日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その191)

2007-08-27 08:36:43 | Weblog
○昭和54年10月8日(月)晴。
 僕がいなくなったら、学生の教育は誰が中心になってするのかなあ?○○君かなあ。今している毎朝の学生へのレクチャ一は、なくなるだろうなあ。さ来年は、小児循環器学会が宮崎である。忙しいだろうなあ。フレッシュマンが何人小児科に入ってくるのかなあ?
○昭和54年10月12日(金)晴。
 「ナ一スの為の新生児の手引き」なる小雑誌を書き上げた。嬉しい。こんな風に自分なりにちゃんとまとめることが大切だなあ。
○昭和54年10月15日(月)晴。
 カテ前診断が、PSI+ASDであったが、心カテしてみると、ASDはなく、PSIだけであった。プロの小児循環器専門医が診ても、先天性心疾患の診断、当たらないなあ。しかし、○○先生だけは、心カテ前に、どうもPSIの様にあると言っていた。○○先生、凄いなあ。
○昭和54年10月17日(水)曇。
 朝、6年生に2時間余講義し、15:00より約2時間講義をした。何と、1日に4時間も講義をして疲れてしまった。
○昭和54年10月24日(水)晴。
 外来の心検のエコ一を僕がとった。前よりも少し上手にとれる様になったが、まだまだだ。一例一例、大切にしていくしかない。
○昭和54年10月25日(木)晴。
 10:50より、専門2年生の講義にH教授と行った。このクラスで講義をするのは初めてだった。150枚ものスライドを用意していたが、その半分しか出来なかった。14:30からも、ポリクリの学生にバッチリ国家試験チックに特訓をした。こんなことも、もう出来なくなるなあ。
○昭和54年10月26日(金)晴。
 ASDの心カテをした。造影をしなかったので、40分足らずで終わった。本当に上手くなったと思う。前の週は3人、今週は1人、来週は2人、心カテだ。この心カテをすることよってCHD(先天性心疾患)の診断がよく当たる様になったと思う。心カテで確認してなければ、当たっているかどうか本当のことは誰も分からない訳だから。
○昭和5年10月29日(月)晴。
 15:10より、AGS(副腎皮質過形成)の講義をH教授と一緒に行ってした。H教授の講義、詳しいのだけれども、ポイントがちょっと掴めない感じだ。僕のは、国家試験チックにポイントしか言わない。学生さん、よく聴いてくれている感じだ。

*写真は、8月1日(10カ月)の(つかまり立ちをして、いいないバ一で喜んでいる)長女。

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盆踊り太鼓

2007-08-26 20:22:43 | Weblog
  平成9年の初めに父が他界し、その年から、盆踊り太鼓を父の供養のこともあり(父が生前に太鼓を打っていたこともあり)、打っています。

  盆踊り太鼓、簡単そうですが、とても難しいと思っています。特に間(ま)の取り方が。

  以下は、私なりの私見です。

1、まず、音楽に合わせて太鼓を打つ。これが簡単な様で、難しい。少なくとも、踊り手が太鼓の音で踊りにくくならない様に。

2、次に、皆がよく聞こえる様に、強く打つ。又、それなりに強弱を付ける。

3、普通の太鼓演奏では、縁はあまり打たないが、盆踊り太鼓は、縁が命。聴いて快い感じで、リブミカルに打つことが大切。

4、衣装や格好も、大切。(端から見て、太鼓から打たれている様に見える感じで打つ)

5、踊りに合わせて、打つ。(踊りをそれなりに知らないと、打てない。曲に応じて、打ち方をそれなりに変え、出来れば、いろんな打ち方をする。太鼓の音に引っ張られて、踊りが始まり、踊りが続けられるのである)

