何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

めぐる季節に朝がくる

2015-11-07 15:32:20 | 自然
まだまだしつこく「一日一生」(酒井雄哉)は続いている。
「一日一生」は一生続くかもしれない。

以前なら夏野菜を片付けるとすぐに秋冬の野菜の準備をしたものだが、この数年は秋冬野菜はもちろんのこと、春に向けた花の準備をする元気もなかなか湧いてこなかった。
それは、春菊とほうれん草は霜にやられ、大根を植えてもヒョロリとしたゴボウのようなものしかできず、聖護院大カブを植えてもラデイッシュのような子カブしかできず、といった具合で収穫の楽しみがなかったのもあるが、潜在的に怖れていることがあったからだと気がついた。が、「一日一生」のおかげで何冊かの本を思い出し、少し元気が出てもいる。

今月の末に17歳になるワンコ。
三年前2012年の初冬の朝、いつもの散歩コースの三分の一を過ぎたあたりで突然立ち止まり、その先にあるワンコが大好きなポプラと桜の並木道をじっとじっと数分間見つめ、その後、決然と踵を返して家に帰ったワンコ。
あの日から、ワンコの散歩は三分の一となり、四分の一となり、今ではチッチのために庭に出るくらいとなっている。
ちょうど今頃その並木道はポプラの落ち葉で敷き詰められ、枯葉を踏むとパリパリと音が鳴り、ワンコはそれが楽しくて落ち葉の上を喜んで歩いていたものだった。
春には見事な桜の並木道にもなり、桜にはあまり興味のないワンコだが、桜を背景に''春のワンコ ニッポンの春''を撮るのを人間は楽しみにしていたのだ。

だが、あの日ワンコがポプラと桜の並木道に別れを告げてから、春がくるのがどこか怖かったのかもしれない。
桜には、どこか寂しさが漂う。
来年も又この桜が見れるだろうかという、寂しさが。

真っ赤なプチトマト愛子様から元気をもらう夏が過ぎると・・・・・春が来るのを恐れていたのかもしれない。
ワンコと一緒に桜を愛でる春、来る春もワンコと桜を愛でたいと痛切に願いながらも、季節が巡るのが怖かったのかもしれない。

今年の秋は野菜が異常に高く、家人に催促されて春菊と聖護院大カブとニンニクを植えてみた。
相変わらずの春菊とカブだが、初めて挑戦したニンニクの濃い緑の葉が伸びているのを見るとやはり嬉しいし、今年の庭には大ニュースもある。あれだけ孤独に耐えて一人で頑張ってきたメダカに仲間が出来ただけでなく、なんと主メダカの子孫が誕生して育っているのだ。主メダカの子孫だけに子メダカも黒ブチ模様だが、それが何とも嬉しさを倍増させてくれるのだ。(参照 「歩兵」 「よしなしごと」

季節がめぐることの喜びと感謝を思い出させてくれた「一日一生」(酒井雄哉)の言葉を再度書いておきたい。
『(千日回峰行に)最初はそれなりの覚悟で行にはいったんだけれど、山を歩いているうち、「死」という
 ものの受け止め方がまったく変わって来たんだ。』
『山は、同じ道を歩いていても、一日として同じ日はない。毎日毎日、表情を変える。
 季節とともに緑が濃くなり、花は咲きほこり、散っていく。紅葉し、葉は落ち、また季節が巡り芽を吹く』
『動物たちも愛らしい姿を見せて行く。』
『自然の中では、たくさんの生き物たちが繋がり合って生きていて、そして時期が来れば枯れたり、死んだり
 していく。どの生き物も、命が尽きれば他の生き物たちを支えるんだよ。』
『行の最中、力尽きてここで倒れて死んだら、僕の体は小山の土になるんだなぁと思った。
 それが嬉しいような気がした。色々な生き物たちの栄養になれるなら、それは幸せなんだなあ。』
『山を歩いていると、いつしか自然の中に溶け込んで、自然と一体になっていると感じるんですね』

時が来て自然にかえってゆくのは、命あるもの全てであり、命の循環のなかにおれば、先のものとも後のものとも一体となれるのだ。
そんな思いをもって読んだ本が過去にもあった。

