何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

感謝の乾杯と祈りの献杯

2015-11-19 20:18:38 | ひとりごと
今日はボジョレーヌーボーの解禁日だが、とても「(お祭り騒ぎの)乾杯」という雰囲気ではない。

先月末、「他の学年や組は、お楽しみ会でハロウィンパーティーをするのに、自分のクラスはない」とふて腐れている子に、「なにも外国の収穫祭を祝わなくても、来月23日に本物の収穫祭をすれば良い」と言って聞かせたが、いつから学校でまでハロウィン行事をするようになったのか。バレンタインしかり、商魂たくましい業界の戦略にのせられてる感が好きではない。と云いつつ数年前まではボジョレー・ヌーヴォーというと、とりあえず試飲していたのだが、これも毎年毎年「近年最高のデキ」「フルーティーでフレッシュな出来栄え」と聞かされ、止めてしまっていた。が、家人が「今年はフランス応援買いとして久しぶりに買おうか」と言っている。
ボジョレーヌーヴォーには、その年の(新しい)ぶどう酒を祝う収穫祭の意味合いもある。
23日には新米で握ったおにぎりと、庭から摘み立ての春菊の胡麻和えと、ボジョレーヌーヴォーで収穫を感謝しようかと考えている、そこへビックリポンなニュースが 入ってきた。

<「イスラム国」空爆、露が仏空母と共同作戦 プーチン氏、フランスを「同盟国」と表現>
産経ニュース2015.11.18 00:29より一部引用
ロシアのプーチン大統領は17日、過激派組織「イスラム国」攻撃のため、地中海に展開するロシア海軍に、空母を主力とするフランス海軍が合流し共同作戦を実施することを明らかにした。大統領はフランス軍をテロとの戦いを進める「同盟国」と呼んだ。
フランスは「イスラム国」空爆で米国を中心とする有志国連合に参加しているが、パリ同時多発テロを受け、ロシアとも協力することになった。

「敵の敵は味方」とも云うし「昨日の敵は今日の友」とも云うが、ナポレオンのロシア遠征を迎え撃ったロシアを三人の若者を通して書いた超長編「戦争と平和」(トルストイ)が強烈に印象に残っているため、ロシアがフランスを同盟国と呼んだことに驚いた。
「戦争と平和」は苛烈な戦争シーンはもちろんだが、戦争という非日常が民衆のなかにある無節操で残虐な本性を炙り出していく過程など目を背けたくなる場面も多い。が、戦争を終わらせたのは武力の優劣というよりは、ロシアの広大な大地と天候(激寒)であったことや、戦争中であっても日々の営み(恋愛や農作業)は変わらないことも教えてくれた。
そして、「戦争と平和」とは、武器をもって闘い平和を勝ち取ることだけを意味するのではなく 、普通の民衆の日常的な心の中にある「怒りや葛藤と平穏と平安」についても指しているのだろうと(かってに)結論付けながらも、あまりの長編に疲れ果て、自信をもって云えるのは「本作が傑作である」という事だけという体たらくで、この一冊でもって、ロシア文学から逃げ出す結果ともなってしまった。

そんな私なので、このニュースを知り「もう一度『戦争と平和』を読んでみよう」とか「ロシア文学とフランス文学に挑戦しよう」などとは露程も思わず、ロシア界隈ということで久しぶりに米原万里氏の本を手に取った。
「真昼の星空」

同じ米原万里氏の作品でも、「ガセネッタ&シモネッタ」「不実な美女か貞淑な醜女か」あたりだと抱腹絶倒まちがいなしだが、今の時点では大笑いも不謹慎なので、「真昼の星空」を手に取った。が、そこはやはりシモネッタ・ドッジ、皮肉とウイットが効いていて面白いが、「真昼の星空」という本のタイトルについて書かれた章はしみじみ心に響いた。

