身柄拘束のための次の監禁機関が決定されるまでキュラフロワは刑余更生院で他の不良少年たちと過ごす。そこでは他の不良少年たちによる未成熟な野獣のような身振り仕ぐさが様々に展開する。感性豊かなキュラフロワはそれに刺激されてたちまちバレエのシナリオを創作してしまう。そのとき、ふと、少年時代の思い出がよぎる。
「クラスの仲間たちが彼らの遊びから彼を除け者にしたのは、彼を王子にしていたスレート葺きの家のせいだった」(ジュネ「花のノートルダム・P.243」河出文庫)
村では唯一の富裕層に属していたキュラフロワ。母エルネスティーヌが願う上品さを愛する趣味で小学校への通学にはいつも黒い帽子、黒い上着、黒いズボン、黒い靴といった服装を見にまとうことで逆に他の乱暴な生徒たちから排除されるいじめられっ子だった。なかでも村で一軒しかない濠に囲まれた「スレート葺きの家」はキュラフロワの屋敷を他の少年たちから拒絶される根拠として作用していた。ところがその同じ環境が同時にキュラフロワに対する他の少年たちの畏怖と羨望とを限りなく欲望させる憧れとして作用したことも事実である。以前述べたようにキュラフロワの少年時代はいつもそのような排除されつつ畏怖されるというダブルバインド(板ばさみ)に置かれていた。一人の少年にとって果てしない苦痛でしかないダブルバインドがキュラフロワを想像力の怪物へ変えたのは不思議でも何でもない。
なお注意しておきたいのだが、キュラフロワの家が「スレート葺き」であり他の少年たちから排除対象となったことは少なくとももう二点、村の経済的格差と政治的格差構造の問題があったことを証明しているという事情である。一つに「スレート葺き」でない家が圧倒的に多いこと。これらが中間層を形成する。二つ目に「スレート葺き」でない家よりなお一層粗末な家々があったという事情である。よって差し当たり市民社会としてのフランスの村はどこへ行っても三階層を成していたことが頭の中にいつも表象されていなくてはならない。
「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.130~131」国民文庫)
さらに。
「ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表わすのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品はーーー貨幣になるのである(「彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権力とを獣に与える。この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」『ヨハネの黙示録』)」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・・P.159」国民文庫)
そしてまた、村とはいえ第一次世界大戦は終了し、市民社会が形成されている以上、その構成員はすべて「社会化」されていなくてはならないし、社会化されている。労働環境が全体化されていない限り第一次世界大戦という「総力戦」が不可能だったように。社会化された人間の総体が三階層を成しているのであり、個々の村々はフランス国家をひな形とする小さな共同体として捉える必要がある。「社会化された人間」とは何か。
「じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。というのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第四十八章・P.339」国民文庫)
さて、キュラフロワが経験しているのは閉鎖的だが相部屋という中間的な環境である。誰もが非行少年だという以外に何らの共通点も持たない少年たちによる「夜陰的」環境。そこではキュラフロワだけが排除され特権化されるということは決してない。
「だが、ここでは他のガキどもから見て、彼はもはや彼らと同じように拾われた浮浪児にすぎず、重大なことではあるが、少し遠方からやって来たという以外に変わったところのない非行少年にすぎなかった」(ジュネ「花のノートルダム・P.243」河出文庫)
ジュネはそこでの「夜の様子」について触れていく。ジュネの実体験に基づくことは言うまでもない。しかし大事なことは、少年たちは、そこでのみ加工されることができるように加工される、というまたとない機会を持つことだ。
「以下が刑余更生院ーーーまたは教化院(コロニー)ーーーの夜の様子である」(ジュネ「花のノートルダム・P.244」河出文庫)
相部屋の夜の静寂。それは「悪臭や、石の怪物でいっぱいのジャングルの静寂」だ。不良少年たちの身振り仕ぐさは子どもの動きに顕著な野獣的本来性を取り戻す。「蛇の頭のように用心深く、聡明でもあり、狡猾で、毒気を含んで危険ないくつもの頭が起き上がり、それからフックがかすかな音を立てることもなく、からだ全体がハンモックから出てくる」というふうに。
