白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー148

2020年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュネとミニョンとの思考法が違ってくるのはどこからなのか。方法は大変似ている。けれどもジュネは等身大の自分自身を「甘受している」と述べる。だから襤褸(ぼろ)切れであることは間違いない。この「間違いなさ」がまさにジュネを覚醒させる。ジュネの想像性あるいは創造性は現実に襤褸(ぼろ)切れであることを根拠とすることから始まる。ジュネはより一層徹底的にぼろぼろになることができる。さらにジュネにとって襤褸(ぼろ)切れであることそれ自身がすでに上昇である。世間一般から見て下降に見えている以上、ほとんどごみ箱として路上にうずくまっていること自体、世間から否定され世間を否定したことをせっせと肯定するジュネ的価値観にとってそれは汚辱にまみれればまみれるほどそのぶん上昇として身体をますます燦然と着飾ってくれる諸要素として殺到する。ジュネはそういう事情を「一種の縮図のうちに、そう言ってよければ凝縮」するとともに活用する。

「だがまさしく夢に見た輝かしい運命への私の渇望が、私が生きてきた人生の、悲劇的で、緋色の要素を、濃密で、堅固で、極端に燦然たる一種の縮図のうちに、そう言ってよければ凝縮した」(ジュネ「花のノートルダム・P.308」河出文庫)

ジュネのいう「凝縮」という言葉はただちにフロイトのいう「圧縮、転移」の法則を想起させずにはおかない。そしてこの「圧縮、転移」は夢の作業としてだけ起こるわけではない。フロイトが「夢分析」の中で述べたのは、特に夢において「圧縮、転移」という作業は明確に確認されるという意味でとりあえず「夢分析」とタイトルした一冊の中でまとめて発表したというに過ぎない。というのも、眠っていないときに作業は中止されているだろうかと問うことはいつでも可能だからである。フロイト自身、夢の作業が日中には中止されているなどどまったく考えていない。さらにラカンはフロイト理論の研究対象を神経症から統合失調症へ重心を移動させつつ、眼差を代表とする「対象『a』」の機能についてこう述べる。

「欲動がそこで機能するかぎりでの視るという水準には、他のすべての次元において認められるのと同じ対象『a』の機能が見られます。対象『a』とは、主体が自らを構成するために手放した器官としてのなにものかです」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.136」岩波書店)

主体の出現は或る器官の放棄あるいは切断と同時に始まる。放棄あるいは切断されるやいなや「対象『a』」として出現する欲望とは何か。

「新生児にならんとしている胎児を包む卵の膜が破れるごとに何かがそこから飛び散るとちょっと想像してみてください。卵の場合も人間、つまりオムレット、薄片の場合も、これを想像することはできます。薄片、それは何か特別に薄いもので、アメーバのように移動します。ただアメーバよりはもう少し複雑です。しかしそれはどこにでも入っていきます。そしてそれは性的な生物がその性において失ってしまったものと関係があるなにものかです。それがなぜかは後ですぐにお話ししましょう。それはアメーバが性的な生物に比べてそうであるように不死のものです。なぜなら、それはどんな分裂においても生き残り、いかなる分裂増殖的な出来事があっても存続するからです。そしてそれは走りまわります。ところでこれは危険がないものではありません。あなたが静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うと考えてごらんなさい。こんな性質を持ったものと、我われがどうしたら戦わないですむのかよく解りませんが、もし戦うようなことになったら、それはおそらく尋常な戦いではないでしょう。この薄片、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーーー、それはリビドーです。これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押え込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。それは、ある生物が有性生殖のサイクルにしたがっているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象『a』について挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。対象『a』はこれの代理、これに姿を与えるものにすぎません。乳房はーーー対象か自分かが曖昧なものとして、哺乳動物に特徴的なもの、たとえば胎盤と同じようにーーー個体がその誕生の時点で失った彼自身の一部、もっとも古い失われた対象を象徴することができるものを表しています。そしてその他の対象についても同じことが言えます」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.263~264」岩波書店)

