日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

粘りの佐賀人!

2007-08-22 18:29:29 | Weblog
 県立佐賀北高校が、夏の甲子園を制覇した。公立高校が優勝なんて、11年振り?、しかも、最多の73イニング(過去に1大会で最も多いイニングを戦ったのは、昨年の早稲田実の69)、スゴイ根性だなあ。
 広陵のピッチャ一のコントロ一ルが良くて、4対0でずっと押され気味だった。それが、8回の裏に、押し出しで1点取った後に、満塁ホ一ムラが出て、4-5となり、9回表の広陵打線を封じ込めて、見事に優勝した。
 7回まで見ていて、もう勝ち目はないなと思って見なかった。どう見ても、負けに思えていたから。しかし、しかしである、次にチャンネルで見た時、百崎敏克監督(51)がインタビュ一していて、それも、勝った感じで、「信じられない。何が起こったのか、よく分からない」と言っている。ひょっとしたら奇跡の逆転優勝?、次に、主将が、「皆さんの応援で勝てた」と言い、本塁打を放った副島浩史三塁手(3年)は「次の打者につなぐことだけを考え打席に立った。本塁打になるなんて...。最高に幸せです」と話している。スゴイ、あれから粘りに粘って逆転優勝したのだ。ちょっとテレビを見ない内に、こんな風に思ってもみなかった結果になっていたこと、自民党が社会党と組んで、大臣の経験もない大分県の村山さんの総理が決まった時以来だ。
 高校野球は、何か、そこに純粋さを感じる。又、無欲の勝利の大切さも感じる。ただ、真夏の一番暑い時なので、出来れば、もっと先の「体育の日」前後に日程を変更したらいいと思う。

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日本と韓国

2007-08-22 07:46:11 | Weblog
昨日、13時半より、病院に隣接した老人施設で「夏祭り」があり、昨年同様に、オープニング演奏をした。子どもの運動会は、家族が沢山集まって見るが、お年寄りの催しの場合は、家族の姿はない。施設の関係者が出し物などをして、盛り上げていた。
 夜21時過ぎに、韓国の人から電話があった。今、セミナ一で福岡に来ているとのことで、自分に会いたかった様だった。以前、別府に来ていた時は、会いに行った。
 その人は、現在、忠清北道の教育長をしていて、その人(Ro先生)のお世話で、以前、韓国で演奏した。
 又、清州市に行って、演奏をしたい。今度行く時は、飛行機で行こうと思う。オ一クランドでしてきた様に、少し長くいて、アチコチ演奏してみたいと思っている。
 韓国の人は、上と下の人の関係がはっきりとしていて、歳上の人はそれなりに尊敬される。家族の絆は、極めて強固である。人との絆も、いい関係が出来ると、長く続く。日本が失ってしまったものが、そこにある。
 何か、日本と韓国の違いをはっきりと見た様な気がしてならなかった。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/6348/kankoku-1.htm


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為になるかも知れない本(その186)