「共同寝室の固定されたハンモックのなかで、いくつもの頭が毛布の下に消える。班長は自分の小部屋を手に入れたが、それは共同寝室のはずれにある。静寂が半時間のあいだ幅をきかすが、悪臭や、石の怪物でいっぱいのジャングルの静寂であり、まるで虎の押し殺された溜息に注意して耳を傾けているみたいだ。儀式にしたがって、死者たちの間から、少年たちが蘇る。蛇の頭のように用心深く、聡明でもあり、狡猾で、毒気を含んで危険ないくつもの頭が起き上がり、それからフックがかすかな音を立てることもなく、からだ全体がハンモックから出てくる。共同寝室のーーー上から見たーーー全体的な様子に変化はない」(ジュネ「花のノートルダム・P.244~245」河出文庫)
処罰機関の内部は窮屈なものだ。しかし犯罪者にとっては、少年という小さな犯罪者にとってもなお、いつもふらふらしているばかりで居心地が不安定な「都会生活」における「宙吊り」状態から解放された自由を得ている点では、逆に「都会生活」というものがどれほど監視と管理に満ちた監獄社会であるかよく知っているのである。
「すべては裏側で行われる。すぐに、這って進みながら、仲間たちが集まった。宙吊りの都会生活は見捨てられている」(ジュネ「花のノートルダム・P.245」河出文庫)
ーーーーー
さて、アルトー。タラウマラ族によるペヨトルを用いた儀式について、とりわけペヨトルの取り扱い方についてアルトーは述べる。メキシコの原住民学校の校長との対話の中で述べる。
「『あらゆる人間的なものと同じことがペヨトルについても言える。その用い方をわきまえるならば、つまり望ましい服用量を望ましい範囲で用いるなら、それはすばらしい魅惑的、錬金術的原理となる。そしてとりわけ不適切に、みだりにそれを用いないこと』」(アルトー『タラウマラ・P.24』河出文庫)
二〇二〇年の日本と比較する。どの薬局へ行ってどのような治療薬を処方してもらうにしても注意事項として言われることと違わない。とはいえ、現代社会ゆえにどんな治療薬が処方されたとしても、服用すれば「すばらしい魅惑的、錬金術的原理となる」と言う医師/薬剤師はもちろんいないが。
「『シグリを飲むことは、まさに服用量を超えないことである。なぜならシグリは<無限>であり、癒しの臨床的作用の神秘は、われわれの有機体がどのような比率でそれを用いるかにかかっているからである。必要量を超えることは作用を《台無しにする》』」(アルトー『タラウマラ・P.25』河出文庫)
要処方箋薬でなく逆に市販薬の中に、かつてより遥かに強力な作用をもたらす薬剤が一般に販売されるようになってきたのは周知の通り。そのため日本では要処方箋薬でなく市販薬依存症者が続出する事態が生じてきたことはここ数年で急速に議論される傾向にある。たとえば、どこにでもある薬局でカフェインの錠剤を買う。次にコンビニでアルコール飲料を買う。帰宅しようがしまいが両者をミックスして一気飲みする。しばらくすると奇妙な万能感や多幸感で全身に力が漲ってくる。こうして若年層のあいだに薬物依存と睡眠薬遊びが蔓延していく。総合感冒薬もまた依存性が高い。リラックス目的で常用に至ることはよく見かける光景の一つだ。それにしても覚醒剤(アンフェタミン、メタンフェタミン)を静脈注射してしまうともう社会復帰は極めて困難になる。効果は桁違いであり、たとえ解毒したとしてもそれ以後の生活は無気力無関心の連続であり、もはや生きていても仕方がないような気分が死ぬまで続くケースがほとんどである。また立場上、もっと様々な症例を知っているが、薬物乱用の過程で殺人あるいは傷害致死を犯してしまっているケースがしばしばある。大抵は交通事故。悪循環がさらなる悪循環を招き込む無限ループに入ってしまう。悲惨な話なら幾らでもある。借金地獄などありふれた光景だ。ところが本当に悲惨なのは苦労に苦労が重なるということではない。どれほど悲惨なエピソードを聞かされても脅かされてもドラッグを止める直接的きっかけにはならない。ドラッグから脱出する方法は自分の身体が或る種の叫びを上げるということであり、身体自身の側から逆にドラッグを拒絶する反応が出てきて始めて可能になるということである。たとえば日本の場合、食事の際にご飯を食べる。しかしご飯を食べようとしても身体の側からご飯を受け付けなくなるという状態におちいることである。ドラッグではドラッグを服用しようとしてももはやからだが受け付けなくなるところまで行くということである。そうなって始めて自分はいま何もの《である》かを知ることができる。バロウズはそれを「細胞の決意」といっている。
