は話す。「ミニ回診は定期回診に加えて実施した」。
 急性期入院患者病棟のミニ回診は平日業務の最後に、亜急性期の重症患者を治療する施設では1日の始めに実施した。26名のホスピタリストから2名をミニ回診の担当に割り当て、最後にその成果を同僚らと比較した。定期回診は両病棟で別々に実施した。
 入院患者病棟ではミニ回診で15人を見回るのに平均20分、亜急性期患者の治療施設では30人を見回るのに平均30分かかった。
 患者が病院および亜急性期患者治療施設を退院した後、ホスピタリストと金銭的にも何ら関係のない電話調査員が電話をかけ、入院中の感想と受けた医療に対する満足度について質問した。
 2カ月間の試行期間終了時、病棟の医療従事者がミニ回診した患者の満足度スコアは他の病棟の医療従事者が巡回した患者の満足度より有意に高かった。患者、医師ともにミニ回診によりコミュニケーションと患者ケアが良くなったと感じた。
「外来患者診療をやりながら入院患者をみなければならないプライマリケアの医師のかわりにホスピタリストが患者に近い存在になることによって、患者満足度が向上する」とクリーブランドクリニック病院医療部長Franklin Michota, Jr., MDはMedscapeに語った。Michota博士はこの研究に加わっていないが、独立的な立場でのコメントを求められこう語った。「しかし、病棟の医療従事者はさまざまな業務に追われてパンク寸前の状態にあり、毎日ベッドサイド業務に十分な時間を割くことができない。ミニ回診は、時間効率のよい方法で患者を満足させることがコンセプトのようだ」。
 また、少数の患者を対象にした単一施設の研究であることが今回の研究の限界であるという。ミニ回診で本当に大多数の患者を満足させられるのかどうかはまだ分からない。
「ホスピタリストは働き過ぎでギリギリの状態にある。この問題は深刻さを増しているが、本研究はそれに対する独自なアプローチだと思う」とMichota博士は言う。「迅速なミニ回診によって、医師が患者のすぐ側にいるということを患者に安心感を与えることができる。また、医師はその日のうちに対処しておかなければならない疑問や心配を聞くことができる。いずれにせよ、1日2回以上の回診は病棟の医療従事者が当然やるべきことだろう」。
 今後の展開に関して、Michota博士は患者1人に対して病棟の医療従事者が1日に回診する頻度の全国標準を調べることに興味がある、と述べた。
「ミニ回診は、短時間で効率よく医師と患者のコミュニケーションと満足度を向上させる方法であり、大規模に研究するに値する」とDimov博士は締めくくった。「今回の結果を検証するため、さらに多くの病棟の医療従事者と患者を集めて予備調査を拡大するつもりである」。
 この調査計画に対する補助金の提供はなかった。Michota博士をはじめ財政的関係を報告した著者はいない。
Hospital Medicine 2007: Abstract. Presented May 23-25, 2007.

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為になるかも知れない本(その106)

2007-06-03 14:08:35 | Weblog
○昭和51年5月22日(土)雨。(研修1年目、宮崎県立宮崎病院小児科)
 梶原部長の(ここでの部長生活20周年を記念しての)ピアノリサイタルがあった。梶原先生のピアノ、すごく上手であったが、時々、(練習不足の為か)間違えられた。○大の○○教授が、「全く完璧な出来で・・・」と言ったので、梶原先生がクスクスと笑っていた。又、○○大の○○教授は、アルコ一ルが入っても、心臓のことしか話さない。
○昭和51年5月23日(日)雨。
 明日からとうとう始まるなあ。抄読会は、予習してないと意味がない感じがするなあ。診療日誌を付けて行くべきかなあ。POSで書かないといけないなあ。バチッとしたカルテがここにはない(ので、しばらくして、自分で、4つの種類を作成した)。明日から出勤か、信じられない。一カ月も経てば、そして、三カ月も経てば、更には、半年経った時、自分は、まあまあのまあの小児科医になっているのかなあ・・・?
○昭和51年5月28日(金)雨。
 厚生省から来た合格通知書をコピ一して、事務室と保健所に持って行った。まだ、医師免許証を手にしていないので、ピ一ンとこない感じ。注射が下手な僕。一つ一つテクニックを覚えて行かなければいけない。慣れれば、人以上に出来る気もするが。失敗を生かすことだなあ。大きな失敗はあってはならないが。今日は、自分の誕生日だった。満27歳になってしまった。
○昭和51年5月29日(土)雨。
 朝8:00から抄読会があった(抄読会は、木曜と土曜の週2回あり、木曜は、宮医大で18:00からあった)。交換輸血が又あって(今週は、これで2回目)、夜の23:30過ぎに終わった。医者って、本当に大変だ。松岡先生は、もうすぐ、医大に帰ってしまう。
○昭和51年5月30日(日)晴。
 昨日の脱水の子、良くなってなかった。山元先生は、「死ぬかも知れない・・・」と心細く言う。主治医になれば、大変だなあ。僕も月曜か火曜から多分患者さんを持つことになる。恐ろしいなあ。しかし、案ずるより生むが易しだ。本と先輩に頼ってするのみだ。暇を見ては、項目別にまとめて行こう。生理・記録の鬼にならないといけないなあ。
○昭和51年6月1日(火)晴。
 初めて患者さんの主治医となった。松岡先生の患者さんを引き継いだ。急性腎炎と慢性腎炎とネフロ一ゼ症候群とテタニ一の4人。ここの小児科では、忙しくて、ゆっくりと考える暇がない感じだ。