失われたことによって始まるのが「主体」である。そして主体はこのようにして失われた器官をどのような欲望-対象へ変換させているのだろうか。

「私が主体の分割あるいは疎外の機能と呼んでいるものをもっとも確かな形で打ち立ててくれるのは、欲動の再認です。では欲動は、どのようにして再認されたのでしょうか。それはこういうことからです。すなわち、主体の無意識において生起している弁証法は、何も快感の領野に、つまりめでたく、やさしく、好ましいイメージに準拠しているとはかぎらないということからです。それどころか、結局は何の役にも立たないようなものが立派に対象になっているということが見出されたではありませんか。これらの対象は対象『a』、つまり乳房、糞、眼差し、そして声です」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.327」岩波書店)

ラカンは差し当たり「乳房、糞、眼差し、そして声」の四個を上げている。しかし本当に四個だけだろうか。フロイトはフェティシストについてこう言っている。

「呪物崇拝者(フェティシスト)は、後々の生活においても、まだ他の点で性器代理物が非常に役立っていると考えている。呪物は、その意味を他人から知られることはなく、したがってまた拒否されることもない、それは容易に意のままになるし、それに結びついた性的満足は快適である。他の男たちが得ようとしているものや、苦労して手に入れねばならぬものなどは、呪物崇拝者にとってはぜんぜん気にならない」(フロイト「呪物崇拝」『フロイト著作集5・P.393』人文書院)

ただし「性器代理物」とあるのはラカンにしたがって「出生と同時に断ち切られたすべての器官、とりわけ胎盤」へと置き換えられなければならない。問題は「対象『a』」が何度も繰り返し反復可能だからこそ選ばれたということ、またこの意味での反復は「《再発見》し、その都度確認する」ことが目的化されているということである。そしてそれはもはや「ぜんぜん気にならない」ものとなった欲望-対象と化しており、そこら辺のどこにでもごろごろ転がっている「どうでもいいもの」でもある。肝心なことは何度も繰り返し反復可能なことであり、それは「客体」としては「外部に存在する必要がなくなる」ということだろう。

「主観的なものと客観的なものの対立は最初からあるわけではない。それは思考が、一度知覚されたものを再生によって表象界にふたたび登場させる能力を得、一方客体がもはや外部に存在する必要がなくなるということによって始めて生ずるのである。したがって現実吟味の目的は一にも二にも、表象されているものに照応する一つの客体を、現実的知覚の中に見出すということではなくて、それを《再発見》し、それがまだ存在していることを確認するということなのである」(フロイト「否定」『フロイト著作集3・P.360』人文書院)

だからおそらく、ラカンのいう「対象『a』」は差し当たり四個に絞り込まれているだけであって、個々人のレベルで言えば年齢性別国籍宗教に関係なく、もっと大量の「対象『a』」を見出すに違いないし実際に見出されている。言うまでもなくフェチの系列は無限である。マルクスのいう無限に延長される諸商品の系列のように。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

ただ、フェチというものは常に固定的であるとは限らない。しばしば頻繁に移動する。異性愛者の男性の場合、目の前の座席に座っている或る女性の服装がフェチ化することがある。しかしその女性が立ち去り別の女性が目の前の座席に座ったとしよう。すると今度はたちどころにこの別の女性の服装が新しいフェチとして取って代わることがある。実に頻繁にある。ほとんどいつもそうだといっていいほどある。その点ではなるほどマルクスを引用することはできる。だが絶対的なフェチとして不動の欲望-対象の地位を勝ち取ったフェチもある。それは或る特定の女性が特定の時期に限り身に付けていた服装をともなう身振り仕ぐさのモンタージュ(奇妙な合成物)というべきものだ。現代経済学ではただ単純にそれは貨幣〔信用〕にほかならないと言って済ますことも可能だろう。しかしフェチの全系列はどこまでも拡張され得る。資本主義が拡張するからである。だから一文無しになって死ぬことも辞さないという人間が美学の領域でときどき見出されるのは特別不思議な現象ではない。ナチスドイツを見れば顕著なように「政治の美学化」によって貨幣よりも死を欲するという転倒が国家的規模で出現した。避けられない「各自固有の死」(ハイデガー「存在と時間・第四十六節〜第五十三節」参照)から逆に考えて人間の進路を決定するという死のリレーを現実化させ加速化させた。自殺的国家の特徴。