「麻薬をやめるということは、一つの生き方を放棄することだ。おれは何人ものジャンキーが麻薬をやめて酒に溺れ、二、三年のうちに死んでしまうのを見てきた。元ジャンキーのなかには自殺する者がしばしば出てくる。なぜジャンキーは自分から進んで麻薬をやめるのだろうか?この疑問に対する解答はだれにもわからない。麻薬がもたらす損失や恐怖をいくら並べたところで、麻薬をやめる心の推進力にはなりはしない。麻薬をやめようという決意は肉体の細胞の決意なのだ」(バロウズ「ジャンキー・P.220」思潮社)
アルトーのいう「器官なき身体」について。馬鹿げてカルチャー化されたドラッグ社会の中で世界の一部分として世界に組み込まれた人間の身体が「台無し」にならないためにはどうすればよいのか。資本主義との関わりを踏まえてドゥルーズとガタリはこう述べる。
「非分節化すること、有機体であることをやめるとは、いったいどんなことか。それがどんなに単純で、われわれが毎日していることにすぎないかをどう言い表わせばよいだろう。慎重さ、処方量(ドーズ)のテクニックといったものが必要であり、オーバードーズは危険をともなう。ハンマーでめった打ちにするような仕方ではなく、繊細にやすりをかけるような仕方で進まなくてはならない。われわれは、死の欲動とはまったく異なった自己破壊を発明する。有機体を解体することは決して自殺することではなく、まさに一つのアレンジメントを想定する連結、回路、段階と閾、通路と強度の配分、領土と、測量士の仕方で測られた脱領土化というものに向けて、身体を開くことなのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.327~328」河出文庫)
またアルトーが目指しアルトーの場合は事実上失敗したとしても「有機体であることをやめる」という行為は不可能でない。それは逆に常日頃から見慣れたありふれた光景に過ぎない。
「われわれはしだいに、器官なき身体は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。器官なき身体は器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。《身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要とはしない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ》。器官なき身体は器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない『真の器官』と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。《神の裁き》、神の裁きの体系、神学的体系はまさに有機体、あるいは有機体と呼ばれる器官の組織を作り出す<者>の仕事なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.325」河出文庫)
にもかかわらず人間は特定の欲望、とりわけ性欲にまみれてばかりいると告白させようとするのは一体誰なのか。欧米ではキリスト者がそれに当たる。だから告白がシステムとして組織化されて実行されるとき、その光景は余りにも荒唐無稽に見えてくるのだ。
「ところで、キリスト教の改悛・告解から今日に至るまで、性は告白の特権的な題材であった。それは、人が隠すもの、と言われている。ところが、もし万が一、それが反対に、全く特別な仕方で人が告白するものであったとしたら?それを隠さねばならぬという義務が、ひょっとして、それを告白しなければならぬという義務のもう一つの様相だとしたなら?(告白がより重大であり、より厳密な儀式を要求し、より決定的な効果を約束するものとなればなるほど、いよいよ巧妙に、より細心の注意を払って、それを秘密にしておくことになる。)もし性が、我々の社会においては、今やすでに幾世紀にもわたって、告白の完璧な支配体制のもとに置かれているものであるとしたなら?すでに述べた性の言説化と、多様な性的異形性の分散と強化とは、恐らく同じ一つの装置=仕組みの二つの部品なのである。それらは、人々に性的な異形性のーーーそれがどれほど極端なものであってもーーー真実なる言表を強要する告白という中心的な要素のお蔭でこの装置のなかに有機的に連結されているのである。ギリシャにおいて、真理と性とが結ばれていたのは、教育という形で、貴重な知を身体(からだ)から身体(からだ)へと伝承することによってであった。性は知識の伝授を支える役割を果たしていたのである。我々にとっては、真理と性とが結ばれているのは、告白においてであり、個人の秘密の義務的かつ徹底的な表現によってである。しかし今度は、真理の方が、性と性の発現とを支える役を果たしている」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.79~80」新潮社)