「葉っぱのフレディ」(レオ・バスカーリア)

春が過ぎ夏が過ぎ、大きく育った葉っぱのフレディはいつしか仲間の葉っぱたちの色が個々に違っていることに気付き、物知り葉っぱのダニエルに何故かと訊ねる。
『僕たちは一人一人違っているからさ。
 僕たちは違う経験をしてきた。
 太陽に対する向きが違う。
 影になる部分も違う。
 僕たちが違った色でないなんておかしいんだよ。』

ある日、怒ったような風が葉っぱを枝から引き離したことを、ダニエルは『葉っぱが引越しする時期ってこと。人はそれを死と呼ぶよ。』と教える。
『何もかも死ぬ。
 どんなに大きくても小さくても。
 どんなに弱くても強くても。
 僕たちはまずするべきことをする。
 太陽や月や雨や風を経験する。
 踊ったり笑ったりできるようにする。
 そしたら死ぬだけさ。』
葉っぱも木もいつかは死ぬのかと問うフレディにダニエルは答える。
『いつかはね。
 だけど木よりもっと強いものがある。
 それは“生命(いのち)”。
 永遠にながらえる物。
 僕たちも“生命”の一部なんだよ。』
『僕たちは戻ってこないかもしれないけれど、“生命”は戻ってくる。』

ダニエルも他の葉っぱも落ちてしまい、たった一人残されたフレディも又ある雪の朝ふわりとした雪の上に着地した。
落ちゆく途中に初めて自分がくっついていた木を見て『自分もこの木の命の一部だった』と誇りに思うフレディは、自分がもっと大きな命の一部となっていくことに気付かないまま、眠りにつくのだ。
『彼は目を閉じ眠りにつく。
 彼は知らなかった。
 冬の次には春が来て雪はとけて水になることを。
 何の役に立ちそうもない干からびた自分が水に混じり木を丈夫にする役目を果たすことを。
 何より木や地面の中で眠りながら“生命”がもう春に向けて新しい葉っぱを出す準備に取り掛かっていることを。
 そしてまた始まるのだ。』

「葉っぱのフレディ」を読んだときの感動を久しく忘れていたが、「一日一生」のおかげで秋の午後、大切なものを思い出させてもらったと感謝している。

感謝は、つづく

慈悲の心が朝を呼ぶ

2015-11-06 00:07:08 | 
「新しい朝をともにするもの」からのつづき

京都御所は当然のことながら土足厳禁だが、千日回峰行を満行した者のみ御所への土足参内が許されるそうだ。
京都御所といえば、ここ数年は毎年秋ごろに皇太子様がご訪問されている。ご視察ということだが、皇室の長い歴史のほとんどが京の都とともにあったことを思えば、年に一度でも京都御所で過ごす時間を持たれることは重要なことかもしれない。
千日回峰行を満行した者のみが土足参内できるという場所に住まわれる方の精神性という視点でみれば、畏れながら申し上げると、皇太子ご夫妻の御顔は私の眼には慈悲に満ちて感じられる。

東日本大震災直後から皇太子ご夫妻も被災者をお見舞いされたが、被災者と膝づめで話をされる皇太子ご夫妻、とりわけ雅子妃殿下の眼差しに心を打たれた。
皇太子ご夫妻の真剣に被災者の声に耳を傾けておられる御姿と微かに潤む目の優しさをテレビ画面越しに見た時、思わず浮かんだのが、五木寛之氏が繰り返し書く「慈悲」の言葉だった。