「奇妙なことに、自分たちが何をもたらすのか、ナチスは最初からドイツ国民に告げていた。祝宴と死をもたらすというのだ。しかもこの死には、ナチス自身の死も、国民の死も含まれている。ナチスは、自分たちは滅びるだろうと考えていた。しかし、どのみち自分たちの企てはくりかえされ、全ヨーロッパ、全世界、全惑星におよぶだろうとも考えていた。人々は歓呼の声をあげた。理解できなかったからではなく、他人の死をともなうこの死を欲していたからである。これは、一回ごとにすべてを疑問に付し、自分の死とひきかえに他人の死に賭ける、そしてすべてを『破壊測定器』によって計測しようとする意志である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.141~142」河出文庫)

ジュネ的方法がミニョン的方法と決定的に違ってくるのは逆に「軽やかな」《変身》を欲する点においてである。しばしばディヴィーヌに《なる》。それは身振り仕ぐさを通して行われる。ジュネはディヴィーヌの中に入る。そしてディヴィーヌの内面を極度の混乱状態に置くことも間々ある。

「私にはディヴィーヌの複雑な顔をもつことがあって、それはまず第一にそして同時に時には、彼女自身であり、顔の特徴とその身振りにおいてあまりにも現実的なお気に入りの想像上の存在たちなのだが、その厳密な親密さのうちに彼女はその存在たちとのいざこざを引き起こし、そのいざこざは彼女を苦しめたり奮い立たせたりするが、彼女を休息させてはくれず、指の皺や震えのかすかなこわばりのせいで複雑な存在のあの不安な様子を彼女に与えているのである、なぜなら彼女は無言のまま墓のように閉ざされ、墓のように胸の悪くなるようなもので満たされているからだ」(ジュネ「花のノートルダム・P.308」河出文庫)

ディヴィーヌはなぜ「墓のように閉ざされ、墓のように胸の悪くなるようなもので満たされている」のか。ジュネの精神がディヴィーヌの精神を想像し創造しているからである。ジュネとディヴィーヌとはしょっちゅう入れ換わる。いつでも交換可能なのだ。ジュネの精神はディヴィーヌ(彼女)がまだキュラフロワ(彼)だった頃から、常にキリスト教とその全装置とともに、そこから否定され、そこを否定した、汚穢まみれの否定者として、否定者を肯定する運動状態にあるからである。また「墓」についてだが、大事なのはアナロジー(類似、類推)であって、世間一般でもそうであるように、実物の墓であればそれでよいというわけには簡単にはならない。かといって何でも構わないというわけにもいかない。事情はそれほど単純でない。「葬儀」で披露された「マッチ箱と棺桶」とのただならぬ関係を思い起こそう。

「ポケットのなかに私は彼の柩を持ち歩いていた。その棺桶の雛型は真物(ほんもの)である必要はなかった。厳粛な葬いの柩がそのちっぽけな品物の上に威力をおしつけていた。ポケットの中の、私の手が愛撫するその小箱の上で、私は葬儀の雛型を執り行なっていた。それは奥まった礼拝堂の祭壇の向こうで、黒布をかぶせた偽物の柩と相対して、死者たちの霊魂のために唱えられる彌撒(ミサ)にもひけをとらず有効で、道理にかなったものだった。私の小箱は神聖だった。それはジャンの肉体の一きれすら納めているわけではないのだが、ジャンの全体を納めていた」(ジュネ「葬儀・P.34」河出文庫)