「真昼の星空」は、米原氏がチェコスロバキアのプラハに住んでいた時、夏休みの林間学校で先生が朗読してくれた「昼の星」(オリガ・ベルゴリツ)から借用したものだという。そして、先生が朗読してくれた箇所が引用されている。
『星は、いついかなるときにも空から消えないということを、その男は言った。
 昼の星は夜の星より明るく、美しいほどなのに、空にその姿を認めることは、太陽の光に遮られて
 永遠に叶わない。 ~中略~
 その夜からだった。昼の星を見たい!という強烈な願望に私がとりつかれたのだ』
『普通の目には見えないものよ、それゆえにあたかも存在しないものよ!私を通して、私の魂の奥底の、
 最も澄みきった薄暗がりを背にして、あらん限りの輝きを放ちながら万人の目に見えるものとなるがいい』

米原氏は、『現実には存在するのに、多くの人の目には見えないものがある。逆に圧倒的な現実と思われるものが、単なるこけおどしだったりする。目に見える現実の裏に控える、紛れもないもう一つの現実。「昼の星」は、そういうもの全ての比喩』であり、もう一つの現実を時流に逆らってでも伝えたくなる創作者オリガ・ベルゴリツの『心意気の吐露』だという。

『時流に逆らってでも伝えたくなる』というあたりが「収容者群島」(ソルジェニーツィン)たる由縁であろうが、「昼の星はたしかにあるのに、その姿を認めることはできない」という言葉は、13日の金曜日の暴虐を知り、フランス小説として思い浮かべた「星の王子さま」の一節を、図らずも思い出させる。
『心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。
 肝心なことは、目に見えないんだよ』 (参照、「自由 平等 博愛」

そして、これは金子みすず氏「星とたんぽぽ」の一節も思い起こさせる。
『 青いお空のそこふかく
 海の小石のそのように
 夜がくるまでしずんでる
 昼のお星はめにみえぬ
         
 見えぬけれどもあるんだよ
 見えぬものでもあるんだよ』

普遍的真理や人の静かで熱い想いは、人種や時代をこえて共通するものなのかもしれない。
そして、生きるための糧を必死で育てる心も平和を愛する心も同じだと思いたい。

自然の恵みに乾杯を
心ならずも命を失った方々の御魂に 献杯を

祝号外 きらきら輝く日本と犬

2015-11-18 12:45:05 | ニュース
<三重県観光大使>ネットで人気・柴犬「まる」PR頼んだよ 毎日新聞 11月17日(火)21時5分配信より一部引用
三重県は17日、愛くるしい姿がインターネットで人気の柴犬「まる」に県観光大使を委嘱した。犬の観光大使は全国でも初といい、県のPRに一役買ってもらう。
まるは岐阜県生まれで雄の8歳。現在は埼玉県内で飼われ、飼い主の男性が2011年からまるの日常を撮影し、ネットに投稿しているが、海外を中心にファンが多く、写真集を出版するほどの人気だ。
来年5月の伊勢志摩サミットを機に、三重を世界にアピールしようとあの手この手を繰り出す三重県。まるには、県内の名所を巡ってもらい、猫ならぬ犬の手も借りて世界に情報発信する作戦だ。
 
柴犬まる=県提供


我が家は犬キチで、月めくりと週めくりの「犬川柳カレンダー」を飾っている。
その月めくりカレンダーの今月の一句が、このニュースにピッタリだ。

ニッポンの 心はいつも きらきらと  ~2015年犬川柳カレンダーより

伊勢神宮を擁する三重県が、権力の''犬''の手を借りるとは不届きな、などと言うことなかれ。
来年の伊勢志摩サミットを成功させるためには、官民一体の協力体制が必要であり、当然のことながら権力の''犬''には大活躍して頂かなければならない。
が、そもそも三重県においては権力の''犬''などと言ってはならない。
伊勢神宮と犬は御縁があるのだ。
神域を汚すとされていた犬だが、江戸時代中期以降の熱狂的なお蔭参りブームのなかで、御主人にかわりお伊勢参りをする犬が登場し、犬は参宮犬として持て囃されるようになるのだ。
「おかげ犬」
昨年の夏、伊勢神宮をお参りした折、おかげ横丁で購入した「おかげ犬」のぬいぐるみは、玄関の下駄箱の上で神馬の木彫りと一緒に我が家を守ってくれている。

伊勢志摩サミットだけでなくニッポンの未来がきらきら輝くように、おかげ犬よ頑張っておくれ!
(参照、「お伊勢さんの七賢、か?」 「サミットは一年にして成らず」


読書と応援の道 

2015-11-18 00:05:37 | 
「ウンがついている」で、「流れ星が消えないうちに」(橋本紡)について「つづく」としたが、この本も含め読書と心の変遷について考えてみる。

