百貨店で獲物を物色中のミニョン。一緒に暮らしていると身振り仕ぐさはしばしば伝染する。もっとも、ミニョンがディヴィーヌの屋根裏部屋にいた期間はそれほど長くはない。不意に気が変わって出ていった。しかし人間は一度目撃したものを忘れることは基本的にできない。とはいえ記憶装置はそれほど精妙にできているということが言いたいわけではなく、否定したいと思う人間の身振り仕ぐささえ時おり演じてしまっているということを忘れ去った後になぜか再演してしまっていることがあるということが大事だろう。
「ついうっかりして、それにまだとても控え目に、ディヴィーヌの身振りや癖が彼から漏れ出ていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.289」河出文庫)
ミニョンが百貨店で試してみるディヴィーヌへの変身過程。泥棒する品定めのために百貨店のショーウィンドーを物色中に試してみるというような不用意な試みをなぜミニョンが行ったのか。変身への意志がなぜそこで露出したのか。ミニョンはその「脱皮」に「気づいてさえいなかった」。
「最初彼はからかうつもりであえてその身振りのいくつかをやってみた。でもそのひそかな身振りは少しずつ堅固な場所を獲得していったが、ミニョンは自分の脱皮に気づいてさえいなかった」(ジュネ「花のノートルダム・P.289」河出文庫)
窃盗に成功し戦利品で衣服のポケットが一杯のミニョン。ポケットが一杯とは言っても見た目にはもちろんわからない。後は玄関を通過して街頭の世間へ溶け込むだけだ。ところで、玄関は二つある。一つは多くは大理石で豪勢に飾られた目に見えるただ単なる玄関。もう一つは目に見えないが必ず配置されている人間の眼差という玄関の二つが。ミニョンを捕らえたのは目に見えないが必ず配置されている人間の眼差という玄関の側だった。
「ひとりの小柄な老婆が静かに言った、『お若いの、あなた、何を盗みました?』ミニョンを魅了したのは『お若いの』だった。さもなければ彼は抵抗していた。最も無垢な言葉は最も有害な言葉であり、警戒しなければならないのはそれである。ほとんどすぐに巨人が彼の上にのしかかって、彼の手首をつかんだ。浜辺でまどろむ海水浴客を襲う最もすさまじい波のように、巨人は突進してきた。老女の言葉と男の身振りによって、新しい宇宙が瞬時にミニョンに現れたのだ。取り返しのつかないものの宇宙が」(ジュネ「花のノートルダム・P.293」河出文庫)
ミニョンは老女が静かに発した「『お若いの』」という言葉に魅了されて我を失う。警備員の堂々たる肉体がミニョンにのしかかりあっけなく捕らえられてしまう。しかし警備員の巨人的行動を促したのは無力な老女のいとも物静かな一言だった。それまでミニョンを支えていた宇宙は瞬く間に転倒する。転倒させたのはどこにでもいそうな老女の眼差から発せられた「『お若いの』」という何気ない一言なのだがそれは、「最も無垢な言葉は最も有害な言葉であり、警戒しなければならないのはそれである」という泥棒の基礎的心得をミニョンに思い出させた。ミニョンは窃盗行為をディヴィーヌ化への変身の過程で中途半端に試みたわけだが、玄関を出るときにもまだ変身を終えていたとはいえない。変身途上の曖昧さが「『お若いの』」という言葉を誘引してしまうのであって、実年齢が若年であろうと高齢であろうと関係ない。たとえミニョンの年齢がもし六十歳であったとしても変身途上の曖昧さは他者の眼差において「『お若いの』」という言葉を喚起させずにはおかなかっただろう。ミニョンが思い込んでいた世界は転倒するが、ただ単に転倒するだけでなくむしろ《転倒される》ということを知らなければならない。世界は自分が超越論的に思い込んでいる条件だけで成り立っているわけではないのである。
