ディヴィーヌにとって「女性」とは何であるのか。男性同性愛者としてはディヴィーヌは女である。が、男性同性愛者ディヴィーヌから見れば「女性」とは何なのか。その意味を追求するとディヴィーヌを世間一般の「女性」と混同することはできない。
「ディヴィーヌの精神のなかで、そしてとりわけ彼女の人生において、女たちが何に相当するかを知るのは好奇心をそそることだろう。たぶん彼女自身は女ではなかった(つまりスカートを穿いた女らしい女)」(ジュネ「花のノートルダム・P.263」河出文庫)
一九三〇年代のフランスで「女性らしさ」とは要するに「スカートを穿いた女らしい女」というステレオタイプ(固定観念)を意味していた。その限りでディヴィーヌが夜の客を取るときの服装は決まってくる。「スカートを穿いた女らしい女」という仮の化粧を施すことに。もし当時のフランスで「女性らしさ」の諸要素がスカートによって決まるものでなく男性肉体労働者の象徴だった埃まみれのニッカーボッカーだったとすればどうだったか。当然ディヴィーヌは夜の客を取るときの服装に「埃まみれのニッカーボッカーを穿いた女らしい女」という衣装を選んだことだろう。ニーチェのいうように慣習の力は数千年にわたって定着するに及んだ測り知れない浸透力によって不自然なものを不自然と思わないほど人間社会に食い込んでいるのである。
「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)
ディヴィーヌは男性同性愛者の女方として「スカートを穿いた女らしい女」を演じるとき、それは当時のフランス社会の要請に従ってであり、自分自身の美的趣味や嗜好性とは必ずしも一致しない。むしろ彼女にはフランス社会の伝統によってでっち上げられステレオタイプ化された女性像というものに付きまとって離れない不自然さに違和感を覚える繊細さを持っていた。だから夜の客を取るために「スカートを穿いた女らしい女」を演出するだけでなくそのような衣装に愛情を持ってわざわざ自分を合わせるのは、ただひたすら「高飛車なたくましい男への服従によって」男性同性愛者の女方としてのディヴィーヌが実現される場合に限ってである。実際に女性であってもなお「男らしい」と評される女性はディヴィーヌにとって女性ではない。むしろ「父親」、「親方」、「親分」と呼ばれる存在である。なのでディヴィーヌにとっては、村の一軒家で王者然と君臨していたディヴィーヌの母「エルネスティーヌもまた女性ではな」い。
「彼女がそれに愛着を覚えるのは、ただ高飛車なたくましい男への服従によってだけであったし、彼女にとっては、彼女の母であったエルネスティーヌもまた女性ではなかった」(ジュネ「花のノートルダム・P.263」河出文庫)
その意味でディヴィーヌは中性的であると言える。ディヴィーヌには社会の中で自分が「中吊り」状態に置かれているという認識がある。深く追求して考えていくとジュネのいう説明書のような文章になるだろう。
「彼女の女らしさは《ただの》猿芝居である《だけ》ではなかった。だが『女性』としてそれになりきって考えるためには、彼女には自分の器官が邪魔だったのだ。考えることとは、ひとつの行為をなすことである。行動するためには、軽薄さを遠ざけ、しっかりした土台の上に自分の観念を置かねばならない。それで堅固さの観念が浮かんで彼女の助けになってくれたが、彼女はそれを男らしさの観念に結びつけていた、そして文法のなかに、彼女は自分が理解できる範囲でそれを見つけるのだった」(ジュネ「花のノートルダム・P.262」河出文庫)
ジュネが述べている到達点には重大な言葉が含まれている。ディヴィーヌ(彼女)が男性同性愛者の女方としてすっかり成り切ってしまうのを阻止する目に見えるものはディヴィーヌの身体に付いている男性器なのだが、他にディヴィーヌと同じ立場に置かれた同性愛者は多くいる。しかし一体何がそれほどにもディヴィーヌを思索する人間として社会的「宙吊り」状態の不安定さの中に叩き込んでしまうのか。それは男性器のあるなしによって固定化された社会的「文法」であり、この社会的文法がディヴィーヌのような立場の人間を非人間的存在として世間から分け隔てているのである。もっとも今ではずいぶん改善されてきたとはいえフランスといえども戦後まで今でいうLGBT差別は途方もなく激しかった。ディヴィーヌの苦痛をジュネが語ることでそれは容易に見て取れるに違いない。ジュネはキリスト教の教義や儀式に用いられる品々をふんだんに活用してジュネたちの日常生活を語る。とりわけ身振り仕ぐさ、そして教会に置いてある数々の備品を、その名称のまま用いて自分たちの暮らしを飾り付ける。ただそれだけでジュネたちの暮らしはその襤褸ぼろぶりにもかかわらずにわかに聖性を帯びて立ち上がってくる。宗教が常日頃から用いているちょっとしたトリックを応用するだけでジュネは自分たちの「泥棒、裏切り者、性倒錯者」としての日常を薔薇色に彩る。ジュネは幼い頃に通い詰めたキリスト教会と感化院ならびに刑務所での暮らしからこの種のトリックがいかにあっけないものでしかないか、学んだのだ。