長年、読書備忘録をつけてきたが、この「何を見ても何かを思い出す」を書くようになり、本のなかの心を打つ言葉に注目するだけでなく、その言葉の何処が心に響くのか、その言葉の何に引っ掛かりを感じるのかに注目するよう心がけると、これまでとは違った視点が生まれ新鮮な毎日を送っている。

今、私的に注目しているのが「心を打つ作品や言葉は年齢とともに変化するのか」ということだが、それを考える契機となったのが「流れ星が消えないうちに」で、主人公の娘と父が「車輪の下」(ヘルマン・ヘッセ)について語り合う場面である。
父は、トントン拍子に出世をしているにもかかわらず、本当にやりたかったことをするために会社を辞め、人生の再出発をしたいと悩んでいる。
娘は、高校時代から付き合っていた恋人が、海外で(現地で出会った)女性と一緒に事故死したことから立ち上がれないでいる。

「車輪に下」を読んでいる父に、「おもしろいか」と娘は問う。
この問いかけに、父は答える。
『前もおもしろい話しだと思ったんだが、今読むとさらにおもしろい。~略~
 立ってる場所が変わると、同じ風景でも違うように見えるものなんだな』

この、「車輪の下」を「若い頃以上に今は更におもしろい」という答えに、どうしようもないく違和感を感じたのだ。
『立ってる場所が変わると、同じ風景でも違うように見えるものなんだな』という言葉は、本書の核をなす思想であり、大いに共鳴できる。が、「神様のカルテ2」の夏目漱石「こころ」論ではないが、「車輪に下」にあるのは感動ではなく、もちろん「おもしろい」でもなく、絶望なのではないか? それとも私も年をとれば(立つ位置が変われば)、「車輪の下」をおもしろいと感じる時がくるのだろうか?と疑問に感じたことが、読書と心の変遷を考える切っ掛けとなったのだ。(参照、「良心に恥じぬということ」
 
立ってる場所が変わると、同じ本でも違うように読めるのか。
例えば、「長い目で見てSeize the Day」「日々是好日」(森下典子)は長年読みたいと思っていた本だと書いたが、本書に出会ったのは、もう何年も前のNHKラジオの新刊書の朗読コーナーだった。
ラジオでは、人生の節目ごとに躓き悩む作者が茶道の世界と如何に関わり如何に成長してきたかという箇所を集中的に朗読していたのだが、作者の『自分だけ始まらない』という思いは、当時の私の心に妙に響いた。
あれから何年もたったが、今「日々是好日」を読んでも、初めて聞いた時と同じに心にすっと入ってくるものがあるのは、この間、私に変化も成長も無く、立ってる場所が変わらなかったからなのか?
その一方で、「自由 平等 博愛」「星の王子様」(サン=テグジュペリ)は「読むたびに気になる箇所が違ってくるのは、読む側の心模様を映し出すからかもしれない」と書いているように、時とともに(読書)景色も違って見えることも実感している。

何度読んでも同じ感想に行きつく本と、読むたびに感想が変わる本。

このところ、そんな事を考えながら本を読んでいたが、結局のところ「日々是好日」前書きの映画「道」(フェリーニ監督)についての考えに収斂されると感じている。
この映画について作者は、小5で見た時にはさっぱり意味がわからず、大学生で見た時には胸をかきむしられポロポロ泣き、三十代半ばで見た時には「人間はなんて悲しい」と思い胸が張り裂けそうになったと、時とともに「道」の理解が変化する様を書いているが、時とともに理解が変わるのは、映画「道」だけではない。
作者がお茶のお稽古を続ける25年の間には、茶道の世界に対する反発もあれば失望もあったし、お稽古と人生の壁にぶつかり止める寸前までいくこともあった。が、ともかく25年という歳月を茶道とともに歩むことで、茶「道」の深いところを理解していく、その道のりを、作者は映画「道」に重ねているのだ。

