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第5回ビクトリア空港大撮影大会(最終回) 中編【2016/6/9】

2020-09-22 20:20:29 | バス・航空機撮影記
ビクトリア空港(YYJ)での飛行機撮影の続きです。引き続きRWY09で撮影しています。
次にやってきたのは個人所有のパイパーPA-24コマンチ (C-FLTE) です。


4~6人乗りの軽飛行機ですな。コマンチというのは、インディアンの部族の名前から取っています。


今度は定期便です。デルタコネクション(スカイウェスト航空)DL4788便シアトル発のボンバルディアCRJ-700ER (N603SK) です。


リージョナルジェットの嚆矢みたいな飛行機のCRJですけど、近年は売れ行きよくなかったみたいで、結局最後は三菱に売却してしまいましたね・・・。


ビクトリア・フライング・クラブのセスナ172 (C-GSDZ) です。


また見慣れないのがやってきたぜ・・・、ん?


あ、DHC-6だ!いつもインナーハーバーで見ているやつだった。
しかもこれ、バイキング航空機の機材ですか。初めて見ました。何かの試験飛行かな?


滑走路上を航過していきました。ここから見ると主翼のアスペクト比高いんだなぁ、DHC-6。


出発するホライゾン航空AS2387便シアトル行のボンバルディアDHC-8-400 (N408QX) です。


バイキング航空機のバイキングDHC-6-400 (C-FDHT) がまた戻ってきましたね。
前回書きましたが、デ・ハビランド・カナダから製造権を引き継いだバイキングが改良を加えて再販売しているのがDHC-6-400です。これはその試験機のようです。


1回目は高度が高かったのでいまいちな写真でしたが、今度は着陸するみたいで、バッチリ決まりました。


後追い。かっこいいハウスカラーだなぁ。


エアカナダ・エクスプレス(ジャズ航空)AC8078便バンクーバー発のDHC-8-400 (C-GJZJ) の着陸です。


RWY09の反対側になるRWY27へ移動。
最初の来たのは離陸する個人所有のデ・ハビランド・カナダDHC-2ビーバー (C-FZKS) でした。同社の小型ブッシュプレーンです。
水上機用のゲタを履いていますが、あれには車輪がついていて陸上の滑走路にも着陸可能な水陸両用機です。
さらに、エンジンはターボプロップエンジンに換装されている模様です。これにより機種の形状が変わっています。このため後で調べるまでこれの機種を特定できませんでした・・・。


後追い。


続いてパシフィックコースタル8P1417便プリンスジョージ行のサーブ340A (C-GPCG) です。


北へ向けて左旋回していきました。


矢継ぎ早にパシフィックコースタル8P539便バンクーバー行のビーチクラフト1900C (C-GPCY) も離陸していきました。


サーブ340よりも小型です。


さっき着陸してきたデルタコネクションのN603SKが今度はDL4851便シアトル行として離陸していきました。


横から撮ると雲ひとつない快晴みたいに写ります。


続いてエアカナダ・エクスプレスAC8074便バンクーバー行のC-GJZGが離陸。


ウェストジェット・アンコールWS3222便バンクーバー発のDHC-8-400 (C-FOEN) が着陸しました。


滑走路から駐機場へ。

というところで今日はここまで。



第5回ビクトリア空港大撮影大会(最終回) 前編【2016/6/9】

2020-09-21 19:17:57 | バス・航空機撮影記
2016年6月9日。
恒例のビクトリア空港(YYJ)のスポッター活動ですが、残念なことに今日が最後です。もう会うことはないでしょう。

その前に、ブリティッシュコロンビア航空博物館に新顔が入ってきたという話を聞いたので、それを見に来ました。
それがこのアエロスパシアル アルエットIII (Aerospatiale Alouette III) です。おフランス製の単発の汎用軽ヘリコプター(1959年初飛行)で、2,000機以上が生産された売れっ子です。


この個体(C-FCAX)は1967年にBC州のカナダ沿岸警備隊用に調達されたもので、20年間任務に就いていました。退役後は地元の工科大学で教材として余生を送っていました。そこでの余生も終えると、2016年にこの博物館に寄贈されてきたのです。


退役後は飛んでいないものと想像しますが、エンジン周りも外観がきれいなものですね。工科大学の教材に使われていたおかげかしら。


小さい博物館でも少しずつ収蔵機が増えているのがカナダの航空博物館の良いところです。某極東の島国だと10年間収蔵機に変化なしというのもザラですから、まあお国柄ですかね。慌てて行かなくても良いので気が楽ではあります。


航空博物館は新入りだけちゃっと見て、空港の滑走路沿いへと移ります。その途中に撮影したスクールバスのBluebird Visionです。


まずはエアカナダ・エクスプレスAC8066便バンクーバー行 DHC-8-300 (C-GLTA)です。


エアカナダの地方路線を担当するエアカナダ・エクスプレスは、エアカナダ本体ではなく地域航空会社へ委託する形で運航しています。
カナダ西部はジャズ航空という会社が運航しています。ここは独自塗装の機材を飛ばしていますが、徐々にエアカナダ標準塗装に塗り替えられていて減少傾向です。撮影できたらラッキーという状況でした。2020年現在はどうなのかは調べてません(手抜き)