「それはわれわれがそのなかにいた宇宙と同じものであるが、特別な点がある、すなわちわれわれが行動し、われわれが働きかけているのを知る代わりに、われわれが働きかけられていることが自分でわかっているという点である。ひとつの眼差にはーーーそれは恐らくわれわれの目に属しているーーー千里眼のもつ、不意の正確な鋭さがあって、ーーー裏返しに見られたーーーこの世界の秩序は、不可避的なものにおいてあまりに完璧なものに見えるので、この世界は消滅するしかないのだ。眼差が瞬きのうちに行うのはこれである。世界は手袋のように裏返される」(ジュネ「花のノートルダム・P.293~294」河出文庫)
それにしてもミニョンは物品を物色中になぜディヴィーヌの身振り仕ぐさを曖昧なまま試みて中途半端に捕まってしまったのだろう。知らず知らずのうちにとあるけれども、「からかうつもりであえてその身振りのいくつかをやってみた」ことも事実である。そして変身の中途半端さはどこかで誰かの眼差によって「取り返しのつかないものの宇宙」への変容という形で「刺し貫かれる」。ミニョンは半ばわかっていてそうしたのだ。「若年者」でなく「『お若いの』」という言葉は実際のナイフ以上に象徴的ナイフの持つ威力を発揮する。象徴化された堂々たる男性器を彷彿させる。なぜミニョンは自分の男性器ではなく理想的に勃起した男性器に祈りを捧げるディヴィーヌの身振り仕ぐさを反復して変身しようとしていたか。ディヴィーヌを反復すること。それは刺し貫かれ去勢される男性同性愛者の女方である「ディヴィーヌへの意志」がミニョンの《身体において》生じたということだ。このとき瞬時に理解がもたらされる。ミニョンはディヴィーヌの屋根裏部屋を出て他の女性のヒモとして暮らしていたがその暮らしにもだんだん飽きがきていた。だから結局のところ、このときのミニョンは刑務所へ帰りたかったのだと言える。
なお、このような眼差はもはや廃止される方向で世界は動いている。代わりにどのレジも自動機械化が促進されている。キャッシュレス化は消費者がレジを通過するたびに通過した消費者の全財産を計測し簡単に差し引きしてデータ化する。買物するたびにすべての個人情報が覗き込まれる。しばらくすれば見知らぬ企業から不動産取引の勧誘がスマートフォンを通じて届くようになる。ほとんど貯金のない消費者の場合は闇金から借金の勧誘メールが届けられる。各世帯でローンがいつまでどれほど残っているか、さらにいつどこで何をローンで購入したか、決済期限はいつか等々、すべてが瞬時に世界中の金融機関あるいは情報機関を駆け巡る。そして高度テクノロジーにもかかわらず再びアナログ時代の悪循環が反復される。
「DDTで害虫駆除を見事に達成した場合、虫に依存していた鳥が飢えて死ぬ。そうすると鳥が食べてくれていた分の虫殺しまでDDTに代行させねばならないことになる。いや、それよりまず第一ラウンドで、毒入りの虫を食べた鳥が死んでしまうことになるだろうか。DDTで犬を死滅させてしまえば、泥棒抑止のためその分だけ警察力に依存しなくてはならなくなる。するとその分だけ泥棒に知恵と武器がついてくる」(ベイトソン「精神の生態学・P.222」新思索社)
キャッシュレス化はキャッシュレス社会を世界化するが、そのぶん、新しい社会に適応した新らしい「泥棒」並びに「警察力」が発生する。この過程には終わりがない。資本主義は自己目的だからなのだが、その貫徹がなされるのは資本主義的運動がいつもすでに「超越論的探究」という推進性を持っていて、したがって「好きなときにやめることができない」からである。ちなみにキャッシュレス化は時代の流れと言われる。けれどもそんなことはとっくの昔にマルクスが「資本論」の中でしばしば示唆していたことであって今さら驚くに当たらない。むしろ資本主義、とりわけ金融機関はマルクスの予言を確実に現実化しつつある点で「マルクスの子どもたち」と呼ばれるべきがふさわしいのかもしれない。
