白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

延長される民主主義8

2020年03月26日 | 日記・エッセイ・コラム
罪という点でゴッホは何か刑罰の対象となるようなことをしただろうか。何一つしていない。絵を描いただけのことだ。

「いかなる罪とも別のものであるヴァン・ゴッホの身体は、同様に狂気ともまた別のものであったのだ、もっともただ罪のみが狂気をもたらすのであるが」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.114~115』河出文庫)

ゴッホは罪の意識に苛まれていた。人一倍「良心の疚(やま)しさ」を重く受け止めてしまう感性の多様性が一つの身体になって歩いているようなものだ。しかし「良心の疚(やま)しさ」を発明したのはゴッホではない。

「内面化され自己自身の内へ逐い戻された動物人間のあの自己呵責への意志、あの内攻した残忍性である。飼い馴らすために『国家』のうちへ閉じ込められた動物人間は、この苦痛を与えようとする意欲の《より自然的な》はけ口がふさがれて後は、自分自らに苦痛を与えるために良心の疚(やま)しさを発案した、ーーー良心の疚しさをもつこの人間は、最も戦慄すべき冷酷さと峻厳さとをもって自分を苛虐するために宗教的前提をわが物とした。《神》に対する負い目、この思想は彼にとって拷問具となる。彼は自分に固有の除き切れない動物本能に対して見出しうるかぎりの究極の反対物を『神』のうちに据える。彼はこの動物本能を神に対する負い目として(「主」・「父」・世界の始祖や太初に対する敵意、反逆、不逞として)解釈する。彼は『神』と『悪魔』との矛盾の間に自分自らを挟む。彼は自分自身に対する、自分の存在の本性・本然・事実に対するあらゆる否定を肯定として、存在するもの・生身のもの・現実のものとして、神として、神の神聖として、神の審判として、神の処刑として、彼岸として、永遠として、果てしなき苛責として、地獄として、量り知ることのできない罰および罪として、自分自らのうちから投げ出す。それは精神的残忍における一種の意志錯乱であって、全く他にその比類を見ることのできないものである。すなわち、それは自分自身を到底救われがたい極悪非道のものと見ようとする人間の《意志》であり、自分の受ける刑罰は常に罪過を償(つぐな)うに足りないと考えようとする人間の《意志》であり、『固定観念』のこの迷路から一挙にして脱出するために事物の最奥に罪と罰の問題の害毒を感染させようとする人間の《意志》であり、一つの理想ーーー『聖なる神』という理想ーーーを樹てて、その面前で自分の絶対的無価値を手に取る如く確かめようとする人間の《意志》である。おお、この錯乱した痛ましい人間獣の上に禍あれ!この人間獣が《行為の野獣》たることを少しでも妨げられるとき、奴は何を思いつくことか!どんな途轍(とてつ)もないことが、どんな乱心の発作が、どんな《観念の野獣性》がただちに勃発することか!」(ニーチェ「道徳の系譜・P.109~110」岩波文庫)

逆にゴッホはそれに従順にしたがい過ぎた。「良心の疚(やま)しさ」を発明した宗教とその蔓延が成立させた社会環境による犠牲者だった。アルトーはいう。

「私はカトリックな罪を信じないが、しかしエロティックな罪は信じており、まさに地上のすべての天才たち、精神病院の本物の精神病者たちは、それに対して警戒を怠らなかったのである、さもなければ、彼らは(真正な意味での)精神病者ではなかったということなのだ」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.115』河出文庫)

タラウマラ族の儀式(シグリ)の効果が思い出されないだろうか。ペヨトル摂取以前、人間の意識は実にしばしば「非現実、幻覚的なもの、成就されていないもの、準備されていないものに陥ってしまう」。

「意識はとりわけ自分という存在がどこまで行くか、どこまでまだ《達していない》か、《どこまでは行く権利を持たないか知っている。さもなければ非現実、幻覚的なもの、成就されていないもの、準備されていないものに陥ってしまう》」(アルトー『タラウマラ・P.41』河出文庫)

ところがペヨトル摂取方法をわきまえた上級使用者であるタラウマラ族の司祭の場合、そんなことにはならない。

「意識は、もし何も自分を引き止めるものが見つからなければ、それに身を委ね、まるごとそこに溶けてしまう。そしてペヨトルはこの恐ろしい方面で、<悪>に対する唯一の防壁となる」(アルトー『タラウマラ・P.43』河出文庫)

ゴッホの場合「<悪>」は、社会規範の側から、社会規範として、やって来た。それは「良心の疚(やま)しさ」といういかにも敬虔な態度をとって社会的正当性の側に立ち、社会的正当性の名において公然たる暴力を振るう。ゴッホはその敬虔さのあまりダブルバインド(相反傾向、板ばさみ)に遭う。アルトーの論旨によれば、ゴッホは社会規範によってダブルバインド(相反傾向、板ばさみ)に遭わされた、自殺へ追い込まれた、ということになる。その意味でアルトーはまったく正しい。しかし問題は、当時の社会規範こそがゴッホを自殺に追い込んだにもかかわらず、なぜか社会規範が罪に問われたことは一度もない、という奇妙な点である。そして百年以上経ち、当時の社会規範ではもうなくなったにもかかわらず、依然として社会規範が罪に問われることは今なお《ない》という現状は確実に《ある》というなお一層奇怪な社会が罪に問われていないという点だろうとおもわれる。犯罪者の場合、犯罪を現行犯で捕らえることができないため、犯罪でなく犯罪者に刑罰が与えられることになっている。そのような前提からして司法はおかしな構造を採用しているわけだが、それならそれで、社会規範を現行犯で捕らえることができない場合、社会規範の創設者が処罰されないのはますますおかしな身振り仕ぐさではないだろうか。誰もそこにある不思議なものを不思議に思わなくなっている。

「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)

それほど習慣化の作用は強力だ。数千年もかけて遂行されてきた事業である。さらに資本主義はその作業をたった二〇〇年ほどで成し遂げた。

「社会的生産関係とそれに対応する生産様式との基礎をなす自然発生的で未発達な状態にあっては、伝統が優勢な役割を演ぜざるをえないということは、明らかである。さらに、現存の事物を法律として神聖化し、またこの事物に慣習と伝統とによって与えられた制限を法的制限として固定することは、ここでもやはり社会の支配者的部分の利益になることだということも、明らかである。ほかのことはすべて別として、とにかく、こういうことは、現存状態の基礎つまりこの状態の根底にある関係の不断の再生産が時のたつにつれて規律化され秩序化された形態をとるようになりさえすれば、おのずから起きるのである。そして、この規律や秩序は、それ自身、どの生産様式にとっても、それが社会的な強固さをもち単なる偶然や恣意からの独立性をもつべきものならば、不可欠な契機なのである。これこそは、それぞれの生産様式の社会的確立の形態であり、したがってまた単なる恣意や偶然からのその相対的な解放の形態である。どの生産様式も、生産過程やそれに対応する社会的関係が停滞状態にある場合には、それ自身の単なる反復的再生産によってこの形態に到達する。この形態がしばらく持続すれば、それは慣習や伝統として確立され、ついには明文化された法律として神聖化される」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十七章・P.296」国民文庫)

というふうに。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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