ーーーーー
さて、アルトー。タラウマラ族の儀式に参加していろいろ考えたようである。次の一節に「肝臓」とあるけれども、特に「肝臓」でなくても構わない。しかしアルトーは近現代の思索家である。近現代の医学を知っている。人間の身体にとって肝臓がどれほど重要な役割を果たす臓器なのかを知っている。植物ペヨトルが摂取されるとき人間は自分の肝臓を通して植物の命じる行為を実現するのだがそうするよう取り計らうのは肝臓の仕事である。
「メキシコのペヨトルの司祭たちの助けによって私が気づいたこと、私が吸引した少々のペヨトルが私の意識に開いたことがある。すなわち人間の肝臓にこの秘密の錬金術が形成されるのである」(アルトー『タラウマラ・P.44~45』河出文庫)
肝臓にこだわるのは、意識変容について重要なのは脳細胞ではなくむしろ身体全部だ、ということを理解しなくてはならないからである。さらにペヨトルの作用は濫用するのでなく、タラウマラの儀式の掟に従って上手く用いられた場合、人間にとって有意義なものと有意義でないものとを区別し、ふさわしいものを指示し、不要なものは捨て去るよう命じる。資本主義社会が目指す大量生産/大量消費とは逆方向に働くのである。
「それは一つの仕事であり、これによってあらゆる個人の自我は、さまざまな感情や感動や欲望の中から自分にふさわしいものを選び、採用し、あるいは捨ててしまう」(アルトー『タラウマラ・P.45』河出文庫)
人間にとって不要不急のものは捨て去るよう命じる。それは政財官界の命令によってではなく、実際の行動によってのみ実現することができる。日常生活の中でそれを実践するためには、タラウマラ族が儀式で用いるペヨトルの抽出物は実をいうと必ずしも必要ない。ニーチェはいう。
「《われわれは為すことによって棄て去る》。ーーー畢竟、私には、『これをするな!諦めろ!自分に打ち克て!』という、あの一切の道徳が気に喰わない。ーーーそれとは逆に、何かを為せ、繰り返し為せ、朝から晩まで為せ、さらに夜にはそれを夢にまで見よ、と私を励まし駆り立てる道徳、そして、これを《立派に》為すこと・《私》ひとりの身にできるかぎりそれを立派に為すこと以外の何ごとをも全く考えさせないような道徳こそ、私の気に入るものだ!このように生きる者の身からは、こうした生き方に服しないものが次つぎに脱落してゆく。この者は憎悪も反感もなしに、今日はこれが、明日はあれが、風そよぐその度に樹から離れ去る黄色した木の葉のように、わが身から別れを告げてゆくのを、見る。いな、彼は、別れを告げるのを見さえしない。それほどにきびしく彼の眼は、自分の目標を、側方でも後方でも下方でもなくただひたむきに前方を、見やっている。『われわれが何を棄て去るかを決めるのは、われわれの所為であるべきだ。われわれはその為すことによって、棄て去るのだ』ーーーこれこそ私の意にかなうもの、こう告げるのは《私の》信条だ。反対に、私は、眼を開いたまま自分の零落を求めようなどとは欲しない。私は、あらゆる退嬰(たいえい)的な徳ーーーその本質が否定と自己断念そのものであるような徳を、欲しない」(ニーチェ「悦ばしき知識・三〇四・P.320~321」ちくま学芸文庫)
アルトーの頭の中にニーチェの言葉が響いていたかどうかは問題ではない。シグリ(ペヨトル摂取を用いたタラウマラ族の儀式)が人間の身体を通して意識させる大事なことは「実在するものを実在しないものから分離する」ことである。
「無意識はこうした感情、感動、欲望をこの自我のために形づくり、そしてこうしたものが彼の食欲、彼の着想、彼の真の信仰、そして彼の《観念》を組み立てるのである。ーーーまさにそこでこの《私》は意識的になり、そして《私》の極端に有機的な評価と区別の力が展開する。ーーーまさにここにおいて《シグリ》は、実在するものを実在しないものから分離するように働く」(アルトー『タラウマラ・P.45』河出文庫)