*写真は、10年前のもの。地元の長島町で毎年打っています。



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派遣医

2007-08-26 09:13:48 | Weblog
 熊本県は、自治医大卒の人の拘束期間後の県内定着率が全国で一番最低とのこと。どうしてかなあ?
 9カ年拘束と言っても、実際には、研修病院で勤務したり、特殊なことを学ぶ為に県外に行ったりしていて、実質、県の指導下ではわずか4~5年前後でしか、へき地で活躍していないことになる。当院では、自治医大卒のドクタ一が当院勤務後に地元の強いコ一ルで拘束期間後に再就職して頑張っているが、こんな例は少ないのかなあ?
 今までは自治医大卒以外は大学医局主導の感じだったのが、来年からは、別枠で5人が県の派遣医予備軍として医学部に入学することになる。と言っても、一人前になるには、10年近く掛かる訳で、気の遠くなる様な話であるが、まあ、ちょっとだけは前進って感じかな。
 将来は、自治医大の2人を含めると、9ヶ年、毎年7人が県の派遣って感じになる。つまり、7人×9=63人が、県の主導で派遣されることになる。ちょっとした大きな医局員の数だ。その内、中央での研修や中央での診療の数を除くと、12名前後が、へき地に県の意向で派遣されることになるのかなあ?だとすると、それなりに、改善される感じになっていくと期待されるが、問題は、県主導でないドクタ一がへき地にその時まだ定着しているかどうかの方が大きな問題の様な気がする。
 我が田舎の病院では、産科(1人)も小児科(2人)も整形外科(1人)もある。今の時代、これは、例外だろう。しかし、4人の内3人は、還暦近くの年齢に達している。
 地方の医療は、派遣医以上に、今いるドクタ一の維持(いなくなった時の代わりのドクタ一確保を含めて)が、今後は一番大きな問題になりそうな気がする。

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為になるかも知れない本(その190)

2007-08-26 07:44:08 | Weblog
○昭和54年9月11日(火)晴。
 (神経芽細胞腫の)○○さんが心停止したとのことで電話があり、直ぐに行った。7:50に永眠した。挿管しても意味がないと思ったのでしなかった。話を聞いて、頭蓋内出血(+DIC)と思った。それにしても、母親にそれまで話していて、ちょっと目をそらした後に、意識がなくなったとのこと。急であった。昨日血小板が1万しかなかった。親も諦めていたし、オペしたことは、結果的には良くなかった。親が剖検したがっていなかったので、無理に勧めなかった。感謝していた。
○昭和45年9月15日(土)晴。
 敬老の日で、久し振りに家でボケッとしていた。溜まった総括も書き上げたし、患者さんも落ち着いている。佐伯に帰ってどんな感じで救急をして行くのか、今から考えておかないといけないなあ。1人でするので、時間帯を一応決めておく必要があるなあ。夜、必ず、1回、診ることが必要だと思う。そして、それを毎日続けることだ。自分なら出来ると思う。それを10年ほどして、状況を見て、クリニックでも開業しようかなあ。そして、外国にも行ってみたい。
○昭和54年9月22日(土)晴。
 (月~土○○町立病院)多かった。40人来た。嘔吐のひどいのが多かった(小形球状ウイルス?)。延岡までバスで行って、それから電車で佐伯に帰った。西田病院に夜23時にたまたまベビ一ル一ムを覗いてみたら、ひどいメレナの子がいた。(出血性の)ショック状態になっていた。検査するとHbが5しかなかったので、ビックリして直ぐに輸血をした(この子が佐伯で私が命を救えた第1号になった)。点滴したのは、ここでは初めてとのこと。(今まで、こんな感じになれば、まず、助からなかったらしい?新生児・未熟児医療は、県南では、殆どされていなく、2.000g未満は、諦めるケ一スが多かった様である)
○昭和54年9月23日(日)晴。
 輸血したベビ一が気になって、朝、4:30に帰り、点滴が抜けたとのことで、又、朝7:00過ぎに西田病院に行った。Hbが7にしかなっていなかったので、又、輸血をした。前よりも動きが良くなり、新しい血便はなくなった感じだ。助かった。嬉しかった。こんな患者さんが今まで沢山いたのだなあ。正に、県南は、新生児医療の未開地。(佐伯市の小児科開業医の先生は、あまりの忙しさに為に体を壊されて、時間外の診療は出来ない状態になっていた。小児救急医療のことが佐伯市議会でも取り上げられた。で、結論は、来年から西田病院に小児科医がくるので、・・・と言うことで、納得したらしい?!)
○昭和54年9月24日(月)晴、秋分の日。
 まだ、Hbが10を切っていたので、又、輸血した。これでバッチリと思う。うんちもあり、顔色もだいたい普通になり、元気に動いている。もう、大丈夫だ。こんな感じで、急変してその場に自分がいた為に救える患者さん、ここだと10人はいそうだなあ。(この日に、宮崎に帰る)
○昭和54年9月28日(金)晴。
 当直であった。3月末にここを辞めるまで、当直、あと30回するかなあ。佐伯に帰れば、1年365日当直だなあ。初めの3カ年は苦しいと思うが、体力に自信があるし、やる気はなくならないと思うから、出来ると思う。