2007-08-22 06:33:42 | Weblog
○昭和54年6月3日(日)晴。
 当直の日だった。○○町立病院に月~土まで行くと、その月は、大学で集中的に当直する感じになる。日曜もよく働いていると思う。大学の医者って、どこもこんな感じなのかなあ。忙しくなる原因は、自分の仕事でなくて他の仕事をいいつけられてそうなる。もっと自分のペ一スで毎日を送りたいなあ。
○昭和54年6月4日(月)曇。
 心カテして、僕の診断が一番近かった。VSDと外来診断が付いていたが、VSD+PS+PDAであった。近頃、診断がよく当たっているなあ。当直明けなのに、検査に付いての講義もして、1日がアッと言う間に終わった。
○昭和54年6月9日(土)晴。
 ○○先生受け持ちの(ポンペ病の)○○さんの状態が悪くて、昼過ぎからチアノ一ゼが出て、夕方心停止状態となり、21時30分になくなった。親御さんも今までよく頑張ってきたと思う挿管している○○さんも全く良くなっていないし、結核性髄膜炎の子も、DORVの子も、良くない。冷や冷やの当直であった。○○ちゃんが、腹痛を訴えている。(小児科入院の約3分の1は、心疾患で、急変することが多く、深夜起こされることが多くなっていた)
○昭和54年6月11日(月)雨。
 心カテを2人して、スム一ズに出来た。上手になったと思う。運も良かったのかも知れないが。例の右季肋部痛の子は、便が出てから症状がとれた。ウイルス性ではなかった様だ。
○昭和54年6月18日(月)雨。
 明日から(小児循環器学会で)青森行きだ。帰ると、アナリ一ゼと総括と論文書きが待っているなあ。6月30日に、医局長に自分の先々のことを言うつもりだ。
○昭和54年6月19日(火)曇。
 学会が9:00からあり、疲れた。付いて行けない。エコ一が出来ないと駄目だなあ。しかし、それが出来出すと、自分の場合、もう、心臓から抜け出れなくなると思う。熊本の日赤の部長さんと話した。立派な人だなあ。頭低いし、話しやすい。熊本の研修医には、月に17万も出しているとこと。宮崎が安過ぎるのだなあ。
○昭和54年6月20日(水)晴。
 十和田湖より三沢に行って、そこにあるホテルに泊まった(学会後からそのまま休暇をもらっていた)。そこで、家族と合流した。もう、こんなにゆっくりと出来ることは、今から10年間、ないのかも知れないなあ。佐伯での10年間は、救急で追われて、アッと言う間に過ぎるだろう。
○昭和54年6月21日(木)晴。
 札幌空港は、さすがに冷え冷えとしていた。支笏湖に行った。明日は、定山渓に行く。北海道は広くて、雄大だなあ。
○昭和54年6月22日(金)晴。
 定山渓は、予想以上に立派なホテルだった。明日は、宮崎に帰るのだなあ。佐伯で頑張れる気がしてきた。
○昭和54年6月23日(土)晴。
 飛行機は、トライスタ一だった。初めて乗った。とても良かった。沖縄やハワイやヨ一ロッパや東南アジアにも行ってみたいなあ。佐伯で10年以上頑張ったら、その後、アチコチ外国に行ってみたい。エジプトにも、行ってみたい。せっかく生まれてきたのだから、悔いが残らない様に生きたい。


*写真は、6月1日(8カ月目)に撮ったもの。

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為になるかも知れない本(その185)

2007-08-21 07:58:33 | Weblog
○昭和54年5月2日(水)晴。
 明日は、後輩の○山君の結婚式だと言うのに、○○産婦人科から23時前に紹介があった。1.600g余だった。特に問題はない様だ。ドクタ一の子どもさんとのことで、それなりに気を使う。未熟室は、今、これで3人だ。○○ベビ一、助かった。とても嬉しい。
○昭和54年5月3日(木)晴。
 長崎まで朝早く行って、その日の内に帰って来た。長大の小児科の教授はおっとりした感じの人で、長大の雰囲気がそれなりに分かった。和気あいあいって感じだ。
○昭和54年5月4日(金)曇。
 来年佐伯に帰ろうかなあと言う気になってきた。大学では、来年の4月からは、リサ一チをしないといけない。もう、医者になって来年で5年目になるから、大学にいる限りリサ一チせざるを得なくなる。しかし、そんな時間にもっと自分が社会に貢献できることがあると思う。それが小児救急だ。大分県の新生児・未熟児医療は、常にワ一スト10に入っている。それも、最後のワ一スト5に入ることが多い。特に、県南の医療は、最悪だ。今の自分の能力と体力があれば、出来そうな気がする。一番したいこと(新生児・未熟児医療を含む小児救急医療)をする時には、残念だが、同時に一番好きなことを捨てなければいけない。人生とは、そんなものだ。捨てるもの、それは学生の教育だ。
○昭和54年5月7日(月)雨。
 忙しかった。8時から二外科との心臓カンファランス、9時からポリクリに来ている学生の講義、10時から外来、13時に外来がやっと終わってメシを急いで食って、病棟へ行って、それから午後の心カテをして、この日は当直。若さで乗り切っている。佐伯では、○海か西田か?産婦人科で大きくなった西田にしようかなあ。
*(○○先生や△△先生から、西田では、個人病院なので、良心的に出来ないぞと言われていた。それがずっと気になっていた。しかし、事実は、全く逆であった。西田病院で長く続けられたのは、自分の思う様に医療が出来たからである。初代の産婦人科医である西田茂先生、二代目のやはり産婦人科医である西田猛史先生には、私はとても大事に可愛がって頂いて、忙しかったが、とてもやり甲斐のある小児救急医療が出来ていた。)
○昭和54年5月17日(木)晴。
 明日、医学生の百日咳の講義があるので、○○さんに
プリントするべきものを渡した。僕が一番よく症例の記録を取っているとのことで、H教授から、症例をプレゼンテ一ションする様に頼まれたのだ。こんなことも、佐伯に行くとなくなるなあ。
○昭和54年5月28日(月)晴。
 満30歳になった。スゴイ、しかし、やっと30歳になったって感じもする。医者になって丸3年経って、来月から4年目になるのだなあ。これで一人前でないと何をやっているのだって感じになる。20歳の時は、浪人だった。この10年間、スゴイ進化だ。佐伯に帰れば、何と、30歳で小児科部長になれるのだなあ。
*写真は、8カ月(6月1日)の長女。