問題は数千年にわたって盛大な軍事力と政治的権益を用いて世界を制覇してきたキリスト教はほんとうに「実在するものを実在しないものから分離する」ことができているのかという問いである。そしてアルトーの答えは、分離するどころかまるで実在しないものを実在するものであるかのように振る舞い様々なでっち上げに加担してきたのはほかでもないキリスト教とその教会との歴史だと告発する。その意味でアルトーを自殺へ仕向けたのもまたキリスト教であったと言うほかない。
ーーーーー
なお、新型ウイルス問題についてさらに。前回述べたように、電車の車内アナウンスで「厚生労働省通達」として「時差出勤」だけでなく「テレワーク」を推奨するアナウンスがなされていた。今の日本政府が推し進めるキャッシュレス化とテレワークによる新しい管理社会の突貫工事的推進の加速化であることは間違いない。マスコミの中でもとりわけ民放はテレワークが何か日本のユートピア化を実現するよいきっかけになるかのように宣伝している。スポンサーが民間なので当たり前だ。とはいえ、ユートピアを目指してディストピアを実現してしまわなかった社会がこれまで世界のどこにあったろうか。ディストピアが実現されてしまった場合、民放が責任を取ってくれるのだろうか。さらにテレワークが不可能な職種は今なお大量にある。中小企業では無数にある。共働き世帯の場合、その間に想定される収入を政府の側から補償すると言っている。しかし長引いた場合はどうするのか。言うまでもなくキャッシュレス化は政府の目標として掲げられていたが、テレワークもなお少なくとも厚生労働省通達として国策化されている状況である。その実現のために有権者は多大な出費を重ねねばならなくなってきた。政府はどこからどこまで補償するというのだろうか。ただ単なる一時的な「ばらまき」であっては途轍もない経済的困難者が続出するのは目に見えている状況でもある。格差が格差を生み、格差が憎悪へ変化し階級社会を育成し固定化する。このようなただ単なる一時的な「ばらまき」の横行はこれまでも一貫して正義を気取るマスコミの常套手段として機能してきた。日本政府に媚びる動きとして連動してきた。そして結果はいつも同じことの繰り返しだった。目の当たりに行われる「贈与」は「掟の贈与」という大変暴力的な挙措なのだ。
「贈与があるためには、贈与を忘却せねばなりませんが、しかしそれと同時にそういった忘却それ自体は保持されねばならないのです。贈与が生起するためには、それはどんな忘却であってもかまわないというわけではありません。消去されねばならぬと同時に、消去の痕跡を保持せねばならないのです。そして、こういった二重の命令は、明らかに狂気を引き起こすダブル・バインドであります。私は与えようと欲し、他者が受け取ってくれることを欲します。したがって、この贈与が生起するためには、他者は私が彼に与えるということを知っていなければなりません。そうでなければこういったことは意味をもちませんし、贈与は、生起しません。しかしながら、私が与えるということを他者が知っていたり、私のほうもまた知っているならば、贈与はこの象徴的な認知(感謝)によって廃棄されてしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。とはいえ、贈与はあらねばなりませんし、贈与はよいのです。ですから、贈与の想定それ自体、つまり贈与のこの狂気、これはダブルバインドの状況なのです。そして、あらゆる掟、あらゆる掟についての経験がこうしたタイプのものである、と私は言いたい。一つの掟、それは必ずしも悪いものではありません。われわれはもろもろの掟は必要としますし、掟を与えること、それはまた贈り物でもあります。というのも掟は第一に安心させ、不安を避けさせてくれるからです。ところが、掟の贈与は同時に悪いものでもあります。それはパルマコンであり、毒であります。贈与はどれも毒なのです。こういった観点からすると、記憶、時間ならびに歴史との関連において、贈与と掟の贈与とは、実際、何らかの類似したものである、と言うことができます。人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです。
こういったわけですから、偉大な支配者たち、ないしは偉大な女支配者たち、すなわち最も象徴的に自己固有化をおこなう人々が、最も気前のいい人々である、といった事実を前にしても、それを見て驚くなどということは少しもないのです。贈与と掟の贈与のなかに読み取るのがむずかしいのは、まさにこういったことなのです。