「蓮如」についての作品もある五木氏は仏教の造詣も深く、多くの作品のなかで「慈悲」について書いている。
「大河の一滴」(五木寛之)より部分引用
『人間の疵を癒す言葉には二つあります。一つは<励まし>であり、一つは<慰め>です。
 人間はまだ立ち上がれる余力と気力があるときに励まされると再び強く立ち上がることが出来る。ところが、
 もう立ち上がれない、自分はもうだめだと覚悟してしまった人間には、励ましの言葉など上滑りしていくだ
 けです。
 ~中略~
 頑張れと言われれば言われるほど辛くなる状況もある。その時に大事なことは何か。それは<励まし>では
 なく<慰め>であり、もっといえば、慈悲の<悲>という言葉です。
 <悲>はサンスクリット語で<カルナー>といい、溜め息、呻き声のことです。他人の痛みが自分の痛みの
 ように感じられるにもかかわらず、その人の痛みを自分の力ではどうしても癒すことができない。その人に
 なりかわることができない。そのことが辛くて、思わず体の底から「ああー」と呻き声を発する。その呻き
 声がカルナ―です。それを中国人は<悲>と訳しました。~中略~
 孤立した悲しみや苦痛を激励で癒すことはできない。そういうときにどうするか。そばに行って無言でいる
 だけでもいいのではないか。その人の手に手を重ねて涙をこぼす。それだけでもいい。
~中略~
 仮にオウム事件のようなことがあって、息子が刑に服することになったとしましょう。
 慈愛に満ちた父親であれば「がんばれ!自分の罪を償って再起して社会に帰ってこい。私達はいつまでも待っ
 てるぞ。一緒に手を携えて新しい未来に向かって歩いていこうじゃないか」と励ますかもしれない。
 では、古風な母親であったらどうするか。「なぜこんなことになったの?これからどうするの?」などと問い
 詰めるようなことは一切言わないだろう。ただ黙ってそばで涙を流して息子の顔を見つめているだけかもしれ
 ない。お前が地獄に堕ちていくんだったら自分も一緒についていくよ、という気持ちで手を重ねて項垂れてい
 るかもしれない。
 実はこうしたことが人間の心の奥底に届くのです。
 頑張れと言っても効かないギリギリの立場の人間は、それでしか救われない。それを<悲>といいます。』

愛の鞭という言葉があるが、慈愛でもって励ますのではなく、ただ傍らにいて共に項垂れる慈悲。
「大河の一滴」のオウム真理教の例がしっくり来ない場合でも「今を生きる」(五木寛之)の例なら伝わりやすいかもしれない。
 
『ガンの末期患者に「励まし」は酷で、そばに 座ってその人の顔を見つめ、その人の手の上に自分の手を重ね
 ただ黙って一緒に涙をこぼしているだけ。それくらいしかできません。そしてそういうこともまた大事なこと
 だと思うのです。
 何も言わない、黙っている、ただうなづきながら相手の言葉を聞くだけ。そして一緒に大きなため息をつき、
 どうすることもできないおのれの無力さに思わず深いうめき声を発する。そういう無言の感情が「悲」という
 ものではないか。人は「慈」によって励まされると同時に、また「悲」によって慰められるものである。』

皇太子様が公務をともにされる世界の水関係者は「皇太子様は大変聞き上手で、殿下に接見賜ると普段寡黙な人まで饒舌になる(例えばエジプトの水資源大臣アブザイド氏)。殿下とお話しさせて頂くなかで、皆の胸中にある意欲や想いがかき立てられていくという感じなんです」(「皇太子殿下」(明星社))と書いていたが、雅子妃殿下の東大時代の友人も「雅子さんは、いつも笑顔で人の話を聞いてくれる聞き上手」と書いていたと記憶している。
共に聞き上手な皇太子御夫妻が、膝づめで被災者の話に耳を傾けられておられる映像の最後には、被災者の顔にほのかに笑顔が戻っていたのが印象的だった。

今回、五木寛之の「慈悲」を調べていると、五木氏のこんな言葉を見つけた。

『滂沱と涙を流して泣いたことのある人だけが腹の底から笑うことができる』

皇太子ご夫妻が訪問されたのは震災から数か月しか経っておらず、もちろん腹の底から笑えるような時期ではなかったが、皇太子ご夫妻のお身舞の後の被災者は、ただ憐れまれ同情され慰められているだけの存在ではなく、わずかでも笑顔が戻っていたことが強く印象に残っている。