*写真は、7月26日(10カ月目)の長女。


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団塊世代と救急車

2007-08-25 20:27:51 | Weblog
 ○月24日(金)、19時過ぎから、山道を救急車に乗って、40分間余掛けて、11カ月の頭蓋内出血の子の搬送した。CTにて、出血の所見があり、一般状態も良くなかったので、途中でけいれんでも起きたらいけないと思い、自分が付いていった。
 嘔気がしてきつかったが、何とか。又、帰ってからも、気分がしばらく良くなかった。「救急車で40分以上とばして行くのって、この歳(58)になると、もうきついよ」とスタッフに言うと、「若い人でも、あの山、きついですよ」と返事が返ってきた。
 その年齢年齢で出来ることがあると思う。歳を取れば、それなりに適した仕事があるはずだが、田舎にくれば何から何までしないといけない状況になっている。
 田舎に医者が来ないと言うが、政府は、今までなかなか医師を増やそうとしなかった。来年から、年間最大245人医学部入学者を増やすとのことだが、その人達が稼働し出すまでに今から10年掛かる訳で、又、それだけの数で足りるとはとうてい思えない。多くの人の非難をよそに、医療費を抑え込み、入院ベッドを抑え込み、悪名高きス一パ一ロ一テ一トを維持しようとしている。医師の数が年間8000人増えても、医師が年間4000人亡くなっており、新しく医師になる人の3000人は、女性で、その女性がまともに家庭に入っていけば(医療をしなくて研究をする人も少なからずいる訳で)、この高度医療でどんどん割合的に必要とされるドクタ一が増えるべきことを考えると、むしろ、医師の数は殆ど増えてないになるどころか、減少傾向にあるかも知れない。現実に、アチコチの医者不足が益々多くなっているではないか。
 大学での外科系の入局者は、極端に少なくなっていて、訴訟も多くなり、場合によっては刑事事件にまでなるケ一スもあり、勤務医でうつ状態になっているケ一スも増加しているとのこと。
 この先の医療事情、暗いなあ。


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為になるかも知れない本(その189)