与えるとは、たいへんに暴力的な挙措でありうるのです。想像していただけるでしょうが、真の贈与、すなわち暴力をふるわないような、そして与えられた物やそれが与えられた相手を自己固有化しないような贈与、そういった贈与は、贈与の諸標識までも消去せねばならないでしょう。それは現われない贈与であり、したがって他者にとってのみならず、自分にとってさえも贈与の諸標識を消去するでしょう。真の贈与は、与えているということを知りさえせずに与えることのうちに、その本領をもっているのです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.110~112』法政大学出版局)
そしてもしこのような暴力的挙措によって死者が出た場合、マスコミ(特に民放)は発生してくるであろう十分な責任をきちんと取る覚悟性が本当にあるのだろうか。パルマコン=「医薬/毒薬」の意味さえ理解しようとしない日本のマスコミ(特に民放)に。沖縄基地問題、北方領土問題、老後資金二〇〇〇万円問題、拉致問題、等々。政府の汚点を隠蔽してやり恩を着せることに必死のマスコミ(特に民放)なのだが。またなぜマスコミ(特に民放)はいつも表向きは正義の旗を振り回しながら実際のところ日本政府に媚びを売るためなら一般市民から死者を出すことに血道を上げるのだろうか。なぜ、いつまで、このような政府が政府自身の身体を自らの手で解体すべきではないか、と要求しないのか。テレワーク一般化に伴う必要経費はマスコミ(特に民放)に請求して欲しいとわざわざ《欲している》ように見える。だったら請求するまでのことなのだが。さらに管理社会化による市民社会のサンプル化、データバンク化、際限のないマーケティングによって発生してくる損害賠償もまたマスコミ(特に民放)に請求してよいという答えなのだろうか。
「私たちは、企業には魂があると聞かされているが、これほど恐ろしいニュースはほかにない。いまやマーケティングが社会管理の道具となり、破廉恥な支配者層を産み出す」(ドゥルーズ「記号と事件・P.364」河出文庫)
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「ディヴィーヌの精神のなかで、そしてとりわけ彼女の人生において、女たちが何に相当するかを知るのは好奇心をそそることだろう。たぶん彼女自身は女ではなかった(つまりスカートを穿いた女らしい女)」(ジュネ「花のノートルダム・P.263」河出文庫)
一九三〇年代のフランスで「女性らしさ」とは要するに「スカートを穿いた女らしい女」というステレオタイプ(固定観念)を意味していた。その限りでディヴィーヌが夜の客を取るときの服装は決まってくる。「スカートを穿いた女らしい女」という仮の化粧を施すことに。もし当時のフランスで「女性らしさ」の諸要素がスカートによって決まるものでなく男性肉体労働者の象徴だった埃まみれのニッカーボッカーだったとすればどうだったか。当然ディヴィーヌは夜の客を取るときの服装に「埃まみれのニッカーボッカーを穿いた女らしい女」という衣装を選んだことだろう。ニーチェのいうように慣習の力は数千年にわたって定着するに及んだ測り知れない浸透力によって不自然なものを不自然と思わないほど人間社会に食い込んでいるのである。
「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)
ディヴィーヌは男性同性愛者の女方として「スカートを穿いた女らしい女」を演じるとき、それは当時のフランス社会の要請に従ってであり、自分自身の美的趣味や嗜好性とは必ずしも一致しない。むしろ彼女にはフランス社会の伝統によってでっち上げられステレオタイプ化された女性像というものに付きまとって離れない不自然さに違和感を覚える繊細さを持っていた。だから夜の客を取るために「スカートを穿いた女らしい女」を演出するだけでなくそのような衣装に愛情を持ってわざわざ自分を合わせるのは、ただひたすら「高飛車なたくましい男への服従によって」男性同性愛者の女方としてのディヴィーヌが実現される場合に限ってである。実際に女性であってもなお「男らしい」と評される女性はディヴィーヌにとって女性ではない。むしろ「父親」、「親方」、「親分」と呼ばれる存在である。なのでディヴィーヌにとっては、村の一軒家で王者然と君臨していたディヴィーヌの母「エルネスティーヌもまた女性ではな」い。