重要なのは目に見えないが誰もが心得ている「社会的文法」なのだ。
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さて、アルトー。前回ニーチェから引用したように古代の諸民族はどれも自分の頭上に《のみ》神を持つ。その意味で極めて排他的である。排他的なのは常に他者が周囲のどこかから不意に襲撃してくるような恐怖を感じているからである。アルトーは最初、タラウマラ族が「裏に<神話>を隠している」と疑っていた。そうではない。

「原理-種族といっても、今日ではもはや誰もそれが何であるか知らないし、タラウマラ族に出会っていなかったら、このような表現は、その裏に<神話>を隠していると私も思うところだった」(アルトー『タラウマラ・P.103』河出文庫)

ニーチェは「自分の頭上に《のみ》神を持つ」と述べている。「裏側」には何もないというのである。仮面しかないと。ところでタラウマラは「神」という言葉を持たない。「神」という言葉はないが「人間」を表す語彙はある。だからといってタラウマラ族は自分で自分自身のことを神だと思っているわけではない。彼らの土地では自然と人間とは切り離されて存在するものではまったくない。一体化している。だから「頭上の神」はただちに「タラウマラ山脈」を意味した。

「しかしタラウマラ山脈においては、<古代の壮大な神話>の多くが、再び現実のものになっている」(アルトー『タラウマラ・P.103』河出文庫)

《この地上》の人間。実在する土地としては、その名を「西シエラマドレ山脈」というけれども、逆に《この地上》というとき、ニーチェのいうように「地上に生きる」ことは幸福の追求では《ない》。それは《事業》である。

「いったいわたしはわたしの《幸福》を追求しているのか。否、わたしの追求しているのは、わたしの《事業》だ(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第四部・徴(しるし)・P.532」中公文庫)

タラウマラへの旅というアルトーの実験は《事業》として「タラウマラ山脈」という人間に《なる》ことであり、ペヨトルという植物の知恵に《なる》ことであり、出現するトランス状態とともに流動する微粒子と化して限りない宇宙に身を開くことなのだった。
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なお、新型ウイルス問題についてさらに。ウイルスは常に両義的だ。どんな劇薬であってもパルマコン(医薬/毒薬)であり得る。それは一方で殺し、もう一方で知恵を与える。日本政府のように金をばらまくことで事態をさらに曖昧にするのでなく、ただ単純に《無償で》知恵を与える。問題視されていることがある。いつものことだが病者とその所属あるいは帰属に対する社会的差別である。日本ではどさくさ紛れに身体障害者である国会議員に対して健常者である国会議員から金銭的賠償が提案される始末である。偽善的マスコミはしきりに「不寛容」という言葉を濫用している。しかし「不寛容」とはどういう態度をいうのだろうか。フロイトは述べている。

「集団の不寛容というものは、奇妙なことに、根本的な差異に対するよりは小さな区別に対して強く発揮される」(フロイト「人間モーセと一神教」『フロイト著作集11・P.341』人文書院)

日本では明治維新前後、武士階級は「攘夷」のスローガンを大っぴらに掲げながらも、実のところ圧倒的「他者」としか思われない外国人に向けてではなく、逆に同一階級に向けて血で血を洗う大量虐殺を繰り返した。引いておこう。

「江戸期を通じて武士階級にはつねに薄氷感があり、去勢感情とその否認が存在したとみてよいであろう。その証拠の一つは、黒船襲来後の尊攘運動である。地獄の釜が開いたごとき殺し合いは、西南戦争(一八七八年)まで四半世紀にわたって続いた。この間、殺害された外国人は数えるほど少数である。否認された去勢感情の反動としての奇妙な特徴として、階級の自己破壊ともいうべく、主目標は自己階級内部に指向された」(中井久夫「分裂病と人類・P.77」東京大学出版会)

日本の国会の中は今なおそのような空気が充満しているのであろうか。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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