「資本の現実の運動では、復帰は流通過程の一契機である。まず貨幣が生産手段に転化させられる。生産過程はそれを商品に転化させる。商品の販売によってそれは貨幣に再転化させられ、この形態で、資本を最初に貨幣形態で前貸しした資本家の手に帰ってくる。ところが、利子生み資本の場合には、復帰も譲渡も、ただ資本の所有者と第二の人とのあいだの法律上の取引の結果でしかない。われわれに見えるのは、ただ譲渡と返済だけである。その間に起きたことは、すべて消えてしまっている」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十一章・P.63」国民文庫)
ーーーーー
さて、アルトー。儀式の終わりにぶちまけられる数々の汚物。放尿と放屁、そして繰り返されし反復される嘔吐。
「そのときそれを聞いていると、彼らは真の雷を平らにし、それを《彼らの》汚辱の《必然性》に還元しようとするかに思われるだろう」(アルトー『タラウマラ・P.72』河出文庫)
タラウマラ族にとって放尿、放屁、嘔吐は儀式の最後を飾る締め括りの動作である。タラウマラからすれば先住民の土地は純粋な意味ですでに失われている。そこで儀式においてペヨトルを食べるとともに吐き出しつつ「それを《彼らの》汚辱の《必然性》に還元しようとする」。欧米文化で汚辱とされている行為は何の関係もない。外来種には見向きもしない。タラウマラの伝統にはそもそも人間は汚辱とともにあるほかない生きものだという絶対的観念がある。しかもそれには欧米文化であっても否定しようのない正当性がある。シグリという重要な儀式で彼らはその「《必然性》」を隠そうとしない。
「この儀式における年長者は、あえて私は言わなくてはならないが、もっともよく排尿し、もっとも激しく強く放屁した」(アルトー『タラウマラ・P.73』河出文庫)
そしてこの年長者は特権的な賞賛を浴びる。ダンスを始めとした儀式におけるこれら一連の行為がもし「錯乱」に見えるとしよう。アルトーはいう。
「大地からじかに錯乱を食べる民の方が私ははるかに好きである」(アルトー「神の裁きと訣別するため」『神の裁きと訣別するため・P.12』河出文庫)
アルトーは「錯乱」するわけではない。「錯乱」自身に《なる》。そのときすでにアルトーはペヨトルである。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「ついうっかりして、それにまだとても控え目に、ディヴィーヌの身振りや癖が彼から漏れ出ていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.289」河出文庫)
ミニョンが百貨店で試してみるディヴィーヌへの変身過程。泥棒する品定めのために百貨店のショーウィンドーを物色中に試してみるというような不用意な試みをなぜミニョンが行ったのか。変身への意志がなぜそこで露出したのか。ミニョンはその「脱皮」に「気づいてさえいなかった」。
「最初彼はからかうつもりであえてその身振りのいくつかをやってみた。でもそのひそかな身振りは少しずつ堅固な場所を獲得していったが、ミニョンは自分の脱皮に気づいてさえいなかった」(ジュネ「花のノートルダム・P.289」河出文庫)
窃盗に成功し戦利品で衣服のポケットが一杯のミニョン。ポケットが一杯とは言っても見た目にはもちろんわからない。後は玄関を通過して街頭の世間へ溶け込むだけだ。ところで、玄関は二つある。一つは多くは大理石で豪勢に飾られた目に見えるただ単なる玄関。もう一つは目に見えないが必ず配置されている人間の眼差という玄関の二つが。ミニョンを捕らえたのは目に見えないが必ず配置されている人間の眼差という玄関の側だった。
「ひとりの小柄な老婆が静かに言った、『お若いの、あなた、何を盗みました?』ミニョンを魅了したのは『お若いの』だった。さもなければ彼は抵抗していた。最も無垢な言葉は最も有害な言葉であり、警戒しなければならないのはそれである。ほとんどすぐに巨人が彼の上にのしかかって、彼の手首をつかんだ。浜辺でまどろむ海水浴客を襲う最もすさまじい波のように、巨人は突進してきた。老女の言葉と男の身振りによって、新しい宇宙が瞬時にミニョンに現れたのだ。取り返しのつかないものの宇宙が」(ジュネ「花のノートルダム・P.293」河出文庫)