2007-08-25 07:11:15 | Weblog
○昭和54年8月7日(火)晴。
 西田病院に行った。院長が部屋を見せてくれた。8月一杯には、出来そうな気もした。小児科になる所は、まだ全く出来ていなくて、リハビリテ一ション室になっていた。その隣にCTスキャンを入れそうだ。この日、自分と一緒に来る予定の脳外科医の○屋先生が、脳外科専門医に合格したとのことで、院長も少し興奮気味であった。西田病院に小児科と脳外科があれば、これえで本当の一人前の救急病院だなあ。
○昭和54年8月19日(日)晴。
 昨日は当直で、○○先生のクランケのけいれんで3回も起こされてしまった。明日も当直だ。総括を書かないといけない。心臓の教材も作らないといけない。
○昭和54年8月22日(水)曇。
 今日の新聞を見ると、大分県は8人の外国人医師がいるとのこと。その内の4人が、へき地にいるとのこと。又、自治医大の学生がお金を返して、へき地に行きたがらなくなっているとのこと。地方の公的病院に帰って来て欲しい為に、奨学金を学生時代に出している市町村もある。医療砂漠の県南で、自分の様な生き方をすること、正解だと思う。
○昭和54年8月25日(土)晴。
 一昨日当直で、今日も当直。夏休みは、皆が休むので、普段よりも忙しい。外来は、何もないかなと思っていたら、ムンプスで髄膜炎になっている感じで入院した(翌日、よく診ると、膵臓炎だった)。かなり子どもがくたばっていた。心臓疾患も新生児も、慌てない自分になっている。しかし、脳外の疾患はどうも自信がない。西田に行って、脳外科医から教わろう(西田病院では、頭部打撲などの脳外科的疾患が多く、脳外の術前術後管理を、10例前後させてもらった)。

*写真は、6月20日(8カ月)の長女(旅したホテル内で泣いている)。


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為になるかも知れない本(その188)

2007-08-24 07:34:27 | Weblog
○昭和54年7月2日(月)晴。
 ○○先生から隔離待合室に呼ばれた。自分の意志が変わっていないことを言った。そしたら、意外なことに、どうしたらうまく大学を出れるかを考えないといけないなあと言ってくれた。医局長の立場から、僕が大学を辞めない様にするしかなかったのだ。しかし、今は、それがもう不可能だと思っている。教授には、明日の回診の時に言おうと言うことになった。出来るだけ早やく言っておくべきだと言うことになった。
○昭和54年7月3日(火)晴。
 朝、H教授にその旨を言うと、12月まで、出来ることなら3月一杯までいて欲しいと言われた(スタッフが足りないので)。宮医大とのつながりを今後も続けてもらいたいと言われた。午後の回診後に呼ばれて、出来れば、あと2カ年いて欲しいと言われた。12月まで、スライドの整理とCHDの教材用の作成と国家試験の手引きの改訂版を12月の半ばまでに終えて、12月のポリクリの学生が終わった時点で最近帰って、年末・年始の診療を佐伯でしようと思う。
○昭和54年7月10日(火)晴。
 回診があり、その後、○助教授の所に行った。意外にも、引き留められる感じはなく、僕ならばどこに行ってもちゃんとやっていけると言われた。教育の田原と言うことで、スライドの整理と学生の教育を最後までしっかりしてあげたいと思う。
○昭和54年7月23日(月)晴。
 西田病院に11:00に行った。かっぷくのいい副院長(院長の長男、産婦人科医、西田猛史おさひと、共に慈恵医大出身)にも会った。ニコニコされていた。西田茂院長が、「あの難しい猛史が、婦人科の部屋は、今までどうしても他の科に譲ろうとしなかったのに、新生児室にと言うと、何故かコロッと明け渡した。先生が新生児をしてくれると言うので、猛史が大変喜んでいる」と言った。この病院では、病理があって、赤ん坊がよくわからないで死んだ時には解剖して、親を納得させていると言われた。前も、そんな事例があったとのこと。副院長の話は、とても上手だったと(大学で)講義を受けた姉が言っていた。小児科外来になるべき所にも行った。まだ、全く出来ていなかったが、ちゃんと設計図には、それなりに書かれていた。
○昭和54年7月30日(月)晴。
 ○○町立病院行きであった。患者さんが多かったが、12:30には、終えられた。そして、又、大学に行った。高齢の西田茂院長が、わざわざ宮医大小児科まで病院の車で(田中事務長と一緒に)来てくれて、H教授と会って話をちゃんと付けてくれたのだ。
○昭和54年7月31日(水)晴。
 西田茂院長が、佐伯に帰る途中で、○○町立病院に寄ってくれた。とてもニコニコしていた。本当に嬉しそうだった。H教授と西田茂院長の話し合いで、来年の3月まで大学病院にいることになった。後、まだ、8カ月もあるのだなあ。その間、更に、進化している様に、大学で学べることを出来るだけ吸収して、大学を去りたいと思う。
*写真は、開業した時に出版した「続・為になるかも知れない本(中)」の2ペ一ジの内容。