共に聞き上手な皇太子ご夫妻は、大震災から間もない被災者の方に、「頑張れ」などと慈愛に満ちた御言葉をおかけになったわけでないのかもしれない。ただ被災者の傍らに座り耳を傾けておられたのかもしれない。被災者の方は皇太子ご夫妻に、妃殿下の御体調へのお身舞や学校生活に不安がある敬宮様を気遣う言葉をかけたという。それを「被災者に気遣われる皇太子ご夫妻」とマスコミは揶揄したが、病気であれ災害であれ自身ではどうにもならない辛さを分かち合う心の連帯が生じたからこそ、被災者の方の前向きな笑顔に繋がったのではないだろうか。
それと同時に、被災者の方と心の交流をされる皇太子ご夫妻の慈悲に満ちた御顔に至られるまでの苦難の年月と、その苦難が未だに続いていることを思わずにはいられなかった。
これまで、どれほど滂沱と涙を流してこられたのだろう、今なお堪えておられる涙がどれほどあるのだろう。

慈悲の眼差しとなられるまでの涙を知っているのはワンコだけかもしれないと、酒井大阿闍梨の千日回峰行の御供がワンコであったことから思ったりしている。

雅子妃殿下は過去の御誕生日の会見で度々ワンコと過ごす喜びを語っておられる。
触れるだけでも心が安らぐワンコと共に歩けば更に心が安らいでも良いはずだが、ワンコと過ごす喜びを感じておられても尚、心が傷んでしまうほどの哀しい状況。男児を産まないかぎり存在価値を否定される哀しさ、心の病を公表してもなお責め苛まれる過酷な状況の涙をワンコだけは知っているのかもしれない。(参照 「犬と人の愛情物語」

一刻も早く苦難の時が去ることを心から願うばかりだが、苦難から慈悲のお心を得られた皇太子ご夫妻の精神性が、自然災害や経済問題など来るべき困難の時に、国の大いなる慰めとなるのではないかとも思っている。

千日回峰行の御供も人生の御供もワンコなんだなと云いつつも、皇太子御一家には「人と人の間にいたがるから<人間ちゃん>」と敬宮様の名づけられたニャーコもいると記載しておく。

新しい朝をともにするもの

2015-11-04 21:00:00 | 
「歩く心に朝が来る」のつづき

千日回峰行には「堂入り」や京都大廻り(一日84キロ)などもあるが、そのほとんどは山を歩くことであり、その距離は実に地球一周分4万キロメートルにも及ぶ。
山を歩く荒行といへども、氷壁にピッケルを突き立て攀じるではなく、まさに山を歩くものだが、「不退行」と云われる千日回峰行は首を括るための死出紐を肩にかけ自害用の短刀をさげて出発するとか、その厳しさ故に記録上の達成者は千年以上にも及ぶ延暦寺の歴史のなかでも43人のみだとか聞けば、孤独と向き合いながら歩くことほど厳しいものはないのかもしれない、と思っていた。

しかし、「一日一生」(酒井雄哉)を読めば、酒井大阿闍梨は孤独に苛まれながら歩かれていたわけではない。
『最初はそれなりの覚悟で行にはいったんだけれど、山を歩いているうち、「死」というものの受け止め方が
 まったく変わって来たんだ。』
『山は、同じ道を歩いていても、一日として同じ日はない。毎日毎日、表情を変える。
 季節とともに緑が濃くなり、花は咲きほこり、散っていく。紅葉し、葉は落ち、また季節が巡り芽を吹く』
『動物たちも愛らしい姿を見せて行く。』
『自然の中では、たくさんの生き物たちが繋がり合って生きていて、そして時期が来れば枯れたり、死んだり
 していく。どの生き物も、命が尽きれば他の生き物たちを支えるんだよ。』
『行の最中、力尽きてここで倒れて死んだら、僕の体は小山の土になるんだなぁと思った。
 それが嬉しいような気がした。色々な生き物たちの栄養になれるなら、それは幸せなんだなあ。』
『山を歩いていると、いつしか自然の中に溶け込んで、自然と一体になっていると感じるんですね』