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周産期医療への行政の取り組み

2007-08-20 14:45:31 | Weblog
 大分県では、カンガル一号なるベビ一カ一が県内どこにでも24時間365時間、小児科医2名を乗せて走るシステムをかなり前からとられている。当初、県病の肥田木病院長が産婦人科医で、新生児・未熟児医療に難儀していて、周産期医療の大切さに気が付いていた。その結果、早々と、県病の小児科の部長を、新生児の部長と小児科の部長との2人体制にした。これは、当時では、画期的な出来事だった。又、スタッフも、新生児と小児科とほぼ同数にしていた。
 沖縄県の県立中部病院でも、周産期医療の大切さに気が付き、やはりここでも一般小児科の小児科医数よりも、新生児室の小児科医数の方をかなり前から多くしていた。昭和63年10月の九州新生児研究会で沖縄に行った時、安次嶺小児科部長は、新生児の方が手を取って大変だと話されていた。
 宮崎県でも、周産期医療は、現在非常に充実していて、宮崎大学医学部での周産期医療は、大学の目玉的存在にまでなっている。 ここまで来るのに、産婦人科教授の池ノ上克先生の存在が大きかったと思われる。
 鹿児島県は、知っての通り、5つ子を育てて充実してきた鹿児島市立病院の周産期医療センタ一がある。
 で、熊本県はと言うと、新生児・未熟児医療のシステムに関しては、かなりの後進県の様に思える。それぞれの病院の治療成績はとてもいいのだが、受け入れるベッドが絶対的に不足している。かなりの割合で、入院を要するケ一スが県外に行っているとのことである。
 産科の問題は、熊本県だけでなく、全国アチコチで今起きている。産科をする場合は、麻酔科医がいて小児科医がいる所が望ましいとなっているが、それを言い出すと、安心して産める所が今以上になくなってしまう。集約化の問題で、既に、少なくなっていると言うのに。
 ○○大学産婦人科のある先生の(昨日伺った)話では、「今、1人でも教室から欠けたら、もう、出来なくなってしまう状態にある。他に送るゆとりなんか全くないです。ギリギリです。産婦人科に来年入局する予定の人は、今の所0です。今年は何とかもちそうですが、来年どうなるか分かりません。1人の受け持ちの患者数、当科が病院では一番多くなっていますから。もう、限界に近い状態で毎日安月給で働いていますから」と。
 当院の産科医は、1人で深夜でも腰椎麻酔をして、1人で帝王切開をしている。15年間も、1人で頑張っている。こういった感じの産科医を今後期待する方が土台無理な話である。自治体病院でこんな感じで無理を今もさせていること自体も、問題である。
 厚生労働省そして熊本県の行政の役人の方へ、にっちもさっちも行かなくなる前に、現場の人の意見を謙虚に聞き入れて、手を早急に打って下さい。まず、周産期医療へのお金の確保をお願いします。この先、そんなに個人の犠牲的精神が長く続かないと思います。そうでなくても、今は、訴訟に怯えていますから。

*後日以下記載。 平成19年9月1日の熊本日日新聞の内容では、熊本県では、NICUの必要数が30床であるべきなのに、市民病院15床、大学3床、(個人の)福田病院9床で、27床しかないとのこと。今年の3月、熊本日赤がNICUの必要数に準じる医療を始めている。そうでなくても不足している産婦人科医と小児科医の確保。まだまだ、難航が予想されている。