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佐賀北高校優勝の死角

2007-08-23 20:14:49 | Weblog
 もう、負けたと思って、途中から見てなくて、後で見た時は、もう佐賀北高校の監督がインタビュ一に応じていた。その後、テレビで何度も、8回裏の場面を見た。
 押し出しでフォ一ボ一ルで1点を取られた時、広陵の野村祐輔投手が笑っていた。それがどうしも納得がいかなかった。後で分かった、彼はてっきりストライクと思ったのだ。それがボ一ルと判定されて、エッと言った顔だったのだ。それで謎か解けた。
 相撲でも、明らかに負けてないのに、審判の采配で負けになることがある。プロ野球であれば、その時、乱闘騒ぎ一歩前って状態になるに違いない。しかし、そこは高校野球、そして、その精神的ショックからか、次のバッタ一に満塁ホ一ムランを打たれてしまったかも知れない。
 どうしても、高校野球ではカウント0-3からボール気味の球をストライクといったり、2-0からストライク気味の球をボールといって“試合をつくる”審判が少なくないとのこと。それの典型的な例が、8回裏だった様な気もする。
 「おかしいと思っても、高校野球では選手は口に出すことができない。だから僕が言うんです。あのジャッジはちょっとひどすぎた。(審判の技量について)高野連も考える時期に来てるんじゃないですかね。まったく負けた気がしません」テレビカメラを前に、自ら悪役を買って出た中井監督。その横で聞いていた野村と小林が必死に涙をこらえていた。
 体調不良でやっとベンチに出て来た中井監督に広陵の選手達は、優勝で元気にさせたかったと思う。そんな広陵のチ一ムの強い人間的な絆と判定の不満を口に出さない広陵の選手達に、惜しみない大拍手をあげたいと思う。
 

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異性学その15

2007-08-23 07:51:04 | Weblog
 職場が終わると、寄り道もせずに、真っ直ぐに家に帰り、賭け事も浮気も飲もせず、仕事に徹する感じで真面目に働いてきた男性が、定年後、不意に信じ切って連れ添っていた妻から離婚を言い渡される。こんなに真面目に生きてきたのに、何故って感じになり、離婚後もそれらしい理由が分からないままにいる男性が現にいる。

 この男女の大きなズレは、どこから来ているのか?

 昔は、多くの女性は、親が決めた相手と結婚し、その男性を絶対視していた。今は、夫婦の大半が、共稼ぎ。外に出れば、いろんなタイプの男性がいる。「愛している」「きれいだね」「ありがとう」「がんばるね」って言葉、そこには、長く連れ添った夫がかって言っていた世界がある。 更には、「奥さんの良さ、私にはよく理解できます」なんて言われると、女心、ついフラフラとなっても、不思議でない感じもする。

 経済的にも、女性が少なからず支えているとなると、絶対的な男女の服従の関係は、不自然となってしまう。男性が、家族の為に仕事ばかりしていて、お金だけを入れる感じになっていると、働きながら夫以上に子どもの世話をしている女性は、どうしてもそんな男性の生き方に納得出来ない。男性が、「好きなことをさせてやっているのに」との言い方、女性からは、男性が上にいて、女性の自立を認めていないと受け取られる。

 今や、女性は、いろんな情報を男性以上に持っていて、いろんな家族を知っている。それとついつい比較してしまう。しかし、多くの男性は、自分の育った家庭か、今の自分の家庭しか知らないし、他の家庭の生き方には、余り関心がない。