陣地転換中に見かけた駐機状態のヘリコプター。これはVIHヘリコプターズのシコルスキーS-61 (C-FQNG)です。対潜哨戒機のSH-3シーキングの民間型というと思い出す人もいると思います。でも腹が船底型になっていないので、だいぶ見た目の印象が変わります。


駐機場にいるスカイリンク・エクスプレスのセスナ208Bグランドキャラバン (C-FAFJ)。208Bスーパーカーゴマスターの旅客型です。
スカイリンク・エクスプレスは、カナダとアメリカに展開する貨物輸送の航空会社です。ビクトリアへは何かの宅配に飛んできたのでしょう。



ノーススター・エアツアーズのブリテン・ノーマンBN-2Aアイランダー (C-GCXF)です。
ちょっとおぞそうな飛行機ですけど、STOL性能に優れ、安定性も高い近距離航路用の小型旅客機です。しかも値段が安い。
一番の特徴は乗降扉が3枚付いていること。多扉にすれば通路を設けずに済んで空いたところを客席にできるじゃないという独特な発想が活かされています。これは面白い考えですね。英国面とも言いますか。
ノーススターは、チャーター便を運行する会社のようです。


IAI・モデル1124ウェストウィンド (C-FTWX)。IAIはイスラエルの航空機メーカーですが、もとはアメリカのエアロコマンダーが製造していたジェットコマンダーの製造権を取得してIAIが製造したもの。
すんげー短さの短足と中翼配置の主翼が特徴的か。


最低ション・・・もとい、セスナ・モデル750サイテーションX (N750EC)
このXは数字の10のことだそうな。この機材は個人所有っぽいです。


謎の飛行機、エルコ・モデル415Cエルクーペ (C-FBMJ)。実は歴史に古い機体で、初飛行は1937年です。
簡単な操作で操縦できる飛行機を売れば飛行機を買う間口が広がってバカ売れするだろうという考えのもと開発されたアメリカの軽飛行機です。
例えば飛行機を旋回させる時は補助翼と方向舵を同時に操る必要がありますが、エルクーペでは操縦桿だけで操作できるような構造になっていました。他にも前輪式の降着装置、失速と回転による墜落防止装置、等々・・・。

量産型は1940年に発売されましたが、翌年に日本がアメリカに喧嘩を売ってきました。戦時体制になると民間用の軽飛行機は全て製造中止になってしまい、エルクーペも112機だけで生産中止になりました。
アメリカがドイツと日本をブチのめして戦争が終わると民間機の生産が再開されたので、エルクーペも生産再開しました。1946年には4,300機以上生産されましたが翌年には需要が減り始めて、1951年にはユニエアに製造権を売却しました。
その後も機体の製造権は何社もの間を渡り歩いて最終的にはムーニーのところへ辿り着きました。ムーニーが販売していたM-10は原型を留めない設計変更がされていたそうな。

ちなみにエルコというのは正式名Engineering Research Companyの頭文字ERCOのことで、機関車メーカーのアルコと同じセンスですな。

長々と書いてしまいましたが、この個体は個人所有の1947年製の戦後型エルクーペだそうな。イギリス空軍機迷彩が決まってます。


YYJを拠点にしているバイキング航空機の格納庫の外に新造のDHC-6-400がいました。DHC-6は元々デ・ハビランド・カナダが開発した軽飛行機ですが、同社がボンバルディアに吸収された時にバイキングがそれの製造権を手に入れました。
バイキングはDHC-6に改良を加えて、400型として販売を始めました。日本の採用例が僅かなのであんまり聞かないですが売れ行きは好調なようです。
この個体は台湾の徳安航空向けの機材です。仮の登録番号C-GVATを与えられています。たぶん出荷直前なんだと思います。


RWY09沿いで撮影。
脚を出して上空を航過する南昌CJ-6A (C-FTCJ)。中国人民解放軍の昔の初等練習機です。退役後は他国に放出されて個人用の民間機として使われています。多数が放出されているようで、CJ-6のオーナーズクラブが存在するほどです。私も飛行するCJ-6を見たのはこれが3度目だったと思います。


ビクトリア・フライング・クラブという飛行学校のセスナ・172Rスカイホーク (C-GBMO)。御存知セスナの代名詞的機体です。
ところでスカイホークというのはダグラスのA-4攻撃機と同名ですが、商標的に問題なかったのだろうか。一応ダグラスの方が1年早く初飛行していますが・・・。


パシフィックコースタル航空8P111便バンクーバー発のサーブ340A (C-GPCG)が着陸してきました。


パシフィックコースタルはバンクーバーをハブにするBC州の地域航空会社です。垂直尾翼の絵柄は機材ごとに異なります。


340はクセのない形状が好きですね。


ホライゾン航空AS2386便シアトル発のボンバルディアDHC-8-400 (N408QX)が着陸してきました。


横から。


エアカナダ・エクスプレス(ジャズ航空)AC8071便バンクーバー発のDHC-8-300 (C-GKTA)の着陸。


真下から捉えました。


というところで今日はここまで。



最後のクルーズ船撮影【2016/6/3】

2020-09-11 21:25:45 | バス・航空機撮影記
2016年6月3日。
この日もオグデンポイントに行って、ビクトリアへ入港するクルーズ船を撮影しに行きました。6月でビザが切れて国外追放を受けることはもう決まっていましたから、記事題にもあるようにこの日がクルーズ船を撮影する最後の機会です。この辺りになると今まで広げてきた風呂敷を仕舞い出す時期なのです。