宗教的告白というシステムは、そもそもありもしないものを人間の精神の内部にいきなり出現させる、極めて政治-技術的トリックなのである。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「クラスの仲間たちが彼らの遊びから彼を除け者にしたのは、彼を王子にしていたスレート葺きの家のせいだった」(ジュネ「花のノートルダム・P.243」河出文庫)
村では唯一の富裕層に属していたキュラフロワ。母エルネスティーヌが願う上品さを愛する趣味で小学校への通学にはいつも黒い帽子、黒い上着、黒いズボン、黒い靴といった服装を見にまとうことで逆に他の乱暴な生徒たちから排除されるいじめられっ子だった。なかでも村で一軒しかない濠に囲まれた「スレート葺きの家」はキュラフロワの屋敷を他の少年たちから拒絶される根拠として作用していた。ところがその同じ環境が同時にキュラフロワに対する他の少年たちの畏怖と羨望とを限りなく欲望させる憧れとして作用したことも事実である。以前述べたようにキュラフロワの少年時代はいつもそのような排除されつつ畏怖されるというダブルバインド(板ばさみ)に置かれていた。一人の少年にとって果てしない苦痛でしかないダブルバインドがキュラフロワを想像力の怪物へ変えたのは不思議でも何でもない。
なお注意しておきたいのだが、キュラフロワの家が「スレート葺き」であり他の少年たちから排除対象となったことは少なくとももう二点、村の経済的格差と政治的格差構造の問題があったことを証明しているという事情である。一つに「スレート葺き」でない家が圧倒的に多いこと。これらが中間層を形成する。二つ目に「スレート葺き」でない家よりなお一層粗末な家々があったという事情である。よって差し当たり市民社会としてのフランスの村はどこへ行っても三階層を成していたことが頭の中にいつも表象されていなくてはならない。
「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.130~131」国民文庫)
さらに。
「ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表わすのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品はーーー貨幣になるのである(「彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権力とを獣に与える。この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」『ヨハネの黙示録』)」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・・P.159」国民文庫)
そしてまた、村とはいえ第一次世界大戦は終了し、市民社会が形成されている以上、その構成員はすべて「社会化」されていなくてはならないし、社会化されている。労働環境が全体化されていない限り第一次世界大戦という「総力戦」が不可能だったように。社会化された人間の総体が三階層を成しているのであり、個々の村々はフランス国家をひな形とする小さな共同体として捉える必要がある。「社会化された人間」とは何か。
「じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。というのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第四十八章・P.339」国民文庫)
さて、キュラフロワが経験しているのは閉鎖的だが相部屋という中間的な環境である。誰もが非行少年だという以外に何らの共通点も持たない少年たちによる「夜陰的」環境。そこではキュラフロワだけが排除され特権化されるということは決してない。
「だが、ここでは他のガキどもから見て、彼はもはや彼らと同じように拾われた浮浪児にすぎず、重大なことではあるが、少し遠方からやって来たという以外に変わったところのない非行少年にすぎなかった」(ジュネ「花のノートルダム・P.243」河出文庫)
ジュネはそこでの「夜の様子」について触れていく。ジュネの実体験に基づくことは言うまでもない。しかし大事なことは、少年たちは、そこでのみ加工されることができるように加工される、というまたとない機会を持つことだ。
「以下が刑余更生院ーーーまたは教化院(コロニー)ーーーの夜の様子である」(ジュネ「花のノートルダム・P.244」河出文庫)
相部屋の夜の静寂。それは「悪臭や、石の怪物でいっぱいのジャングルの静寂」だ。不良少年たちの身振り仕ぐさは子どもの動きに顕著な野獣的本来性を取り戻す。「蛇の頭のように用心深く、聡明でもあり、狡猾で、毒気を含んで危険ないくつもの頭が起き上がり、それからフックがかすかな音を立てることもなく、からだ全体がハンモックから出てくる」というふうに。