ミニョンは老女が静かに発した「『お若いの』」という言葉に魅了されて我を失う。警備員の堂々たる肉体がミニョンにのしかかりあっけなく捕らえられてしまう。しかし警備員の巨人的行動を促したのは無力な老女のいとも物静かな一言だった。それまでミニョンを支えていた宇宙は瞬く間に転倒する。転倒させたのはどこにでもいそうな老女の眼差から発せられた「『お若いの』」という何気ない一言なのだがそれは、「最も無垢な言葉は最も有害な言葉であり、警戒しなければならないのはそれである」という泥棒の基礎的心得をミニョンに思い出させた。ミニョンは窃盗行為をディヴィーヌ化への変身の過程で中途半端に試みたわけだが、玄関を出るときにもまだ変身を終えていたとはいえない。変身途上の曖昧さが「『お若いの』」という言葉を誘引してしまうのであって、実年齢が若年であろうと高齢であろうと関係ない。たとえミニョンの年齢がもし六十歳であったとしても変身途上の曖昧さは他者の眼差において「『お若いの』」という言葉を喚起させずにはおかなかっただろう。ミニョンが思い込んでいた世界は転倒するが、ただ単に転倒するだけでなくむしろ《転倒される》ということを知らなければならない。世界は自分が超越論的に思い込んでいる条件だけで成り立っているわけではないのである。
「それはわれわれがそのなかにいた宇宙と同じものであるが、特別な点がある、すなわちわれわれが行動し、われわれが働きかけているのを知る代わりに、われわれが働きかけられていることが自分でわかっているという点である。ひとつの眼差にはーーーそれは恐らくわれわれの目に属しているーーー千里眼のもつ、不意の正確な鋭さがあって、ーーー裏返しに見られたーーーこの世界の秩序は、不可避的なものにおいてあまりに完璧なものに見えるので、この世界は消滅するしかないのだ。眼差が瞬きのうちに行うのはこれである。世界は手袋のように裏返される」(ジュネ「花のノートルダム・P.293~294」河出文庫)
それにしてもミニョンは物品を物色中になぜディヴィーヌの身振り仕ぐさを曖昧なまま試みて中途半端に捕まってしまったのだろう。知らず知らずのうちにとあるけれども、「からかうつもりであえてその身振りのいくつかをやってみた」ことも事実である。そして変身の中途半端さはどこかで誰かの眼差によって「取り返しのつかないものの宇宙」への変容という形で「刺し貫かれる」。ミニョンは半ばわかっていてそうしたのだ。「若年者」でなく「『お若いの』」という言葉は実際のナイフ以上に象徴的ナイフの持つ威力を発揮する。象徴化された堂々たる男性器を彷彿させる。なぜミニョンは自分の男性器ではなく理想的に勃起した男性器に祈りを捧げるディヴィーヌの身振り仕ぐさを反復して変身しようとしていたか。ディヴィーヌを反復すること。それは刺し貫かれ去勢される男性同性愛者の女方である「ディヴィーヌへの意志」がミニョンの《身体において》生じたということだ。このとき瞬時に理解がもたらされる。ミニョンはディヴィーヌの屋根裏部屋を出て他の女性のヒモとして暮らしていたがその暮らしにもだんだん飽きがきていた。だから結局のところ、このときのミニョンは刑務所へ帰りたかったのだと言える。
なお、このような眼差はもはや廃止される方向で世界は動いている。代わりにどのレジも自動機械化が促進されている。キャッシュレス化は消費者がレジを通過するたびに通過した消費者の全財産を計測し簡単に差し引きしてデータ化する。買物するたびにすべての個人情報が覗き込まれる。しばらくすれば見知らぬ企業から不動産取引の勧誘がスマートフォンを通じて届くようになる。ほとんど貯金のない消費者の場合は闇金から借金の勧誘メールが届けられる。各世帯でローンがいつまでどれほど残っているか、さらにいつどこで何をローンで購入したか、決済期限はいつか等々、すべてが瞬時に世界中の金融機関あるいは情報機関を駆け巡る。そして高度テクノロジーにもかかわらず再びアナログ時代の悪循環が反復される。