んでまあ、行ったはいいもののすでにノルウェージャン・ジュエルは入港済みでした。ありま。


その代わりですが、ビクトリア~シアトル航路(国際航路だ)に就航しているビクトリアクリッパーIV (Victoria Clipper IV) を撮影できました。
背後にそびえる山々はシアトルのオリンピック山脈です。


ビクトリアクリッパーIVはクリッパーナビゲーションズ社が運行する人間だけ運ぶフェリーです。快速性が自慢の双胴船で、シアトルとビクトリアを2時間45分で結びます。


ユニオンジャックを模した船体塗装がかっこいいです。


水先案内船のパシフィックパイロット・ツー丸 (Pacific Pilot Two;左) とパシフィックスカウト丸 (Pacific Scout) です。


オグデンポイントに駐車してあるバスです。クルーズ船が来る時期は、ここから乗客を乗せて観光へ向かいます。どれも以前も取り上げたことのある車両ばかりですが。
これはウィルソン交通のMCI 102-A3 (#1100)。


CVS観光のPrevost H3-45 (3rd gen.; #C18)です。


無塗装ですがこでもCVS観光のMCI J4500 J4500 (IC9)です。


ずらずらと。


ビクトリアとバンクーバーを結ぶ路線バス「BCフェリーズコネクター」用のPrevost H3-45 (1st gen.; #8258)です。


ウィルソン交通のPrevost H3-45 (2nd gen.; #7856)です。


ウィルソン交通のPrevost LeMerage (#6551)です。


CVS観光のフォードのバンを使ったミニバスですな。Ford E-450 + ENC Aerotech だと思います。


ずらりと。


CVS観光のMCI D4500CT (#C40)です。


CVS観光のAD Enviro 400 (#C10)です。市内観光用のオープントップバスですね。


CVS観光のAD Enviro 500 GO-Anywhere です。デモンストレーターを中古として導入した個体のようです。2015年の時点では銀色でしたが、今は白基調でブッチャートガーデンの写真を貼ってあります。
GO-Anywhereは通常の車両よりも低車高なモデルです。ここらへんはまたいずれ説明します。


オグデンポイントからは撤退して、ビーコンヒル公園で野鳥撮影会です。といってもいつものカナダガンなんですけどね。


カナダガンが街中の公園に大量にいて人馴れしているのも本当は珍しいことなんじゃないかとも思いますが、どうなんでしょうね。


アメリカヒドリですね。


ここに来るのも今日が最後かもしれんなーと思いながら歩いていました。


クジャクを撮ってこの日の撮影はおしまいです。

以上、おしまい。

飛行機の町と刃物の町の旅行 最終回【2018/1/6~7】

2020-07-12 20:11:28 | バス・航空機撮影記
関鍛冶伝承館から撤収したわけですが、あともう1箇所くらい回れそうだったので、今度はそこから近くにある「フェザーミュージアム」というフェザー安全剃刀が建てた私設の企業博物館です。
一般的な製造業でなおかつ生産工場内にある博物館なのですが、土休日も営業しているという気前の良さ。しかも無料。太っ腹か。


場所はここ。


フェザー安全剃刀は名前通りカミソリを始めとした理美容系製品を製造する刃物メーカーですな。私は電気カミソリ派なのですが、ホテルなんかで用意されている使い捨てカミソリはだいたいフェザー製だそうなのでお世話になったことありますね。
建物は大きくてしかもキレイです。数年以内に建築したのかな。


創業は1932(昭和7)年で、その頃生産されたカミソリ。戦後は物資不足で包装紙の調達に苦労して古紙を流用したという話も有りにけり。


カミソリの替刃とそのPKG。


カミソリ替刃の型抜き器です。昔の器械でして、コレ自体には動力がなく、ひとつの動力源からベルトと滑車を介して動力伝達を受けるやつです。前にくりでんミュージアムで見たやつですな。


奥の箱状の器械がパンパン焼きという型抜きした替刃を熱する器械。炭やコークスで熱していていました。
手前のワッフルメーカーみたいな分厚い鉄板のやつは、焼入れ器。これで熱した替刃を冷却します。よく見ると鉄板にはニップルが付いていますが、あれは鉄板を冷却する水通し管だと思われます。


印刷、染色、刃付けを経て、最後に仕上げの磨きです。軸の左右には研磨剤を塗り込んだフェルト材が巻かれていて、そこに替刃を当てて磨くのです。これで替刃の完成。


次は刃物の歴史。刃物の歴史は人類史に寄り添っているみたいなもんなので、石器時代の石を削って磨いた手斧から始まります。壮大なんね。


もう刃物だったらなんでも蒐集しているよと言わんばかりの展示。世界中の刃物が集められています。意外と興味深いぞ。でも読み進めていくと分かるかもしれんけど資料性は多分ゼロだぞ。


ネパールのグルカ族の伝統的短刀のククリナイフ。下は曹操が使っていたらしい中国の七星宝剣。本当かなぁ。


かのエクスカリバーをこんなところで見られるとは・・・。これでいつでも騎士王召喚できるやん。「エクスカリバーはゲームでもよく登場するよね」という説明が書いてありますが、左様でございますなとしか。型月ェ・・・。
その下のはフランスのレイピア。