「彼女がそれに愛着を覚えるのは、ただ高飛車なたくましい男への服従によってだけであったし、彼女にとっては、彼女の母であったエルネスティーヌもまた女性ではなかった」(ジュネ「花のノートルダム・P.263」河出文庫)
その意味でディヴィーヌは中性的であると言える。ディヴィーヌには社会の中で自分が「中吊り」状態に置かれているという認識がある。深く追求して考えていくとジュネのいう説明書のような文章になるだろう。
「彼女の女らしさは《ただの》猿芝居である《だけ》ではなかった。だが『女性』としてそれになりきって考えるためには、彼女には自分の器官が邪魔だったのだ。考えることとは、ひとつの行為をなすことである。行動するためには、軽薄さを遠ざけ、しっかりした土台の上に自分の観念を置かねばならない。それで堅固さの観念が浮かんで彼女の助けになってくれたが、彼女はそれを男らしさの観念に結びつけていた、そして文法のなかに、彼女は自分が理解できる範囲でそれを見つけるのだった」(ジュネ「花のノートルダム・P.262」河出文庫)
ジュネが述べている到達点には重大な言葉が含まれている。ディヴィーヌ(彼女)が男性同性愛者の女方としてすっかり成り切ってしまうのを阻止する目に見えるものはディヴィーヌの身体に付いている男性器なのだが、他にディヴィーヌと同じ立場に置かれた同性愛者は多くいる。しかし一体何がそれほどにもディヴィーヌを思索する人間として社会的「宙吊り」状態の不安定さの中に叩き込んでしまうのか。それは男性器のあるなしによって固定化された社会的「文法」であり、この社会的文法がディヴィーヌのような立場の人間を非人間的存在として世間から分け隔てているのである。もっとも今ではずいぶん改善されてきたとはいえフランスといえども戦後まで今でいうLGBT差別は途方もなく激しかった。ディヴィーヌの苦痛をジュネが語ることでそれは容易に見て取れるに違いない。ジュネはキリスト教の教義や儀式に用いられる品々をふんだんに活用してジュネたちの日常生活を語る。とりわけ身振り仕ぐさ、そして教会に置いてある数々の備品を、その名称のまま用いて自分たちの暮らしを飾り付ける。ただそれだけでジュネたちの暮らしはその襤褸ぼろぶりにもかかわらずにわかに聖性を帯びて立ち上がってくる。宗教が常日頃から用いているちょっとしたトリックを応用するだけでジュネは自分たちの「泥棒、裏切り者、性倒錯者」としての日常を薔薇色に彩る。ジュネは幼い頃に通い詰めたキリスト教会と感化院ならびに刑務所での暮らしからこの種のトリックがいかにあっけないものでしかないか、学んだのだ。
ーーーーー
さて、アルトー。タラウマラ族の儀式に参加していろいろ考えたようである。次の一節に「肝臓」とあるけれども、特に「肝臓」でなくても構わない。しかしアルトーは近現代の思索家である。近現代の医学を知っている。人間の身体にとって肝臓がどれほど重要な役割を果たす臓器なのかを知っている。植物ペヨトルが摂取されるとき人間は自分の肝臓を通して植物の命じる行為を実現するのだがそうするよう取り計らうのは肝臓の仕事である。
「メキシコのペヨトルの司祭たちの助けによって私が気づいたこと、私が吸引した少々のペヨトルが私の意識に開いたことがある。すなわち人間の肝臓にこの秘密の錬金術が形成されるのである」(アルトー『タラウマラ・P.44~45』河出文庫)
肝臓にこだわるのは、意識変容について重要なのは脳細胞ではなくむしろ身体全部だ、ということを理解しなくてはならないからである。さらにペヨトルの作用は濫用するのでなく、タラウマラの儀式の掟に従って上手く用いられた場合、人間にとって有意義なものと有意義でないものとを区別し、ふさわしいものを指示し、不要なものは捨て去るよう命じる。資本主義社会が目指す大量生産/大量消費とは逆方向に働くのである。
「それは一つの仕事であり、これによってあらゆる個人の自我は、さまざまな感情や感動や欲望の中から自分にふさわしいものを選び、採用し、あるいは捨ててしまう」(アルトー『タラウマラ・P.45』河出文庫)
人間にとって不要不急のものは捨て去るよう命じる。それは政財官界の命令によってではなく、実際の行動によってのみ実現することができる。日常生活の中でそれを実践するためには、タラウマラ族が儀式で用いるペヨトルの抽出物は実をいうと必ずしも必要ない。ニーチェはいう。