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為になるかも知れない本(その105)

2007-06-02 08:47:20 | Weblog
 「六年間の懺悔」と題して、卒業記念誌に、昭和45年に卒業されたある人の書かれた内容が記載されていた。

 この六年間を振り返って見るに、月並みな言葉ではあるが、実に長いようで短かった六年間であった。自分はなぜ医学部を志望したのであろうか。大学受験の半年程前までは、他の学部を目指していたのだが、やはりあの当時、祖父が癌で死んだという事が自分を医学の道へ進ませる大きな力になっていたのではなかろうかと思っている。だから、一応は目的を持って大学に入った訳ではあるが、教養の生活でともすると自分の目的を見失っていたのではないだろうか。
 あの二年間でよく記憶に残っている事と言えば、クラブとかまた何物にも煩わされずにゆっくりとできたことぐらいである。一体何を学んだかというと、ただ独語の変化を覚えるのに四苦八苦したことぐらいである。やはりあの縛られた高校時代の生活から抜け出た開放感と、自分の自覚の無かったことがあのような生活態度となっていたのであろう。なぜもう少し語学をしっかりとやっておかなかったのだろうかと、今更ながら後悔する次第である。
 そして、専門に進んでからはどうかというと、これはまた教養とは段違いに忙しかった。まず、あの骨の名前を覚えるのに真っ先に参ってしまった。教養の時代で頭はすっかりボケてしまっていてたのであろう。わけのわからぬ単語をラテン語で丸覚えすることはそれはそれは苦痛であった。しかし、あれだけ苦しんで覚えたのにもかかわらず、現在では、殆ど忘れ去ってしまっている。覚えるのは遅いが、忘れるのはそれは早いものである。
 また、専門の基礎科目がいかに臨床と関連があるかということは、今頃になってやっとわかってきたのであるが、これがなぜもう少し早く分からなかったものかと悔やまれてならない。先輩とか先生方ともっと積極的に話しておくべきであった。そうしていれば、そのことが少しでも避けられていたと思う。
 臨床科目を学ぶ時にも、絶えず基礎に立ち帰るということが今我々に一番欠けているのではないだろうか。ともすると一時的な暗記に陥りやすいものである。それはその時には如何にも効果があるようにみえるが、実際は何ら役に立たないものである。自分自身幾度となくこのような事を体験してきている。医学によらず何事に於いても、単に付焼刃的な勉強ではいずれその報いが自分に来るということはよくわかっているつもりであるが、この六年間何となくズルズルと過ごしてきたと思う。試験に通ってからといって事が済むものではないのである。試験にパスしたということがその科目は終了したというような錯覚を与えることを、我々は常に用心し反省しなければならないし、また錯覚であるとわかっていながらそれに対して自己満足するということにも注意しなくてはならないと思う。
 とにかくこの六年間を振り返って感ずることは、医学の医の字もはっきり理解せず、ただ作られたル一トに乗っかかって考えるわけでもなく、単にぼんやりと過ごしてきたのではないだろうかということである。やはり、マイペ一スであっても、絶えず初心に帰って謙虚に自分を見つめ直し、自分の今まで至らなかった点を常に反省し、それによって今後自分の人生に少しでも進歩的な道が開ければ幸いと思う次第である。


( 参考図書:

・大学をどう選ぶか 週間朝日 昭和58年10月5日増刊号    
・学生時代に何をなすべきか 講談社 昭和60年1月1日発行  
・人生の四季 NHK教育テレビ 日野原重明 )