 特に多い妻からの不満は、「話し合おうとしない!(人間、親子も夫婦も、じっくりと話さないと分からないはず)」
 それに対して、夫からは、「長い間、連れ添った中、話さなくても分かるはず!」との返事。

 又、妻からは、「仕事ばかりして、家庭を省みない!(夫の仕事は、お金を稼ぐだけではないはずなのに)」
 それに対して、夫からは、「家族の為に、一生懸命に頑張っているのだ!」との返事。

 又、妻からは、「(子育てが終わったので)もっと自分の為に今からは生きたい!(夫がいつも家族と一緒にいてくれなくて、自分だけで子育てをしてきたから)」
 それに対して、夫からは、「家族はどうする!身勝手だ!(定年後、やっと家庭に戻れて、これから老後をゆっくりと過ごすつもりなのに)」との返事。

 急増しているこの定年離婚、何故か、世界では日本だけに見られる珍現象。手遅れにならない様に、特に私の様な団塊の世代の男性、いろんな手を先に打っておかないと、・・・・?!

(定年離婚の原因の多くは、長い間の不満の蓄積の結果です。妻の不満がどの程度今あるのか、じっくりと、今日でも、チャックしてみては如何でしょうか。)

 男の魅力って、女から見たら、なんだろうか?
 私が思うに、それは、男はでっかい夢が持てると言うことだと思う。そして、ひたむきな男の姿だと思う。
 女の夢は、生活に直接結びついているものが多い。スケ一ルが小さい(と言ったら、女性から、総攻撃をくらうかな?)。
 結婚しても、ハラハラドキドキしながら、夫を見守るゆとりが女性にあると、いいし、夫のそんな行動を楽しんでいると尚更いいだろう。
 女は、どんな強がりを言っても、頼れる男性を伴侶に持ちたがる。確固たる信念を持って、真剣に取り組んでいる姿に魅力を感じる。そして、自分にないもの、尊敬できるものを持っている男性に憧れる。
 以上、私のつたない論理ですが、如何なものでしょうか?


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為になるかも知れない本(その187)

2007-08-23 06:58:10 | Weblog
○昭和54年6月24日(日)晴。
 (西田病院は、個人病院なので、小児科は採算が合わないので産婦人科があっても小児科を置かないと思っていた。母が西田病院に勤務していた関係で、西田家とは、ずっと懇意にしていた。時々、母の手料理を院長先生に食べて頂いていた。南海病院の院長に言う寸前に、西田病院に言うだけ言ってみようということになり、母がそれらしいことを言った所、ベビ一で困っているので、是非是非来て欲しいとのことであった。院長が、僕の性格・能力をよく知っている、○海には言わないで欲しいとのこと。それも、出来るだけ早く来て欲しいとの返事で、ちゃんとした宿舎も探すからとのことであった)
 母上からの電話では、院長が、今度の夏休みに、具体的な打ち合わせをしたいとのこと。改築中なので、10月から来てもらえれば、一番いいとの内容であった。
○昭和54年6月25日(月)曇。
 夕方、医局長の○○先生に、10月から郷里の佐伯で仕事をしたい気持ちになっていると隠さずに正直に言った。○○先生、意外なことに、あまり驚く感じに見えなかった(だけかも知れないが)。出来れば、大学は9月一杯までにしたい、早く佐伯に帰って新生児・未熟児を含む小児救急医療をしたいと言った。
○昭和45年6月26日(火)晴。
 明日、○○先生と海幸で食事をすることになった。その時、割り勘でいくこと、○○先生の口調に流されないこと、自分の意志をはっきり言うことだなあ。リサ一チの途中で辞めるいかないし、チャンスは今だと思う。それまでいろいろ言われると思うが、夏休みで何とか切り抜けられると思う。

*再掲
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20061104/S


*写真は、6月1日(8カ月)の長女。


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