「共同寝室の固定されたハンモックのなかで、いくつもの頭が毛布の下に消える。班長は自分の小部屋を手に入れたが、それは共同寝室のはずれにある。静寂が半時間のあいだ幅をきかすが、悪臭や、石の怪物でいっぱいのジャングルの静寂であり、まるで虎の押し殺された溜息に注意して耳を傾けているみたいだ。儀式にしたがって、死者たちの間から、少年たちが蘇る。蛇の頭のように用心深く、聡明でもあり、狡猾で、毒気を含んで危険ないくつもの頭が起き上がり、それからフックがかすかな音を立てることもなく、からだ全体がハンモックから出てくる。共同寝室のーーー上から見たーーー全体的な様子に変化はない」(ジュネ「花のノートルダム・P.244~245」河出文庫)
処罰機関の内部は窮屈なものだ。しかし犯罪者にとっては、少年という小さな犯罪者にとってもなお、いつもふらふらしているばかりで居心地が不安定な「都会生活」における「宙吊り」状態から解放された自由を得ている点では、逆に「都会生活」というものがどれほど監視と管理に満ちた監獄社会であるかよく知っているのである。
「すべては裏側で行われる。すぐに、這って進みながら、仲間たちが集まった。宙吊りの都会生活は見捨てられている」(ジュネ「花のノートルダム・P.245」河出文庫)
ーーーーー
さて、アルトー。タラウマラ族によるペヨトルを用いた儀式について、とりわけペヨトルの取り扱い方についてアルトーは述べる。メキシコの原住民学校の校長との対話の中で述べる。
「『あらゆる人間的なものと同じことがペヨトルについても言える。その用い方をわきまえるならば、つまり望ましい服用量を望ましい範囲で用いるなら、それはすばらしい魅惑的、錬金術的原理となる。そしてとりわけ不適切に、みだりにそれを用いないこと』」(アルトー『タラウマラ・P.24』河出文庫)
二〇二〇年の日本と比較する。どの薬局へ行ってどのような治療薬を処方してもらうにしても注意事項として言われることと違わない。とはいえ、現代社会ゆえにどんな治療薬が処方されたとしても、服用すれば「すばらしい魅惑的、錬金術的原理となる」と言う医師/薬剤師はもちろんいないが。
「『シグリを飲むことは、まさに服用量を超えないことである。なぜならシグリは<無限>であり、癒しの臨床的作用の神秘は、われわれの有機体がどのような比率でそれを用いるかにかかっているからである。必要量を超えることは作用を《台無しにする》』」(アルトー『タラウマラ・P.25』河出文庫)
要処方箋薬でなく逆に市販薬の中に、かつてより遥かに強力な作用をもたらす薬剤が一般に販売されるようになってきたのは周知の通り。そのため日本では要処方箋薬でなく市販薬依存症者が続出する事態が生じてきたことはここ数年で急速に議論される傾向にある。たとえば、どこにでもある薬局でカフェインの錠剤を買う。次にコンビニでアルコール飲料を買う。帰宅しようがしまいが両者をミックスして一気飲みする。しばらくすると奇妙な万能感や多幸感で全身に力が漲ってくる。こうして若年層のあいだに薬物依存と睡眠薬遊びが蔓延していく。総合感冒薬もまた依存性が高い。リラックス目的で常用に至ることはよく見かける光景の一つだ。それにしても覚醒剤(アンフェタミン、メタンフェタミン)を静脈注射してしまうともう社会復帰は極めて困難になる。効果は桁違いであり、たとえ解毒したとしてもそれ以後の生活は無気力無関心の連続であり、もはや生きていても仕方がないような気分が死ぬまで続くケースがほとんどである。また立場上、もっと様々な症例を知っているが、薬物乱用の過程で殺人あるいは傷害致死を犯してしまっているケースがしばしばある。大抵は交通事故。悪循環がさらなる悪循環を招き込む無限ループに入ってしまう。悲惨な話なら幾らでもある。借金地獄などありふれた光景だ。ところが本当に悲惨なのは苦労に苦労が重なるということではない。どれほど悲惨なエピソードを聞かされても脅かされてもドラッグを止める直接的きっかけにはならない。ドラッグから脱出する方法は自分の身体が或る種の叫びを上げるということであり、身体自身の側から逆にドラッグを拒絶する反応が出てきて始めて可能になるということである。たとえば日本の場合、食事の際にご飯を食べる。しかしご飯を食べようとしても身体の側からご飯を受け付けなくなるという状態におちいることである。ドラッグではドラッグを服用しようとしてももはやからだが受け付けなくなるところまで行くということである。そうなって始めて自分はいま何もの《である》かを知ることができる。バロウズはそれを「細胞の決意」といっている。
「麻薬をやめるということは、一つの生き方を放棄することだ。おれは何人ものジャンキーが麻薬をやめて酒に溺れ、二、三年のうちに死んでしまうのを見てきた。元ジャンキーのなかには自殺する者がしばしば出てくる。なぜジャンキーは自分から進んで麻薬をやめるのだろうか?この疑問に対する解答はだれにもわからない。麻薬がもたらす損失や恐怖をいくら並べたところで、麻薬をやめる心の推進力にはなりはしない。麻薬をやめようという決意は肉体の細胞の決意なのだ」(バロウズ「ジャンキー・P.220」思潮社)