上からロシアのコサックサーベル、中国の青竜刀、日本の脇差。


上からバイキングソード、パイレーツサーベル。捉えようでは宝具の宝物庫ですな。


医療用器具の製造もしているんですよという展示。これはメスですな。特に眼科治療器具に自信ニキか。

あとは社長が個人的に集めたような蒐集品の数々がまとめて展示してありましたが、ガラス張りで大層撮りにくかったので割愛。自分で見に行ってね。

フェザーミュージアムは以上。切り口が面白い博物館(刃物だけに、ガハハ)で、結構楽しめました。


さて、最後に刃物会館に行きましょう。建物は3階が膨れ上がっていて、なんだか中国か香港みたいだなと。
本来は会議室とか事務所とかを構えている建物ですが、その一角に包丁を始めとした刃物の直売所があります。ここで包丁を1本買っていきましたとさ。


場所はここ。


目的を果たしまして、時間もちょうど頃合いですのでこれにて帰路につきます。北濃方面へ行くのはまた次回ということで・・・。
関駅までは戻りません。長良川鉄道は第三セクター転換後に駅を増やしまくっていて、この名前もズバリ刃物会館前駅もそのひとつ。ちょうどよいところに駅がありますので、帰りはここから乗ります。


駅名標はいたって簡素。


まだ列車の時間でもないのに踏切が鳴り始めて、何だろうと思っていたら観光列車「ながら」が通過していきました。刃物会館前駅には停まりませんからね。
慌てて後追いで撮影しました。まあひとまず撮影できた程度の出来栄えでしたが。これは再履修しないといけないですね。


反対方向の下り列車を撮影。ナガラ300形(305)でした。魅惑の北濃行。


美濃太田行きのナガラ300形(303)が来ました。これに乗ります。


美濃太田駅で高山本線に乗り換え。名鉄に乗り換える方が名古屋へは早く出れそうな感じではありましたが、こっちは18きっぷ利用なのでその手は無しです。
乗り換え待ちの間に、キハ85系特急「ひだ」14号名古屋行が到着。撮影しました。


今日は多客期だったのか増結しまくりで8両編成でした。で、キハ85系名物変態組成でした。8両編成中、6両が先頭車というアレでした。とくにこのビジュアルはすげーな。


後追い。あれ、両端とも非貫通車が来るなんて珍しいなと思いました。もっともこっちの下り側の先頭車は非貫通グリーン車がいつも定位置で来るんで普通で、反対の上り側の方が珍しいと思うんですが。



キハ75系3000番台(3206+3306)に乗って岐阜へ。そこから東海道線に乗り換えて名古屋へ。


一瞬名駅を出てエスカのマ・メゾンであんかけスパを食べました。もう半日もまともな飯食ってないんだ。
しかし、2日連続スパだったなこれ。


その後は東海道線を3時間乗り継いで静岡まで帰ってきました。

これでおしまい。

飛行機の町と刃物の町の旅行 その7【2018/1/6~7】

2020-07-11 22:35:08 | バス・航空機撮影記
関善光寺にある四国八十八ヶ所のお遍路を終えて本堂の場所に戻ってきました。茶屋もありましたのでここで一息つくことにしまして、汁粉タイムと相成りました。汁粉が染み渡るぜ・・・。これが実質的に昼飯になってしまったのはアレでしたが。


関善光寺はこれで離脱し、通り道にあった弁慶庵というところに。


江戸時代の俳人、広瀬惟然の旧跡だそうな。ここはほぼ素通り。


関市のマンホール蓋のフルカラー版です。こうすると分かりやすい。


再び商店街を通ります。うなぎの煙が濃くてとてもそそられましたな。


安桜山を南北に貫くわかくさトンネルです。地形的には隧道を掘らずとも迂回は簡単なんですが、通勤時間帯はよほど混むのかしら。


路地裏を通る。いい雰囲気だ。



関川に架かる橋の親柱。橋の名前は分からなかったですが、凝ったデザインです。昭和初期に造られたものかしら?


関鍛冶伝承館に来ました。敷地は工事中でしたが見学はできました。


ここらへん。


入館料を支払って見学します。
3人のマネキンが熱せられた鋼をソイヤソイヤと鍛えているところ。小槌と大鎚を使って鋼を平たく延ばして、折り返して2枚に重ねてまた叩いて延ばすというのを10~15回繰り返します。


玉鋼(左)と鉧(けら;右)です。
鉧はたたら製鉄で作られた粗鋼です。玉鋼は鉧を精錬してできた純度の高い鋼です。玉鋼が刀剣の原料になるのだ。



奥は玉鋼を積み沸かしたやつ。手前は叩いて延ばして折り返したやつ。叩いて鍛えると玉鋼にまだ含まれている不純物を除去できるのだ。

というようなかんじです。もっと詳しいのは現地に行ってみような。


実際に作られた刀剣が飾られています。今では美術品ですな。


「越前住兼高」という17世紀江戸時代の刀剣。


刀剣はこの刃文を観察するのが刀剣鑑賞の嗜みなのだそうな。
当時流行していた「寛文新刀」という刀身の反りがほぼ無い刀剣なのです。


奥が「兼久」という16世紀室町時代の短刀。手前が「美濃関藤原家久於飛州高山作之」っていう長たらしい名前の脇指。


銘が彫られているやつ。刀剣の展示ではいつも柄が外れているんですが、なんか刀剣の柄は飾りみたいな感じで本体ではないんでしょうかね。


刃文です。


「正也作平成二十七年三月」という太刀。銘から分かる通り、つい最近作られた刀剣です。伝統技術継承のために現在でも作られているのです。
観光客向けに鍛造中のところを公開しているのは有名ですな。初めはこれを見に行こうと思っていたんですが、そんな毎週やってるもんじゃないので、この日はやっていませんでした、トホホ。