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為になるかも知れない本(その184)

2007-08-20 09:35:34 | Weblog
○昭和54年4月18日(水)晴。
 当直明けだった。論文を書かないといけないのに書いていない。ずっとこんな感じになっている。こんな自分が恥ずかしい。学生が後をズ一ッと付いてくるので、少しうんざりしている。学生の教育の仕方をもう少し要領よくしていかないといけないなあ。計画的に課題をあげるとしようかなあ。開業した小野先生と会った。やっと落ち着いたとのこと。今、平均1日に70程来ていると言う。順調だ。場所もいいし、先生の人柄もいいし、もっともっと多くなるだろう。僕もいつかそんな感じになりたいなあ。何故、自分って、大学にいるのなかあ。ペ一パ一、診療、教育、バイト、忙し過ぎる。
○昭和54年4月22日(日)晴。
 僕が病院に行かない日は、年に何回あるかなあ(病院の宿舎が、道路を隔てて病院の真ん前にあって、小児科外来から我が子が手を振っているのがよく見えていた)。まとまった休暇を取った時以外では、片手もあるかなあ?人間、やはり休むべきだ。今は、論文も書かずに、ただ、流されるままに大学にいる感じになっている。自分の好きな教育も、満足に出来ていない。何もかも、不完全燃焼の状態にいる。
○昭和54年4月25日(水)晴。
 歯科で入歯を入れた。余り調子が良くない。だんだん良くなるのかなあ。型を取っからは、今度の1回で終わってしまったので、ビックリした。病棟に来て診察している歯科医はあまり偉く見えないのに、外来での歯科医は、実に偉く見える。どうしてかなあ。
○昭和54年4月26日(木)晴。
 父上が母上と一緒に来た。選挙の疲れでか、父上は元気がなかった。60歳過ぎて挫折感を味わっている。かわいそうだなあ。今までトップ(佐伯小学校長)であっただけに、後の落ち込みは、急カ一ブだ。路子を見て、とても嬉しそうな顔をしている。孫って、とてもかわいいみたいだ。
○昭和54年4月28日(土)曇。
 土曜日と言うのに、○○産婦人科から急患が来た。チアノ一ゼがある。心電図で右の圧が強い。胸写で肺に左右差がある。入院した直後は、横隔膜ヘルニアかなっとも思った。心音やや右に最強点がずれていて、左呼吸音が小さかったからだ。しかし腹部の陥凹がない。○○先生がエコ一をして、TGAでBASが必要かも知れないと言う。で、心カテをした(自分がして、アット言う間に、心臓にカテが届いて怖かった)。しかし、心奇形はなかった。左の肺紋理も、先まで追える。結論は、肺疾患。
○昭和54年4月29日(日)曇。
 昨日心カテしたベビ一が良くない。1日中、忙しかった。肺の疾患ならば、治るはずだ。写真は、昨日よりも左右差が少なくなっている。何となく生きそうな気がする。
○昭和54年4月30日(月)晴。
 ベビ一の調子がいい。信じられない位にいい。助かるなあ、この調子だと(新生児特発性肺気腫)。自分が新生児室を受け持ってから、考えてみると、まだ、1人も亡くなっていない。RDSや極小未熟児などいたのに。

*大学を離れ、しばらくして、あるナ一スから次の様に言われたことがあった。「新生児が3カ月に1人は亡くなっています。先生の時は、10カ月、誰も亡くなりませんでした。あの時、先生がしっかりと診てくれていて、いつも吸引してくれたり、処置をしてくれていて、助かりました。先生程、朝早くから夜遅くまで新生児室にいるドクタ一は、いないです。先生がいたら、ここで産まれた○○ナ一スの子も、助かっていたのではと皆で話していました」と。(大学病院を離れる時、新生児医療で救命率を上げる為には、その環境に慣れた熱心なスタッフの充実こそが先決だと言う考え方に変わっていた。常に細かく診ていて、ちょっとの変化にも直ぐに対応できる体制にあることこそが最も大切と考える様になっていた)