「《われわれは為すことによって棄て去る》。ーーー畢竟、私には、『これをするな!諦めろ!自分に打ち克て!』という、あの一切の道徳が気に喰わない。ーーーそれとは逆に、何かを為せ、繰り返し為せ、朝から晩まで為せ、さらに夜にはそれを夢にまで見よ、と私を励まし駆り立てる道徳、そして、これを《立派に》為すこと・《私》ひとりの身にできるかぎりそれを立派に為すこと以外の何ごとをも全く考えさせないような道徳こそ、私の気に入るものだ!このように生きる者の身からは、こうした生き方に服しないものが次つぎに脱落してゆく。この者は憎悪も反感もなしに、今日はこれが、明日はあれが、風そよぐその度に樹から離れ去る黄色した木の葉のように、わが身から別れを告げてゆくのを、見る。いな、彼は、別れを告げるのを見さえしない。それほどにきびしく彼の眼は、自分の目標を、側方でも後方でも下方でもなくただひたむきに前方を、見やっている。『われわれが何を棄て去るかを決めるのは、われわれの所為であるべきだ。われわれはその為すことによって、棄て去るのだ』ーーーこれこそ私の意にかなうもの、こう告げるのは《私の》信条だ。反対に、私は、眼を開いたまま自分の零落を求めようなどとは欲しない。私は、あらゆる退嬰(たいえい)的な徳ーーーその本質が否定と自己断念そのものであるような徳を、欲しない」(ニーチェ「悦ばしき知識・三〇四・P.320~321」ちくま学芸文庫)
アルトーの頭の中にニーチェの言葉が響いていたかどうかは問題ではない。シグリ(ペヨトル摂取を用いたタラウマラ族の儀式)が人間の身体を通して意識させる大事なことは「実在するものを実在しないものから分離する」ことである。
「無意識はこうした感情、感動、欲望をこの自我のために形づくり、そしてこうしたものが彼の食欲、彼の着想、彼の真の信仰、そして彼の《観念》を組み立てるのである。ーーーまさにそこでこの《私》は意識的になり、そして《私》の極端に有機的な評価と区別の力が展開する。ーーーまさにここにおいて《シグリ》は、実在するものを実在しないものから分離するように働く」(アルトー『タラウマラ・P.45』河出文庫)
問題は数千年にわたって盛大な軍事力と政治的権益を用いて世界を制覇してきたキリスト教はほんとうに「実在するものを実在しないものから分離する」ことができているのかという問いである。そしてアルトーの答えは、分離するどころかまるで実在しないものを実在するものであるかのように振る舞い様々なでっち上げに加担してきたのはほかでもないキリスト教とその教会との歴史だと告発する。その意味でアルトーを自殺へ仕向けたのもまたキリスト教であったと言うほかない。
ーーーーー
なお、新型ウイルス問題についてさらに。前回述べたように、電車の車内アナウンスで「厚生労働省通達」として「時差出勤」だけでなく「テレワーク」を推奨するアナウンスがなされていた。今の日本政府が推し進めるキャッシュレス化とテレワークによる新しい管理社会の突貫工事的推進の加速化であることは間違いない。マスコミの中でもとりわけ民放はテレワークが何か日本のユートピア化を実現するよいきっかけになるかのように宣伝している。スポンサーが民間なので当たり前だ。とはいえ、ユートピアを目指してディストピアを実現してしまわなかった社会がこれまで世界のどこにあったろうか。ディストピアが実現されてしまった場合、民放が責任を取ってくれるのだろうか。さらにテレワークが不可能な職種は今なお大量にある。中小企業では無数にある。共働き世帯の場合、その間に想定される収入を政府の側から補償すると言っている。しかし長引いた場合はどうするのか。言うまでもなくキャッシュレス化は政府の目標として掲げられていたが、テレワークもなお少なくとも厚生労働省通達として国策化されている状況である。その実現のために有権者は多大な出費を重ねねばならなくなってきた。政府はどこからどこまで補償するというのだろうか。ただ単なる一時的な「ばらまき」であっては途轍もない経済的困難者が続出するのは目に見えている状況でもある。格差が格差を生み、格差が憎悪へ変化し階級社会を育成し固定化する。このようなただ単なる一時的な「ばらまき」の横行はこれまでも一貫して正義を気取るマスコミの常套手段として機能してきた。日本政府に媚びる動きとして連動してきた。そして結果はいつも同じことの繰り返しだった。目の当たりに行われる「贈与」は「掟の贈与」という大変暴力的な挙措なのだ。