『世の中には、「すぐわかるもの」と、「すぐにはわからないもの」の二種類がある。
 すぐにわかるものは、一通り過ぎればそれでいい。
 けれど、すぐにわからないものは、フェリーニの「道」のように、何度か行ったり来たりするうちに、
 後になって少しずつじわじわとわかりだし、「別のもの」に変わっていく。
 そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体の中のほんの断片にすぎなかったことに気づく。』

ただ、すぐに分かったものでも一通りで過ぎるのではなく、何度でも行ったり来たりするうちに、更にじわじわ分かりだすものがあり、自分が見ていたのは、全体のほんの断片に過ぎなかったと気付くことはあると思う。
何かを見つめるとき、同じ作品・同じ対象のなかにも個々に「すぐ分かるもの」と「すぐには分からないもの」があると思うからだ。
だから、私は読んだ本の数を数えあげるのではなく、何度でも同じ本を読み、以前には気付かなかった断片を拾い続けたいと思っている。

ところで、何年も見つめ応援し続けている対象として、皇太子御一家がおられる。
周囲の年長者は口をそろえて、「皇太子様には、幼少の砌から得も言われぬ品格とオーラがおありで、今もそれは増しこそすれ変わることはない」と言う。
私にとっての皇太子ご夫妻とは、御成婚当初は雅子妃殿下の華々しい御経歴が尊敬の対象であったが、御成婚後なかなかお子様を授からない苦しい日々を穏やかに過ごされる御姿を拝見することで、両殿下のなかにある「すぐには分からなかった素晴らしいもの」に気づき、尊崇の念は深まった。
皇太子様が年を追うごとに「単に幸せな人になって欲しいというのではなく、どのような環境にあっても幸せを見出せる人になって欲しい」という願いを見事に結実されていかれる御姿は、厳しい未来の指針となると思われる。(参照、「イーハトーブの星」
又、苦しい治療と流産を経て敬宮様を授かられるまでの苦しい日々を冷静に過される雅子妃殿下を拝見し、知性に裏打ちされた精神力というものがあることを知った。その後、男児を授からなかったことで様々な方面から攻撃を受け、遂には病に倒れてしまわれたが、大嵐のような大バッシングに遭っても他を責めず耐え忍び、苦難の時を乗り越えようとされる御姿に、諦めないことの大切さと生きた「不苦者有知」を教えて頂いた。

敬宮様は、女子であるというだけで辛い茨の道を歩んでおられるが、躓きながらもその度に立ち上がり、前にも増して確かな成長を続けておられる。
それは、敬宮様が皇太子ご夫妻の「すぐ分かる素晴らしいもの」も「すぐには分からないけれど素晴らしいもの」も確実に受け継がれているからだと信じている。

読書の道も応援する道も続いている。
じわじわ理解を深め、「すぐには分からないけれど素晴らしいもの」の断片を楽しく見付けていきたいと思っている。


ウンがついている

2015-11-16 22:05:58 | ひとりごと
我がワンコは、痴呆という言葉の度に獣医さんを睨みつけて吠えたてる。
ワンコは掛かり付け動物病院を気に入っていて、今までワンともすんとも言わなかったのを病院関係者の皆さんは知っておられるので、最近になって意味もなく?吠えるのは痴呆のせいだと診断されているのだろうが、痴呆という言葉を止め、「幼児がえり」という言葉に改めて下さった。

獣医師「幼児がえりのせいで、云々かんぬん」
ワンコ「・・・・・。」

痴呆ではないのか、ワンコ。
それを確信させる出来事が今朝あった。

我がワンコ。
チッチは庭で用を足すが、ウンチをするために踏ん張るほどの筋力はないので側臥状態でヌルリと出すのを人間がお手伝いしている。
ウンチを催す前には、必ず恥ずかしそうな独特の鳴き声を出し知らせるし、肛門周辺が膨張した感じになるので、それと分かり、新聞紙とトイレットペーパーを両手にスタンバイしていると、やがて物(ぶつ)はヌルリと滑り出て、ワンコと人間に至福の時が訪れる。