刃文でござい。今まで見たやつとはだいぶ違うね。


「二十八代濃州住兼成平成四年二月吉日」という刀。これも割と最近作られた刀剣。


これはなんというか見慣れた模様をした刃文ですかね。


ところ変わって2階にある刀剣の近代史展示にある「大日本刀刀剣鍛錬所長真勢子兼吉」という太刀。
江戸幕府が倒されて明治政府が発足した後の1876(明治9)年、歴史の授業でもおなじみの「廃刀令」が公布されました。そうすると帯刀が禁じられたので刀剣は文字通り無用の長物と化しました。刀剣は需要激減し、関の多くの刀鍛冶は打刃物、農機具製造にジョブチェンジしました。
刀剣の製造技術は断絶の危機となりましたが、大日本帝国軍の軍装品に日本刀の軍刀があったのでその需要を満たすことでどうにか断絶を回避できた模様。関の軍刀は高品質だったので、そのシェアをほぼ独占していました。これもそのひとつということです。


館内にいたイケメンの等身大パネル。たぶん刀剣乱舞のキャラクターなんでしょうけども(調べない)

というような場所でした。刀剣の基礎知識を身につけるにはぴったしかも。

というところで今日はここまで。



飛行機の町と刃物の町の旅行 その6【2018/1/6~7】

2020-07-03 23:10:59 | バス・航空機撮影記
「ながら」の撮影を終えたので、関善光寺へ戻ってきました。何のアテもなくたどり着いたお寺なわけですが、行ってみるとなかなか楽しい場所でした。
「縣下十名所」の石碑が眩しい。


場所はここ。


関善光寺の地図を一読。本堂の右手側に四国八十八ヶ所分身巡りという魅惑のワードが。これは行きたい。


善光寺如来堂(左)と大仏殿(右)から見ていきましょう。


寺紋は善光寺のそれと同じですな。堂内撮影禁止なので阿弥陀如来像を見たきゃ現地へGO。


十王像。14体いるけどな。閻魔大王閣下とその取り巻きなのだそうな。


おびんづるさま。頭を撫でるといいこと起きるかも。


丈六阿弥陀如来というお大仏様。ありがたいなぁ。


これが大仏殿。


大日堂です。


大日如来像。五郎丸の格好をしていると話題。


四国八十八ヶ所の方へ行きます。山の中にあるみたいで階段を登ります。ぽっくり地蔵尊のことはよく知らん。



あっちが入り口。


四国八十八ヶ所お遍路巡りの始まり。
八十八ヶ所ある札所の分身がこの安桜山に一同に介しているわけです。この分身をお参りするだけで本場四国八十八ヶ所と同じご利益が得られるのです。とても効率的。


こんな感じで、安桜山の裏山のけもの道に10m間隔で地蔵の分身が置かれているのです。


一番 霊山寺!


二番 極楽寺!


まあ全部載せていくのは大変なんで掻い摘んで行きます。


二十番 鶴林寺!
これは作り変えたのかな?


二十九番 国分寺!


三十八番 金剛福寺!


五十二番 太山寺!
退散~。


五十三番 圓明寺!


七十三番 出釈迦寺!
おはようございます。


八十八番 大窪寺!
これでお遍路完了!

というところで今日はここまで。



飛行機の町と刃物の町の旅行 その5【2018/1/6~7】

2020-07-02 22:39:23 | バス・航空機撮影記
名古屋市から電車を乗り継いで、長良川鉄道関駅へやって来ました。とりあえず構内を見物。構内踏切のある良い駅。


ここまで乗ってきたナガラ300形(305)です。


側線で止まっているナガラ500形(503)。
2009年製造で比較的最近の新潟トランシス製気動車なんですが、在来車との協調性を求めたためか富士重工のLE-DCの設計で造られています。この503は長良川鉄道の旧塗装を纏っているのも特徴。


関駅を発車する305の後追いを順光で撮影。


ナガラ300形(306)。


ナガラ300形(304)。



典型的な国鉄系の駅舎が残る駅です。


間取りもよく見るやつです。


コインロッカーがあるのは高得点。


典型的平屋の駅舎。


関市の地図。今日の目的は包丁を買いに行くことでして。ちょうど入用なのだ。なので包丁を売っている刃物会館に行くのが最終目的地なわけですが、それは最後に行けばいいのでそれまでは適当に町をぶらついてみようと思います。
今は関駅にいるわけですが(駅舎は東側にあり)、まずは南下しようと思います。


駅の東側には標高152mの安桜山(あさくらやま)があり、そこには関善光寺がありにけり。後で行ってみましょう。
というのも、長良川鉄道の列車に乗っている途中、観光列車「ながら」の回送列車とすれ違ったので、これをどこかで撮れればいいなと思って今は場所を探しているところなのです。


関市マンホール蓋。長良川の鵜飼と刀鍛冶職人が彫られています。


商店街にやって来ました。例にもれずシャッター街なわけですが。


ここですね。


屋号の看板が興味深いのでいくつかご紹介。これはコドモヤ洋装店。


株式会社横山刃物。関市らしい?