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発想の転換

2007-08-20 08:21:02 | Weblog
ブドウの袋も種も、食べてみると美味しい。冷たくして食べると尚更美味しい。ミカンもリンゴも、皮ごと食べると、ビタミンも豊富で、線維も多くていいと思われる。
 スイカの種を除くのがとても面倒くさかった。で、種も食べることにしたら、スイカを食べるのがそれなりに楽しくなってきた。
 物事って、発想を転換すると意外なことが経験できる。同じ事をしていると、なかなか思い付くことが出来ないが、実際に変えることにチャレンジしてみると、そこに意外なことが発見出来る。
 血圧が高かったので、代わりに酢をかけて食べ出したのだが、刺身にしても(酢とワサビを一緒にすることが多いが)、ちょっとしたものにも、酢をかけているのだが、それで結構美味しくなっている。別に、醤油でなくても良かったのだ。

 かって私は夏は大嫌いだった。暑いのは苦手だったからだ。寒いのは気合が入っていい(今は、余り寒いのは、苦手になっている)感じになっていたが、暑いのはどうしても我慢できなくて、やる気をなくしていた。それが大好き人間になり、夏をいつも楽しむ様になっている。何故か、それは、夏は太鼓を打てるから。そして、盆踊りの時期が済むと少し涼しくなってくる。かっては多い年には、1年間に17カ所で太鼓を打っていた。その半分近くが、夏の時だった(今年の夏は、4カ所でしかないが)。
 子孫に美田を残すなと言われているが、全くその通りだと思う。稼いだ分を上手に死ぬまでに使い切ってしまおうと思っている。それで、年間100万円で過ごせると言うの自分の目で確かめたくて、タイ(チェンマイ)やインドネシア(バリ)にも行ってみたのだが、それが本当であることを確認できた。
 年金生活10~15万前後もあれば、いいコンドミニアムに住め、メイドさんも雇えて、それなりに住めるのだ。インドネシアと違って、タイでは、医療もしっかりとしている。
 歳をとれば、周りがよく見えてくる。まだ、したいことが沢山ある。病気と上手に付き合って、いつ死んでも悔いが残らない様に、毎日を充実して生きたい。
 58歳のこの歳になっても、雇ってもらえて、小児医療だけしていればいいこのポジション、それなりに満足している。



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為になるかも知れない本(その183)

2007-08-19 09:54:14 | Weblog
○昭和54年3月26日(月)曇。
 路子が6ヶ月になった。まだ這わないが、手を付いてお座りが出来る。表情がとても豊かだ。どんどん成長してるって感じだ。自分も、今年の5月で、満30歳にもなる。30歳代が一番頑張らないといけないし、頑張れる時だなあ。40歳代になると、少しきつくなると思う。そうでなくても、今は、きついなあ。
○昭和54年3月30日(金)曇。
 当直明けだった。明日で、卒業してからまる3カ年経つことになる。この3カ年は、本当に実り多かった。今から、リサ一チをしないといけない。今度、新人が入ればそうならざるを得ないだろう。鹿大の同級生は、もうリサ一チをしているとか。大学では、リサ一チをしないのでは、いる価値がないと思われる。
○昭和54年3月31日(土)雨。
 ○○小児科に(代診で)行った。95人診た。気管支炎が多く、肺炎も2人いた。マイコプラズマは少ない様だ。ABPCが効いている様だ。
○昭和54年4月2日(月)晴。
 これから1週間、○○先生の受け持ちの分も持つので、10人以上を受け持たなければいけない。忙しいけど、何とか出来るだろう。心カテ、僕の患者さんなのに、○○先生がして1回で入った。やはり○○先生は、プロだなあ。
○昭和54年4月6日(金)雨。
 心カテをした。1回で入った。少し難しそうにあったのだが。右室二腔心とVSDだった。近頃、よく診断が当たる感じだ。やはり、経験が大切だ。心カテで本当にそうかどうかを確かめることが大切だ。(自分が心カテをした患者さんの心臓の手術には、必ず、手術場まで行って確認していた)
○昭和54年4月15日(日)晴。
 ○○町立病院から帰って(9日~14日まで、○○町立病院で診療)、久し振りに(大学)病院に行った。仕事がメチャクチャ溜まっていた。全くいやになっちゃうが、仕方ないなあ。(受け持った肺動静脈瘻の)論文も書かないといけないし。

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為になるかも知れない本(182)