昨夜も恥ずかしそうな鳴き声をしたのでスタンバイして待ったが、肛門周辺に変化はなく、諦め一緒に寝てしまった。

「幼児がえり」とはよく云ったもので、本当にワンコは幼児の頃の習性に帰っていっている。暇さえあれば膝の上に乗ってくることや、全身を人間の肩に預けて眠ることなど、成犬になり威張りくさっていた頃にはスッカリ影を潜めていた習性が完全に戻ってきたのだ。
最近では夜鳴きはほぼ収まったのだが、この全身を人間の肩に預けて眠る態勢での添い寝は御大たちには最早
無理であり、夜の添い寝は私達の分担となっている。

昨夜も私と一緒に寝ていたワンコ。
しかし、いつものように体を預けてはこない。
「''すみっコぐらし''ここがおちつくんです」と云わんばかりにベットの隅で寝ようとする。
「添い寝でないと寝ないのでは、人間の体が持たないではないか」という御大の愚痴を聞いてしまったのか、ワンコ。
こうなると愛おしさが増し、「こっちへおいで」と引き寄せようとするが、頑なにすみっコを陣取ろうとする。
抱き寄せるために布団を軽く持ち上げると、腹具合が悪い時にワンコがする''おならし''の臭いがする。腹具合が悪いのならば、ワンコが好む態勢で養生させた方が良いと判断し、そのまま眠りについた、私。
いつになく大人しく眠ったワンコ。

朝目覚めると、まだ''すみっコぐらし''をしている。
布団をはぐり、ワンコを抱き上げた私の目に飛び込んできたものは・・・・・ウンチ。
尻尾と肛門の隙間にコロンと固めのウンチをはさみ、微動だにしないワンコ。
ワンコが少しでも動けば、布団は汚れたかもしれないが、尻尾と肛門で固定された固めウンコは、おしっこ
シートの一点に微かな茶の色の付けているのみ。

どう考えても、ワンコは布団を汚したくなかったのだと思われる。
必死ですみっコを陣取り、尻尾と肛門でウンコを固定させて朝を待ったワンコ。
こんな健気なワンコが痴呆のはずがない、いや痴呆でも良いのだが、痴呆とは思えない。
幼児がえり 二度童

今日は見事な日本晴れだった。
晴天のもと、家人が敷布団と掛布団をしっかり干してくれたおかげでフカフカの布団に、これまた洗濯したてのシーツをセットし、
さあ一緒に今夜も寝よう、ワンコよ。

今夜は星がきれいに瞬いている。
ワンコの夜討ち朝駆けチッチに付き合うおかげで、この秋は美しい月と星を見る機会に恵まれている。
(参照、「星は、朝づつ、犬星」
毎年11月にはしし座流星群が話題になるので、それに合わせた本を探していたところ、その名もズバリ
「流れ星が消えないうちに」(橋本紡)という本を見つけた。それについては「つづく」としておく。

明日からまた天気が崩れると「よほうはうそよ」が言っているので、しし座流星群に願をかけるのは今夜が最適かもしれないと思いながら検索していると、しし座流星群とオリオン座と犬星が一堂に会した素晴らしい写真を見つけた。

流れ星に願い事をするのは有名だが、オリオン座の三ツ星も願い星と云われている。
犬星は私にとっては、存在そのものが導きであり愛であり祈りである。

夜空を見上げる前に、この写真に願いを捧げようと思っている。

自由 平等 博愛

2015-11-15 16:35:31 | ひとりごと
「金があるときゃ暇がない 暇があるときゃ金がない」とはよく云ったものだが、私の場合は年から年中「金もなければ暇もない」
そんな私なので、フランスにも行ったことがない。

7月14日に思い入れがあるために、フランスは憧れの国であり、エッフェル塔を背景に街をゆくパリジェンヌを描いた油絵を部屋に飾って眺めてはいるが、花の都パリを訪れたことはない。油絵といっても、街角でベルギー人だという絵描きさんから3000円で買ったものだが、学生だった当時の私としては大きな出費で、今では「なんでも鑑定団」でビックリポンな値がつかぬかと邪な思いを抱きながら眺めたりもしている。