両口屋ふとん店。



後藤畳店。


(株)山田電機。東芝専売店。


結局「ながら」の撮影でここだという場所は見つけられなかったので、その辺の線路脇から撮影。ちょっと苦しい構図と光線。
「ながら」は既存のナガラ500形を改造して造った観光列車で、最近流行りの食事付き観光列車です。ひと目見て一発で分かる水戸岡電車です。

というところで今日はここまで。



飛行機の町と刃物の町の旅行 その4【2018/1/6~7】

2020-06-23 22:42:29 | バス・航空機撮影記
2018年1月7日。
2日目はアパホテルからスタート!


ホテルの部屋は朝食無しで取ったので、朝ごはんはどこかで食べねばなりません。名古屋なんだし喫茶店でモーニングでもキメようとも思いましたが栄周辺ではあまり目につかなかったのでというかその前に見つけたなか卯に飛び込んでしまったので抵抗しようがなかった。


栄駅から地下鉄名城線に乗って金山駅まで移動。ホームドアが立つとこういう写真は未来永劫撮れなくなるのは寂しいなぁと思いにけり。


金山総合駅から青春18きっぷを取り出してJR中央線に乗り換え。
313系1100番台(B5)の快速中津川行に乗ります。1100番台はややレア。


多治見駅で降ります。本当は途中にある古虎渓駅で降りてみようと思っていたんですが、なんか行程を組むのをミスっていたみたい。そこに降りると多治見駅からの乗継がうまく行かないので今回は諦めることに。
とりあえず、2019年に置き換えの発表があった211系5000番台(K2)快速名古屋行を撮影しておきます。


先頭車は静岡県を横断する18きっぱーが喉から手が出るほど欲しいトイレ付き制御車クハ211-5300でした。


国鉄型電車とキハ40を一掃した次はキミたちだろうなぁと予測はしていたので、まあまあ記録していました。211系5000番台(K109)。


ホームの嵩上げした方がいいんじゃないの・・・と思った瞬間。新潟県みたいだな。


太多線のキハ25形1000番台(P105)が到着。


これの折返し列車、岐阜行に乗り継ぎます。


可児駅で下車しました。太多線では唯一(のはず)の昔ながらの駅舎が残っているからというオタクみたいな動機で降りました。


列車交換を終えて発車する多治見行のキハ25形1000番台(M4)。跨線橋からこういう写真が撮れるのは非電化路線のおかげだぜ。


駅の外に出てみたらなんじゃこりゃー!駅前工事で駅舎が埋まっとるがな・・・。



太多線を跨る東西自由通路と駅前ロータリーを可児市が建設している最中でした。これにはがっかり。
ちなみに自由通路竣工後もJRの駅舎は現存するんですが、自由通路の階段に一部隠れているような形になっているようで、以前のような姿は見れなくなった模様。
跨線橋の建設費は可児市が全部負担しているはずで、JRの駅舎を建て替えてやる義理はないですしね。ただし太多線の上下ホームを繋ぐのエレベーターをこれを機に自由通路と一緒に造っています。これの建設費も可児市持ちなんだろうなぁ。


もうすぐ竣工しそうだなという進捗でした。実際この日の2ヶ月後に供用開始しました。
なお工事前は腕木式信号機も保存されていましたがどうやら撤去されてしまったようです。スカばっかり。


市役所かと思ってここからご挨拶したら、子育て健康プラザという全然違う施設でした・・・。


隣には名鉄広見線の新可児駅があります。JRと駅名は別ですが、真横にあります。乗り換え便利。改札口を覗いてみると頭端式ホームだったので、ここが終点かと思いましたが、本当はスイッチバック駅なんですな。


可児市のマンホール蓋。市の花サツキが彫られています。市の木、市の鳥版もあるのかもしれない。


可児駅の待合室で列車を待ちます。典型的な戦前時代築の有人駅の間取り。


次に乗る列車は可児駅で列車交換することが分かったので、ホームに先回りして多治見行のキハ25形0番台(P5)を撮影。後ろにこっそりと広見線の電車が写っています。


一方私が乗る方はキハ75形でした。当たりです。


美濃太田駅で長良川鉄道に乗り換えます。初めて乗る路線です。
乗るのはナガラ300形(305)。スバルのLE-DCですね。魅惑の北濃行ですが、ここは堪えます。


長良川鉄道の拠点駅、関駅で下車します。今日はここが舞台です。

というところで今日はここまで。



飛行機の町と刃物の町の旅行 その3【2018/1/6~7】

2020-06-22 23:33:40 | バス・航空機撮影記
あいち航空ミュージアムは想定内の時間で見学を終えてしまったのですが、せっかく初めての小牧空港ですから、空港の展望台に寄ってみましょう。
小牧空港はフジドリームエアラインズの実質的なハブ空港で、FDAの稼ぎ頭だといえます。静岡空港?はて知らんな。
ただJALから引き継いだ路線以外は原則就航地を増やせないという足枷が付いているのが悩ましかったりするんじゃなかろうかという空港でもあります。
かつては国際線ターミナルビルが建つほどの規模がありましたが、国際線やFDA以外の国内線は中部空港に全て移管したので、ここに就航するのはFDAの国内線だけです。
規模縮小でどうやら搭乗橋はもう使っていないみたいで、地面から階段を使って乗り降りするみたいです。中央の通路から放射状に機材が駐機している光景はビクトリア空港を連想させるものがあり、ちょっと懐かしい部分もありますね。