山をたった一人で歩くことで身近に触れた自然の理や生き物の息遣いから命の繋がり合いを感じ、一人で歩く孤独ではなく、『あぁ一人ではないんだなあ、としみじみ思うよ」という感慨とともに行をされた酒井大阿闍梨。
とはいえ、文字通り「たった一人」で歩かれたわけでないそうだ。

酒井大阿闍梨の御供を務めたのは、二匹のワンコ。
『二匹の犬をお供に連れていって犬たちと話をしていたんだ』そうだ。
まさに犬は「人を導くもの、導きの神」と書けば、偉大なる大阿闍梨に失礼でもあり、我田引水に過ぎるだろうか。

不退行の荒行とはいえ、孤独に苛まれ悲壮感を漂わせて行わなければならないわけではない、ようだ。
一番肝心なのは、毎日毎日ほぼ同じことの繰り返しを何年も続けながらも、「一日が一生」と思い『今日一日全力を尽くして明日を迎えようと思える』ことなのかもしれない。
そして、同じことの繰り返しに思える毎日を惰性に流されず、明日という日を新しい自分で迎えることが一番大切で、一番難しいのかもしれない。
そう教えてくれた「一日一生」であった。

合掌


ところで、京都御所は当然のことながら土足厳禁だが、千日回峰行を満行した者のみ御所への土足参内が許されるそうだ。
京都御所といえば、ここ数年毎年秋ごろに皇太子様がご訪問されている。
そのあたりについては、つづく

歩く心に朝がくる

2015-11-03 16:27:07 | 
「心の朝を求めて」のつづき

天台宗比叡山延暦寺の千日回峰行は行の厳しさゆえに、まず許された者だけがそれに臨むことができるが、許されたからといって易々と達成できるような生易しいものではないし、一たび行に入れば失敗は許されない。
失敗すれば即自害できるよう、首をくくる死出紐と小刀を懐に忍ばせての命がけの行である。

それほど過酷な千日回峰行ゆえに延暦寺の記録では満行者は47人、それを二度も達成されたのは千年をこえる比叡山延暦寺の歴史のなかでも酒井大阿闍梨を含めて3人しかいない。

この千日回峰行の厳しさとラジオで知った酒井大阿闍梨の半生から、かってに酒井大阿闍梨のイメージを作り上げていたが、「一日一生」(酒井雄哉)を読むと、それまでのイメージは一変した。

千日回峰行というと、大津市の比叡山・無動寺谷の明王堂に9日間籠もり、断食・断水・不眠・不臥(ふが、体を横たえない)のまま不動真言を10万回唱える「堂入り」が有名であり、まさに命がけの荒行であるが、これは千日回峰行のうちの九日の行であり、残り975日はひたすら歩き続けることをもって行とする。
その距離じつに地球一周分の4万㎞に及ぶという。

この過酷な行も酒井大阿闍梨のお言葉をもってすれば平易なものに感じられる。しかし後からズシリと心に響く何かがあるのだ。
『お寺から出て山を回って、登って、平らなところに出て、そこから下って、また登ってきてもとのお寺に
 辿り着く。千日回峰行はそうして毎日山中40キロの道のりを歩く行だ』
『歩き方は人それぞれ、行者によってみんな違うものだんだ。僕なんか小柄でコンパスが小さいからちょこ
 ちょこ行かないと。今の人達は体が大きいから歩幅を大きくとって歩けるんじゃない?』
・・・・・などと柔らかい筆致で書かれるので、さらりと読めてしまうが、そこは一日一生の覚悟で修業された大阿闍梨のお言葉、そこから続く柔らかいお言葉に考えさせられるものがあるのだ。

『結局、人は自分の歩き方でしか歩けないんだな。自分の歩き方で歩いていかなきゃしょうがないな』
『(文明の機器の発達で人が歩かなくなり、移動距離とスピードが合わなくなっている点について)
 心がおっつかないから迷ったり、生きるのがしんどくなる。世の中だってぎくしゃくしてくる・・・・・。
 もういっぺん振り出しに戻ったり、本来の姿を振り返る必要があるんじゃないかと思う。
 そのためには、歩くことなんじゃないかな。人間の自然な姿は歩くことだから、歩くことは人間を振り出しに
 戻してくれる、何かを振り返らせてくれるような気がする。
 原点かもしれない。』
『何かを置き忘れているような気がしたら、少しずつでいから、歩いてみるといい。
 歩くことがきっと何かを教えてくれるよ』