フランスが暴虐に震えている
「世界中で守っている価値に対する戦争行為だ」

このあたりのことを考えると、卵が先か鶏が先か的な思考に陥るので、とにかく暴力は断じて許すことは出来ないと書いて、何時ものごとく本の世界で考えることにする。
とはいえ、フランスが好きだと云いながら、まず浮かぶのは「ベルサイユのばら」(池田理代子)、この関連でもせいぜいが遠藤周作「王妃マリー・アントワネット」
フランス人作家というと、スタンダール「赤と黒」は這う這うの体で読み終えただけであるし、サガン「悲しみよ こんにちは」はあまり理解できなかったし、アンドレ・ジイド「狭き門」の''自己犠牲の精神''は自分には到底無理だと思われたし、「田園交響曲」には救いがないような感じをもった。
帚木蓬生「聖灰の暗号」を読み、フランス文学を理解するにはキリスト教の何たるかが血肉のように身についていなければならないのだと分かり、その理解を諦めた心に唯一響く言葉は「自然に帰れ」(ルソー)だが、これとて、この言葉が書かれた原典を読んだわけでもない。

これでもフランスに憧れているのだから不思議であるが、個人的に7月14日に縁があるので、フランスは大好きな国なのである。

あまり分からないとばかり書いていても情けないので、「星の王子さま」(サン=テグジュペリ作、内藤濯訳)について書いてみる。
ファンタジーが苦手な私なので子供の頃そうそうに放り出した一冊だが、なぜか気になり大人になっても何度か読み返している。
この度のテロでフランスに想いを寄せる時、飛行機乗りのサン=テグジュペリが書いた「星の王子さま」の言葉が心に浮かんだ。
『心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。
 かんじんなことは、目には見えないんだよ』

この本はある意味かなり難しく、読むたびに気になる箇所が違ってくるのは、読む側の心模様を映し出すからかもしれない。
王子様が旅する星にはそれぞれ特徴がある。
命令することしか知らない一番目の星と、自分しか住んでいないのに自分が一番偉いと自惚れている男が住む二番目の星には縁がない私だが、三番目の星のお酒を飲むことを恥ずかしいと言いながら、その恥ずかしさを忘れるためにお酒を飲んでいる呑み助の弱さならば妙に分かる。次なる四番目の星の、星の数をかぞえては紙に書き、その紙を鍵のかかった引出しの中に仕舞い込んでいる実業家になると笑っていられなくなり、六番目の星の部屋から一歩も出ずに他人の見聞をもとに地図を描いている地理学者になると、身につまされて苦しくなる。『探検家が来たら、色々な報告を受けて、相手の話をノートにとる。そして、相手の話を面白いと思ったら、地理学者という者は、その探検家がしっかりした人間かどうか、調べさせるのだ』という地理学者の言葉に、しっかりした本の中にある心に触れる言葉を集めて記している自分の姿が重なり、その滑稽さに哀しくなるのだ。が、この地理学者が王子様に地球を勧めたおかげで王子様は地球へ行き、地球での出会いの中から心を打つ言葉が生まれ、それが王子様に故郷の星に残してきたバラの元へ帰る決心をさせるのだから、他力本願の地理学者もまんざら役立たずではないと思いたい。

地球での出会い
世界でたった一つの美しいバラだと思っていた故郷のバラが、地球には無数に咲いていることを知り悲嘆にくれる王子様に、地球のキツネは話しかける。
『心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。肝心なことは、目に見えないんだよ』
『あんたが、あのバラの花をとても大切に思っているのはね、そのバラのために暇をつぶししたからだよ・・・
 人間というものは、この大切なことを忘れているんだよ。だけど、あんたは、このことを忘れちゃいけない。
 面倒をみた相手には、いつまでも責任があるんだ。守らなきゃならないんだよ、バラの花との約束をね』

自分にとって特別なバラのもとへ帰る決心をした王子様の魂が、去り際に云う。
『ぼくは、あの星のなかの 一つに住むんだ。
 その一つの 星のなかで 笑うんだ。
 だから、きみが夜、空をながめたら、
 星がみんな笑ってるように 見えるだろう。
 すると、きみだけが、笑い上戸の星を見るわけさ。』

夜空を見上げれば笑い上戸の星が瞬いているかもしれないが、あいにく今夜は見えそうにない。

日の入りを見るのが好きな王子さまは云う。
『だって・・・・・かなしい時って、入り日が好きになるもんだろ・・・・・』

フランスのかなしみに心を寄せて、入り日の方角へ祈りを捧げる、夕刻である。