アルトーのいう「器官なき身体」について。馬鹿げてカルチャー化されたドラッグ社会の中で世界の一部分として世界に組み込まれた人間の身体が「台無し」にならないためにはどうすればよいのか。資本主義との関わりを踏まえてドゥルーズとガタリはこう述べる。
「非分節化すること、有機体であることをやめるとは、いったいどんなことか。それがどんなに単純で、われわれが毎日していることにすぎないかをどう言い表わせばよいだろう。慎重さ、処方量(ドーズ)のテクニックといったものが必要であり、オーバードーズは危険をともなう。ハンマーでめった打ちにするような仕方ではなく、繊細にやすりをかけるような仕方で進まなくてはならない。われわれは、死の欲動とはまったく異なった自己破壊を発明する。有機体を解体することは決して自殺することではなく、まさに一つのアレンジメントを想定する連結、回路、段階と閾、通路と強度の配分、領土と、測量士の仕方で測られた脱領土化というものに向けて、身体を開くことなのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.327~328」河出文庫)
またアルトーが目指しアルトーの場合は事実上失敗したとしても「有機体であることをやめる」という行為は不可能でない。それは逆に常日頃から見慣れたありふれた光景に過ぎない。
「われわれはしだいに、器官なき身体は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。器官なき身体は器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。《身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要とはしない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ》。器官なき身体は器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない『真の器官』と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。《神の裁き》、神の裁きの体系、神学的体系はまさに有機体、あるいは有機体と呼ばれる器官の組織を作り出す<者>の仕事なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.325」河出文庫)
にもかかわらず人間は特定の欲望、とりわけ性欲にまみれてばかりいると告白させようとするのは一体誰なのか。欧米ではキリスト者がそれに当たる。だから告白がシステムとして組織化されて実行されるとき、その光景は余りにも荒唐無稽に見えてくるのだ。
「ところで、キリスト教の改悛・告解から今日に至るまで、性は告白の特権的な題材であった。それは、人が隠すもの、と言われている。ところが、もし万が一、それが反対に、全く特別な仕方で人が告白するものであったとしたら?それを隠さねばならぬという義務が、ひょっとして、それを告白しなければならぬという義務のもう一つの様相だとしたなら?(告白がより重大であり、より厳密な儀式を要求し、より決定的な効果を約束するものとなればなるほど、いよいよ巧妙に、より細心の注意を払って、それを秘密にしておくことになる。)もし性が、我々の社会においては、今やすでに幾世紀にもわたって、告白の完璧な支配体制のもとに置かれているものであるとしたなら?すでに述べた性の言説化と、多様な性的異形性の分散と強化とは、恐らく同じ一つの装置=仕組みの二つの部品なのである。それらは、人々に性的な異形性のーーーそれがどれほど極端なものであってもーーー真実なる言表を強要する告白という中心的な要素のお蔭でこの装置のなかに有機的に連結されているのである。ギリシャにおいて、真理と性とが結ばれていたのは、教育という形で、貴重な知を身体(からだ)から身体(からだ)へと伝承することによってであった。性は知識の伝授を支える役割を果たしていたのである。我々にとっては、真理と性とが結ばれているのは、告白においてであり、個人の秘密の義務的かつ徹底的な表現によってである。しかし今度は、真理の方が、性と性の発現とを支える役を果たしている」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.79~80」新潮社)
宗教的告白というシステムは、そもそもありもしないものを人間の精神の内部にいきなり出現させる、極めて政治-技術的トリックなのである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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