千日回峰行を達成されるような生き仏様は、あらゆる人から学ばれる。
酒井大阿闍梨の師・箱崎文応師は、酒井師が回峰行をされるにあたりアドバイスをされるのだが、それがなんと大泥棒の歩き方なのだ。
箱崎師が子供のころに聞いた大泥棒は、夜な夜な福島県の小名浜から宮城県の仙台まで歩いて泥棒していた。それほどの距離を夜な夜な歩くには秘訣があったそうだ。それが、『体のいろんな部分を交代で意識しながら歩く』ことだそうだ。右が疲れてきたら左足、左が疲れてきたら右足、いよいよ両足がくたびれたら腰、次は首といった具合に意識を交代させ、そこに気持ちを集中して歩く間は、別のところは休んでいるという算段だそうだ。
この大泥棒の歩き方さえ酒井大阿闍梨の言葉をもってすると人生訓になる。

『人生を歩くっていうことも、その原理を応用すればいいんじゃないかな。
 人生って、こっちが疲れたら全部「しんどい」ってことになってしまいがちじゃない。
 考えを辛いことの一点に集中し過ぎちゃうから「こんな苦労はもうしたくない」なんて身を投げちゃうとか。
 じたばたしたって、どうにもならないところをどうにかしようとするから、疲れちゃうんだよ。』
『しんどいところは休ませておいて、違うところに神経を集中させてみる。~中略~
 そうして歩けば、案外楽に、結構楽しく生きていけるんじゃないの。』

「一日一生」は一章ごとに心に響く言葉があるが、ここでは歩くことに焦点をあてて書いている。
それは、「走ってみようか 闘ってみようか」といいつつ一向に走る気配がなく、ともかく歩くことを心がけているという毎日を送っているからだ。世はスロージョギングなるものが流行っているようだが、自分なりの歩き方しかできないんだな、自分の歩き方で生きていくしかないんだなと思いながら、夕方の散歩に出ようかと思っている。

歩くお伴は、つづく

ちなみに、千日回峰行のうちの堂入りは九日間であり残りの975日はひたすら歩くと書いたが、計算が合わないわけではない。
実際に行を行うのは「975日」で、残りの25日は「一生をかけて修行しなさい」という意味だそうだ。

心の朝を求めて

2015-11-02 17:50:05 | ひとりごと
「チェスト行け!朝がくる」より

「あさが来た」のセリフ『泳ぎ続けるもんだけが時代の波に乗っていける、そういうことかもしれませんなぁ』に感ずるところがある書いたが、どちらかと云えば中島みゆき「世情」なんぞをバックミュージックに移り気な時代に毒づくことの多い私なので、誠実だけれど不器用で時代の波に乗り損ねる人の方により共感を覚える質でもある。

「呑舟之魚不游支流(呑舟の魚支流に泳がず)」の吉田茂は戦後まさに水を得た魚のように活躍し、その活躍あっての戦後の飛躍的復興であるとは分かってはいるが、その陰で全てを胸にしまい黙って逝った人々、とりわけ吉田茂と同じく外交官出身から総理大臣となり、最期には文官としてはただ1人絞首刑に消えた広田弘毅の存在により深い共感を覚えてもいる。
広田弘毅その人を主人公にした「落日燃ゆ」(城山三郎)で書かれる広田弘毅も、「二つの祖国」(山崎豊子)で書かれる広田弘毅も、位人臣を極め総理大臣にまで上り詰めたにもかかわらず、およそ上手い具合に世の中を泳ぎ時代の波に乗った結果の総理大臣、という感はない。
外交官時代に不遇を託った時期も、いつか大河を泳いでみせると奮起するのではなく、「風車 風が吹くまで昼寝かな」と左遷先のオランダの風景になぞらえ詠っているような人柄だが、そのような人柄にこそ惹かれる自分なので、上手く泳ぐよりは昼寝を好み、三年寝太郎どころか十年寝太郎を決め込んでいるといった現状だ。