2007-08-18 12:50:11 | Weblog
○昭和54年3月2日(金)晴。
 お袋が路子の為に雛飾りを買ってきた。とても高かったみたいだが。孫がとてもかわいいみたいだ。路子もかなりおせらしくなった。(翌日、母が佐伯に帰った)
○昭和54年3月4日(日)晴。
 昼過ぎに病院に行って点滴をした。難しいのを2人して、2人共一度でバチッと入った。検査室も自分が片付けてきれいになった。
○昭和54年3月5日(月)晴。
 今日は、ルンバ一ルがスパッと1回で入った。心カテも、1回でスパッと入った。嬉しかった。
○昭和54年3月7日(水)曇。
 ○○先生の受け持ちの患者さんも持っているので、10人以上の受け持ちになっている。学会も近づいている。気ぜわしいなあ。
○昭和54年3月8日(木)曇。
 歯科口腔外科に行って抜歯した。やっと抜歯出来て、6針も縫ってしまった。患者になると、ホントに患者さんの気持ちになることが出来るなあ。患者さんって、不安だろうなあ、特に大学病院では。
○昭和54年3月9日(金)曇。
 抜歯の所がまだ痛い。ファロ一の子(+ダウン症候群)の心カテをした。穿刺法で、2回目で入った。前と違って、かなり上手になっていると思う。3カ月間、ホテル通いで東京女子医大で研修した勉強家の○○先生は、どこにいても、自分の心掛け次第だと言う。本にちゃんと書いてあるよと言う。
○昭和54年3月11日(日)曇。
 当直明けで、歯の調子がまだ良くない。腫脹している。朝、ベビ一の点滴をした。点滴、採血、ルンバ一ル、心カテ、自分でも上手だなあと思う。自分と組むナ一スも、安心している感じだ。
○昭和54年3月12日(月)曇。
 心カテをした。それも、右と左の両心カテを。僕がチ一フで、○○君とした。そして、やはり、VSDの1型との外来診断が、無害性心雑音と言うことになった。嬉しかった。自分の診断が当たったのだ。やはり、基礎は、胸部レントゲンと心電図とそれに聴診だ。ホントに、最高に嬉しかった。
○昭和54年3月13日(火)曇。
 宮日の健診に行った。頭が少し痛くてフラフラしていた。そんな状態で、40人程を2時間で診た。疲れた。きついけど、県病の時よりは、いい。お金が月に30万余(バイトを含めて)もらえるし、自分の好きな教育も出来るから。
○昭和54年3月15日(木)曇。
 ○○小児科に久し振りに行った。40人前後だった。ここは大人も来る。僕は、子どもだけ診たい。小児科以外は診たくない。それで自分はいいと思っている。医者をする限り、小児科だけを診て行きたい。
○昭和54年3月16日(金)曇。
 心カテをした。7歳の男児。太っていて、なかなかスム一ズに行かなくて、20分位してやっと入れた。やはり、心カテは、甘くない。VSDの1型だった。僕の診断が又当たった。
○昭和54年3月21日(水)雨。
 地方会があった。開業医の野中先生から、褒められて嬉しかった。

*写真は、6カ月直前の3月25日に撮ったもの。
 子どもの発達の覚え方・・・寝返りの時期は、ゴ5ロ6ッと寝返りで、5~6カ月と教えている。首がしっかりすわるのは、4カ月で、し4っかり首がすわると教えている。パラシュ一ト反応は、8~10カ月で、パとト。2語文は、2歳。三輪車は、3歳。四角が書けるのは、4歳)
 2枚目の

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高砂ユリ

2007-08-18 07:38:15 | Weblog
何にも手入れしていないのに、我が家の庭に咲いているユリ。「高砂ユリ」とか「台湾ユリ」とか「細葉ユリ」とか言われている。白い花のみ。コンクリ一トの割れ目からでも、僅かな地面からでも芽を出す程の生命力の強いユリ。葉が細い。球根ではなく、サヤの中に残る種で増える変わりもの。一本の茎から多い時には10個前後の花が咲く。中には、50個も咲いたとの記録もあるらしい。
 昨年は、余り咲かなかった。というのは、ある虫が咲く前に実を食べてしまうから。それで、それを防ぐ殺虫剤をユリに撒いていた。そしたら、最盛期ほどではないが、咲いた。それが、写真の如くで、盆帰りの私に頃合いよく咲いて迎えてくれた。

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