「DDTで害虫駆除を見事に達成した場合、虫に依存していた鳥が飢えて死ぬ。そうすると鳥が食べてくれていた分の虫殺しまでDDTに代行させねばならないことになる。いや、それよりまず第一ラウンドで、毒入りの虫を食べた鳥が死んでしまうことになるだろうか。DDTで犬を死滅させてしまえば、泥棒抑止のためその分だけ警察力に依存しなくてはならなくなる。するとその分だけ泥棒に知恵と武器がついてくる」(ベイトソン「精神の生態学・P.222」新思索社)
キャッシュレス化はキャッシュレス社会を世界化するが、そのぶん、新しい社会に適応した新らしい「泥棒」並びに「警察力」が発生する。この過程には終わりがない。資本主義は自己目的だからなのだが、その貫徹がなされるのは資本主義的運動がいつもすでに「超越論的探究」という推進性を持っていて、したがって「好きなときにやめることができない」からである。ちなみにキャッシュレス化は時代の流れと言われる。けれどもそんなことはとっくの昔にマルクスが「資本論」の中でしばしば示唆していたことであって今さら驚くに当たらない。むしろ資本主義、とりわけ金融機関はマルクスの予言を確実に現実化しつつある点で「マルクスの子どもたち」と呼ばれるべきがふさわしいのかもしれない。
「資本の現実の運動では、復帰は流通過程の一契機である。まず貨幣が生産手段に転化させられる。生産過程はそれを商品に転化させる。商品の販売によってそれは貨幣に再転化させられ、この形態で、資本を最初に貨幣形態で前貸しした資本家の手に帰ってくる。ところが、利子生み資本の場合には、復帰も譲渡も、ただ資本の所有者と第二の人とのあいだの法律上の取引の結果でしかない。われわれに見えるのは、ただ譲渡と返済だけである。その間に起きたことは、すべて消えてしまっている」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十一章・P.63」国民文庫)
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さて、アルトー。儀式の終わりにぶちまけられる数々の汚物。放尿と放屁、そして繰り返されし反復される嘔吐。
「そのときそれを聞いていると、彼らは真の雷を平らにし、それを《彼らの》汚辱の《必然性》に還元しようとするかに思われるだろう」(アルトー『タラウマラ・P.72』河出文庫)
タラウマラ族にとって放尿、放屁、嘔吐は儀式の最後を飾る締め括りの動作である。タラウマラからすれば先住民の土地は純粋な意味ですでに失われている。そこで儀式においてペヨトルを食べるとともに吐き出しつつ「それを《彼らの》汚辱の《必然性》に還元しようとする」。欧米文化で汚辱とされている行為は何の関係もない。外来種には見向きもしない。タラウマラの伝統にはそもそも人間は汚辱とともにあるほかない生きものだという絶対的観念がある。しかもそれには欧米文化であっても否定しようのない正当性がある。シグリという重要な儀式で彼らはその「《必然性》」を隠そうとしない。
「この儀式における年長者は、あえて私は言わなくてはならないが、もっともよく排尿し、もっとも激しく強く放屁した」(アルトー『タラウマラ・P.73』河出文庫)
そしてこの年長者は特権的な賞賛を浴びる。ダンスを始めとした儀式におけるこれら一連の行為がもし「錯乱」に見えるとしよう。アルトーはいう。
「大地からじかに錯乱を食べる民の方が私ははるかに好きである」(アルトー「神の裁きと訣別するため」『神の裁きと訣別するため・P.12』河出文庫)
アルトーは「錯乱」するわけではない。「錯乱」自身に《なる》。そのときすでにアルトーはペヨトルである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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