そんな私のアンテナにかかるニュースが最近あった。
<9日間断食不眠!延暦寺の荒行「堂入り」釜堀住職が満行 戦後13人目>2015.10.21 10:52産経westより一部引用
比叡山延暦寺(大津市)の荒行「千日回峰行」のうち、比叡山中の明王堂にこもり9日間、断食、断水、不眠、不臥で不動真言10万回を唱える最大の難行「堂入り」に挑んでいた延暦寺善住院住職、釜堀浩元さん(41)が21日未明、無事満行し、出堂した。達成した行者は8年ぶり、戦後13人目。
千日回峰行は比叡山中などで7年間かけて行われる修行で、1000日間で約4万キロ(地球1周分)を歩く。堂入りは700日目から始まり、不動明王と一体となることを目指す行。


申し訳ないが、話は戦後13人目となる堂入りを達成された御住職についてではない。

天台宗延暦寺の千日回峰行の厳しさは、行の厳しさはもちろんだが、失敗すれば即自決せねばならないため小刀を忍ばせての行であるとことからも、求められる覚悟(精神性)の厳しさは想像を絶するものだと分かる。
この厳しい千日回峰行を二度までも達成させた大阿闍梨が戦後一人おられた。

酒井雄哉大阿闍梨

もう何年も前にラジオで聞いたお話なので正確でない所もあるかもしれないが、酒井大阿闍梨は時代の波に上手く乗って泳ぐことが出来なかったからこそ誕生した大阿闍梨であり、そのような酒井大阿闍梨だからこそ多くの人の心身の痛みを救うことができたのだと深く感銘を受けたのだ。

酒井青年は昭和19年、熊本県人吉の予科練に入隊した後に鹿児島県の鹿屋に移るが、そこは特攻隊の基地だった。
戦況が厳しい状況下、優秀な人間からどんどん連れていかれて、亡くなった。
燃料を無駄にできないため敵機に正確に体当たりできる操縦法が要求され、それが出来るのは優秀な人間ばかりだから、優秀な若者から亡くなっていったのだ。
特攻で出撃する若者だけが亡くなったのではない。
基地は連日米軍の空襲を受けた。
訓練最中に猛攻撃を受けたある日のこと、みんな一斉に森へと走って逃げたが、足が速い者が森に入るなりそこが爆撃を受け、酒井氏以外の多くの仲間は亡くなった。酒井氏は足が遅いため逃げ遅れ、敵機の下を逃げ回っているうちに、森が爆撃されたのだ。

優秀な人間、行動力のある人間が次々に亡くなるのを目の当たりにし、『なんでこいつでなくて俺が生き残ってしまったんだ・・・・・』と世の無常に呆然としたたまま酒井氏は終戦を迎えたが、そこで抱えた無常感は戦後何年たっても拭うことが出来ず、それは昭和30年代の半ばを過ぎても変わらなかった。
心に無常を抱えたままでは仕事も結婚もうまくはいかず、「これでは本人もダメになってしまうが、酒井氏の周囲の人もその苦しみに巻き込まれてしまう」と、見るに見かねた家族が比叡山に相談されたのが、比叡山延暦寺との出会いだったそうだ。
そして、この無常と向き合った事こそが二度の千日回峰行の達成に繋がっているのだと。

戦後、時代の波を作りそれに上手く乗る人がいなければ、あれほどの復興を遂げることはできなかったのは確かだが、誰も彼もがその波に乗れたわけでも、乗ることを良しとしたわけでもないと思う。

前を向いて生きていかねばならないとしても、取り残された人の心の痛みや無常を一身に抱いて千日回峰行に臨んだ人がいたというのは、何か大切なものを置き去りにしてしまった感のある日本人として、救われる思いがするのだ。

何年も前にラジオで酒井大阿闍梨のお話しを聞いて以来、ずっと酒井大阿闍梨の名は私の心にあったが、先日千日回峰行を達成した御住職のニュースを聞いて、初めて酒井大阿闍梨の本「一日一生」を手に取った。


それは、つづく