「贈与があるためには、贈与を忘却せねばなりませんが、しかしそれと同時にそういった忘却それ自体は保持されねばならないのです。贈与が生起するためには、それはどんな忘却であってもかまわないというわけではありません。消去されねばならぬと同時に、消去の痕跡を保持せねばならないのです。そして、こういった二重の命令は、明らかに狂気を引き起こすダブル・バインドであります。私は与えようと欲し、他者が受け取ってくれることを欲します。したがって、この贈与が生起するためには、他者は私が彼に与えるということを知っていなければなりません。そうでなければこういったことは意味をもちませんし、贈与は、生起しません。しかしながら、私が与えるということを他者が知っていたり、私のほうもまた知っているならば、贈与はこの象徴的な認知(感謝)によって廃棄されてしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。とはいえ、贈与はあらねばなりませんし、贈与はよいのです。ですから、贈与の想定それ自体、つまり贈与のこの狂気、これはダブルバインドの状況なのです。そして、あらゆる掟、あらゆる掟についての経験がこうしたタイプのものである、と私は言いたい。一つの掟、それは必ずしも悪いものではありません。われわれはもろもろの掟は必要としますし、掟を与えること、それはまた贈り物でもあります。というのも掟は第一に安心させ、不安を避けさせてくれるからです。ところが、掟の贈与は同時に悪いものでもあります。それはパルマコンであり、毒であります。贈与はどれも毒なのです。こういった観点からすると、記憶、時間ならびに歴史との関連において、贈与と掟の贈与とは、実際、何らかの類似したものである、と言うことができます。人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです。
こういったわけですから、偉大な支配者たち、ないしは偉大な女支配者たち、すなわち最も象徴的に自己固有化をおこなう人々が、最も気前のいい人々である、といった事実を前にしても、それを見て驚くなどということは少しもないのです。贈与と掟の贈与のなかに読み取るのがむずかしいのは、まさにこういったことなのです。
与えるとは、たいへんに暴力的な挙措でありうるのです。想像していただけるでしょうが、真の贈与、すなわち暴力をふるわないような、そして与えられた物やそれが与えられた相手を自己固有化しないような贈与、そういった贈与は、贈与の諸標識までも消去せねばならないでしょう。それは現われない贈与であり、したがって他者にとってのみならず、自分にとってさえも贈与の諸標識を消去するでしょう。真の贈与は、与えているということを知りさえせずに与えることのうちに、その本領をもっているのです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.110~112』法政大学出版局)
そしてもしこのような暴力的挙措によって死者が出た場合、マスコミ(特に民放)は発生してくるであろう十分な責任をきちんと取る覚悟性が本当にあるのだろうか。パルマコン=「医薬/毒薬」の意味さえ理解しようとしない日本のマスコミ(特に民放)に。沖縄基地問題、北方領土問題、老後資金二〇〇〇万円問題、拉致問題、等々。政府の汚点を隠蔽してやり恩を着せることに必死のマスコミ(特に民放)なのだが。またなぜマスコミ(特に民放)はいつも表向きは正義の旗を振り回しながら実際のところ日本政府に媚びを売るためなら一般市民から死者を出すことに血道を上げるのだろうか。なぜ、いつまで、このような政府が政府自身の身体を自らの手で解体すべきではないか、と要求しないのか。テレワーク一般化に伴う必要経費はマスコミ(特に民放)に請求して欲しいとわざわざ《欲している》ように見える。だったら請求するまでのことなのだが。さらに管理社会化による市民社会のサンプル化、データバンク化、際限のないマーケティングによって発生してくる損害賠償もまたマスコミ(特に民放)に請求してよいという答えなのだろうか。
「私たちは、企業には魂があると聞かされているが、これほど恐ろしいニュースはほかにない。いまやマーケティングが社会管理の道具となり、破廉恥な支配者層を産み出す」(ドゥルーズ「記号と事件・P.364」河出文庫)
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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