エンブラエルE175 (JA03FJ)ピンク。これは静岡空港でもよく見るやつ。


E175 (JA06FJ)パープル。これは初めて見たかも。


E175 (JA08FJ)ティーグリーン。これは鹿児島空港からの帰りの時に搭乗した機材。


JA03FJが離陸のため滑走路へ移動していきました。


E175 (JA05FJ)オレンジ。これは鹿児島空港へ行く時に乗った機材。


E175 (JA10FJ)シルバー。登録番号の下にある青い四角いやつは青森米の広告のようです。
これが到着したところで、しばらく機材の動きに間があくのでここらへんで撤収としました。


バスに乗って空港を離脱。名鉄バスのふそう・エアロスター。ただしこれには乗らないで別の名古屋駅行きに乗りました。


バスを栄駅で降りてそこから市営地下鉄東山線と名城線を乗り継いで八事日赤駅で下車。


普通の地下鉄の駅というかんじ。ここから10分くらい歩きます。


「喫茶マウンテン」!!カオスで大盛りな料理が有名な喫茶店ですね。気になる人は調べてみてください。
もうかれこれ5年以上前から行ってみたいと切望していたのですが、立地上何かのついでに寄れる場所ではなかったので今まで行けていなかった次第。この度ついに登山します。


メニューはもう色々あるんですけど迷った末に「甘口いちごスパ」にしました。ちゃんと普通の料理もあるよ。
いちごを練り込んだという赤いパスタ麺と熱々パスタの上に乗っけられた白い生クリーム、文字通り清涼剤となる緑のキウイフルーツが目をチカチカさせるのぜ。あとは量が多い。
これの場合実はクリームが伏兵なのだ。パスタの熱で溶けた生クリームが麺に絡みついてもうイヤってくらい甘いのだ。イチゴとキウイフルーツを効果的に使って遅滞防御に持ち込むべきところだが持久戦になるほどキツくなるので、やっぱりできるだけ序盤で攻めたほうがいい気がする。
なんだかんだ言いましたが、無事登頂(完食)しました。次は違うメニューにしよう。


しかし登頂した後の口の中がスターリングラード攻防戦の後のように大変なことになってしまっていたので、コーヒーを追加注文して口内に安寧を取り戻します。お菓子がついていくるところが名古屋だよね。

惹きつけられるものがあるのでまたスキを見つけて挑戦したいと思います。以上。


八事日赤駅から名城線で伝説の矢場町駅へ。
2000形はだいとしのちかてつという感じで好ましいのですがホームドアが立ってしまうと見えなくなってしまうな・・・。


どうやらまだ口の中が甘ったるかったらしく、矢場町で適当なラーメン屋に入って締めの台湾ラーメンを食べたらしい。太るぞ。


無事太った後は今夜泊まる栄のアパホテルにチェックインして今日は終了。ビジネスホテルとしてはもうこれ以上無いよってくらい狭い部屋だった。

というところで今日はここまで。



飛行機の町と刃物の町の旅行 その2【2018/1/6~7】

2020-06-16 20:21:36 | バス・航空機撮影記
引き続きあいち航空ミュージアム見学の巻。
これはビジネスジェットのMU-300。前作MU-2が成功したので、MU-2の夢よもう一度とアメリカ市場向けに開発されたもの。1978(昭和53)年初飛行。
初飛行後、みんな大好きDC-10が機体欠陥(貨物ドアとかエンジンパイロンとか貨物ドアとか)による墜落事故を数件起こしたのですが、連邦航空局(FAA)の審査が甘かったんじゃないの?という批判もあり、以降の新型機の耐空審査基準が厳格化されました。その第1号がMU-300で、新基準にFAAもまだ不慣れだったと言われ耐空証明審査が長期化し、そのうちに顧客から注文キャンセルが相次ぎ幸先の悪いスタートに。
結局赤字続きで1988(昭和63)年ビーチクラフトに製造権と販売権を売却し、三菱はアメリカ市場から撤退しました。以降ビーチ400(→後にホーカー400)として生産が継続され、さらに1990(平成2)年にアメリカ空軍の練習機に採用されると売れ行きを伸ばしていって、最終的に2009年に生産終了になるまでに1,100機以上生産しました。内、MU-300の生産数は100機ちょっと。

運が悪かったなぁというのはありますね。ただ三菱が生産を続けていても同じようにはならなかっただろうなあというのもありにけり。日系メーカーの実績やアフターサービスはアメリカ系には及ばないでしょうからそこで差がつくんじゃないかなぁ・・・。


三菱重工のヘロヘロ文字が好き。


尾部とか。


エンジンはプラット&ホイットニー・カナダJT15Dターボファンエンジン。これって直径が小さいので覆いが付いているとそうは見えないですが、遠心圧縮式エンジンなんですね。ターボファンはみんな軸流圧縮とばっかり。
どうでもいいですが、館内の説明板に機体の主要諸元を書いていないってやる気あんのか?っていう・・・。(エンジン型式が書かれていなかった)