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為になるかも知れない本(その104)

2007-06-01 06:38:17 | Weblog
 医学部での大学生活をする上で、次の5項目の注意点を挙げたい。

1、基礎医学に強くなること(病態生理に強くなる)!
 生理学・生化学・解剖学は、医学の基礎である。これ等を自分の頭で有機体にする能力が要求される。この三者は、人間の正常編といっとところで、それを充分に理解してないとその応用の異常編が理解できなくなる。生化学→薬理学→臨床薬理学、解剖学→発生学→奇形症候群、解剖学→組織学→病理学と切っても切れない関係がある。生化学が出来てないと、(GOT、GPT、LDH、クレアチニン、尿素窒素など)、検査デ一タが読めないし、解剖学を知らなければ、外科系では致命的である。
 神経内科の助教授が、「神経を知ろうと思ったら、解剖が半分だよ」とまで言われた。又、心臓外科医の教授は、「僕の様にかなりの年限、手術をしてきていても、動脈か静脈か神経か、それさえ分からないことがある」とさえ言われた。
 専門の初めの2カ年の間に、基礎を頭に叩き込んでおくことがどうしても大切で、それが上手く出来れば、臨床医学は面白く(もちろん、基礎医学も、理解しようとすると面白くなってくるが)、忘れず、応用が効き、病態生理の強い医師になれると思う。

2、予習&復習をし、休みを利用する!
 専門では、どの科目にしても、スゴイ量である。当然、講義で全てを教えることは不可能である。今までに全く知らなかったことを短い期間でどんどん消化していかなければいけない。実習で夜遅くなることも多い。毎日レポ一トで締め付けられる。ポリクリで患者さんに接する様になると、精神的に疲れる。追試があれば、更にきつい。それに、国家試験のコの字も大学はせず、進級も国試も、年々難しくなるばかり。それで、長い春休み、夏休み、冬休みをフルに利用して(その時には、自分で週休2日制にして、1週間に2日間、充分に休めていると思って)、普段と同じ様に勉強することである。その時、まとめること、いい本を選ぶことが大切である。まかり間違っても、生理学・生化学・解剖学を、薄い本だけで済ます様なことは、絶対に避けるべきである。試験に合格しても、絶えず、振り返って又勉強することが大切である(私の場合、医科生理学展望とハ一パ一の生化学の本の改訂版を、臨床医学をしている時に、再読した)。

3、実習(研修)を積極的にする!
 体で覚えたことは、なかなか忘れない。長い春休み、夏休み、冬休みを利用して、出来るだけ実習(研修)することが必要である。本の上での勉強と、実際に目で見、体を使っての勉強では、印象が全く違う。将来の進路を考えた上で、自分なりに計画を立てて実行することである。大学を上手に利用すること、又、大学で経験できないことでも、学生の時に出来ることは、他の施設に頼んで、許される限りしていた方がいいと思われる。
 自分の場合、生化学教室、病理学教室、大学病院、徳之島診療団、開業医、南海病院(健保病院)、県立宮崎病院、国立療養所などを利用した。

4、時は今、素直に、そして謙虚に!
 教養課程では、「教養は、医学と関係ないから」、専門課程では、「基礎は臨床とあまり関係ないから」、卒業前では、「卒業してからが本当の勉強だ」、研修中は、「何でも出来る時代ではない。専門だけで充分」、それから数年後には、「医者になりゃ、あんな高度な知識は要らんよ」、かくして自分の非を認めない様な医師となる。絶えず自分を省み、謙虚な心、素直な心を持ち、人の意見を聞く耳を持って、絶えず精進して行くべきである。

5、人の心を察する様に努めよ(相手の立場に立って考える習慣を)!
 同世代の人達よりも成績がいいことに価値観を置き、人と競争することに慣れ(大学入試は、定員に余る受験生を消去する為にある)、周りからは秀才と言われ、受験の為に多くのことを犠牲にしてきた人間(自分がそうであった)が、人の心を察することが出来る人間になる様に言われても、直ぐにそうなれる訳がない。秀才、必ずしも、病んだ患者さんにとっては、いい医者ではない。
 ハ一バ一ド大学のC.W.エリオット総長は、卒業式の時に、ナ一スに次の様に言われた。
 「君達はあまりにも自分自身のことを考え過ぎている。あまり自分のことを考え過ぎるな。他人のことを配慮することが習慣化された人間になって欲しい。そうして、正しいと思ったことは、勇気を持ってやってくれ。そうすれば、君達は、報いられるであろう」と。



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