尾翼。


後ろ。


続いてゼロ戦です。ゼロ戦はこの天井に2階部分のある背の低い場所の奥にあります。しかも表側には衝立が立っていて、表からはゼロ戦が見えないような間取りになっています。前回も書きましたが、ゼロ戦をここで展示するかしないかで新聞沙汰になるくらいには騒ぎになり、結局一時的に展示する形で決着が付いたという経緯があります。
一応、ゼロ戦は日本製のあらゆる飛行機の中では最も日本で知名度の高い飛行機なんですから、館内の目立つところに堂々と置けばいいのに。仕方ないから置くけど、できるだけ人目につかないように展示してやろうというのが感じられます。アホくさとだけ言っておきます。


A6M5a零式艦上戦闘機五二型甲。今更零戦については説明不要でしょう(手抜き)
甲は、主翼20mm機関砲の弾倉をドラム式からベルト式に変えて装弾数を増やした型式だそうな。
この個体はヤップ島のジャングルから回収したのを河口湖自動車博物館・飛行館で復元したものを三菱の資料館で展示していたものをここに移したもの。ですがここではムラハチを受けているので三菱の大江工場に新しく建った資料館ができるとさっさとそこへ移動しました。よって執筆時現在はこのゼロ戦はいませぬ。
なのでこの空間は今は空っぽかと思いましたが、映画撮影で使われた小道具のゼロ戦が今は展示されているようです。方針が変わったのか、小道具ならセーフなのか・・・。


機体は前と横から見るようになってます。後ろの衝立いらないでしょう・・・。
周りには踏み台なんかが置いてあって、どうやらかつての名航の工場を再現しているのかもしれませぬ。機体のすぐ横に製図板があるとは思えませんが。


ゼロ戦はもう何機も見ているので何かこう書くこともありませぬ。


尾翼には特に番号も何も書いてありません。よくニコイチで復元した時はどっちつかずになってしまうので書かれていないことがありますが、これもその口でしょうか?



日本航空機製造YS-11。ご存知日本製旅客機です。諸説ございますが型番はヤクルトスワローズ(YS)の背番号11番が由来と思われます。1962(昭和37)年の初飛行当時は田所善治郎の背番号でした。ちなみに直近だと由規。え、当時は国鉄の球団だった?
軍用機を設計するノリで旅客機を造るとこうなる、みたいな機体のようで、頑丈さに自信ニキとはよく言われます。ノウハウ皆無というハンデの中ではようやったんじゃないかな、というところじゃないでせうか。


これは航空自衛隊で人員輸送機として使用されていたもの。つまり兵器なわけですが、元が旅客機で銃や爆弾が付いていなければここに置いてもセーフらしい。


座席は64席が標準だったそうです。DHC-8と同規模ですね。


エンジンはロールスロイス製のダート・ターボプロップエンジンでした。エンジン展示はしていないんですが、ダートも遠心圧縮式なんですね。まだ軸流が主流になる前の時代のエンジンか。


尾部。


主脚。





三菱MU-2。プロペラ双発の小型ビジネス機。1963(昭和38)年初飛行。ゼロ戦は第二次世界大戦期の戦闘機だから除外するとして、しくじり飛行機だらけのこの館内の機体の中では唯一760機以上もバカ売れして成功しました。というか、この大きさのプロペラビジネス機としても成功したと言っていいです。
この大きさの機体では最速の570km/hの叩き出し、航続距離も2,700kmくらいあったそうな。あとは脚が短いゆえに荒れた滑走路でも離着陸できるのも魅力でした。やればできるじゃんというべきか、出来上がった機体がたまたま市場の要求に合致していただけじゃねーのかという気もします(疑り深い)
主にアメリカ市場で販売されたので、ビジネス機の普及が進んでいない日本ではどうしても馴染みの薄い機体です。だからなんだと思いますが成功した国産機として名前が挙がることはそんなに無いと思います。たいていその前にYS-11が出てきますからね・・・。だいたい、収蔵機の中で最も成功したのはこれなんだから、こんな隅っこじゃなくて中央で堂々と置くべきでしょうと(ゼロ戦はムラハチなので数に入れない)。


このくらい小さいとかわいくていいですね。プラモデル化はされていませぬ。知名度低いしビジネス機は人気無いし・・・。


エンジンはギャレットTPE331というターボプロップエンジン。いや正直聞いたこと無いエンジンでした。
プロペラはハーツェル製のもの。プロペラメーカーの大手ですね。ターボプロップエンジンの場合、エンジンは回転しかせず推力をほとんど生みません。回転するエンジンの軸の先に付いているプロペラで推力を出してやらないとなりません。なので、いくらエンジンが高出力でもプロペラの設計がヘボだとみっともない機体になってしまいます。当然プロペラも奥が深い世界なんですが、まあ調べてみるヒマがない・・・。

というところであいち航空ミュージアムは以上。
ここまでメーカー一社の造った機体の展示に限定した博物館も珍しいだろうというところ。一度行ってみるのはいいですが、その先10年は展示内容は増えないし変わらないでしょうから、何度も行くことはないと思います・・・。もっともこれは日本の航空博物館全般に言えることですが・・・。次はスペースジェットが展示されるようになったら行こうと思います。

以上。次回へ続く。