白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

延長される民主主義5

2020年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム
そう簡単に阿片が手に入らなくなるとそれまでは第二、第三の選択肢だったマリファナが俄然注目を浴びるようになったのは自然の経過だった。阿片抽出物(モルヒネ、ヘロイン、コデイン)の場合よりも気分を爽快にし、阿片抽出物(モルヒネ、ヘロイン、コデイン)の場合よりも実にしばしばアッパー系効果あるいは意識変容効果を長時間維持できるからである。今のような資本主義の世界化ならびに世界的流通網出現にともなう多彩な合成麻薬の同時多発的出現以前の状況についてはそのように単純化して述べることができる。なお、かつてコクトーは阿片について、アルトーが植物(ペヨトル)として語ること、植物(ペヨトル)に《なる》とはどういうことかを述べたように、植物としての阿片に《なる》とはどういうことかを次のように語っている。二箇所見てみよう。どちらも「別種なスピード」について述べられている。ニーチェ流にいえば「別様の感じ方」について語っている。第一はアルトーが言っていることと変わらない。

「阿片は、僕等に植物の生活を感知させる唯一の植物質だ。阿片によって、僕等は、草木のあの別種なスピードを、おぼろげながら知ることが出来る」(コクトー「阿片・P.100」角川文庫)

第二は精神と身体との解離について。

「普通人。ーーーのらりくらりしている阿片喫煙者(あへんのみ)よ、何故そんな生活をしているのか。一層(いっそ)窓から身を投げて、死んだ方が増しではないか。

阿片喫煙者。ーーー駄目、僕は浮くから。

普通人。ーーーいきなり君の身体(からだ)は地べたへ落ちるから大丈夫死ねるよ。

阿片喫煙者。ーーー身体のあとから、ゆっくり僕は地べたへ行く筈だ」(コクトー「阿片・P.102」角川文庫)

しかし問題は、精神と身体との解離ではない。コクトーの文章が二項対立という対話形式を採用していることにある。一方に「阿片喫煙者」を置いており、他方に「普通人」を置いている。「阿片喫煙者」と書くのは正しい。だからといって、もう一方に「普通人」と書いてしまうやいなや「普通人とは何か」という問いがいきなり出現する。「非-阿片喫煙者」あるいは「非-阿片喫煙状態」なら対立する両項として述べることに問題はないものの「普通人」と言ってしまうとそれは必ずしも対立する両項でないにもかかわらず、あたかも対立する両項として述べることができるかのような錯覚が生じる。しかし読者はその記述について錯覚であるとは気づかないまま違和感を感じることなく読んでしまう。「普通人とは何か」という前提の検証がなされていないという致命的状況を前提にするという殺人的誤解が犯されているにもかかわらず何らの間違いもないと思い込まれたまま読み流し飲み込んで了解してしまう。「普通人」とは何か。たとえばゴッホは「普通人」なのかそれとも精神病者なのか。タラウマラ族の儀式を経験し、ペヨトルのダンスと化し、植物(ペヨトル)としての身振り仕ぐさを通過したアルトーは、ヴァン・ゴッホについて次のように述べることができる。

「どれほどこの主張が気違いじみたものに見え得るとしても、こんな風に淫蕩、無政府状態、無秩序、妄想、乱脈、慢性の狂気、ブルジョワ的無気力、精神異常(というのも一個の異常者になったのは人間ではなく世界の方であるからだ)、意図的な不誠実ととてつもない偽善、すぐれた素性を示す一切のものに対する卑しい軽蔑、まるまるすべてが原初の不正の遂行に基づいたひとつの秩序の要求、最後に、組織化された犯罪、等々からなるその古色蒼然たる雰囲気のなかで、現在の生は維持されている」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.110~111』河出文庫)

ゴッホの絵画は何も言わないがそれを見る側の《人間について》次の事情を単刀直入に伝達する。「一個の異常者になったのは人間ではなく世界の方である」と。「病んだ意識」と名指された社会の側はこう考えた。

「そいつは都合が悪い、なぜなら病んだ意識は、いまこのとき自分の病気から抜け出さない方がはるかに得だからである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.111』河出文庫)

だから社会の側はゴッホの絵画を次々と買い取り美術館の中へ閉じ込めてしまうことにした。ゴッホの絵画はその純粋性を奪われ、利潤を生んで資本へ還流する商品へと変換されてしまった。しかしこの操作は常に両義性を孕むことになる。商品として世界中を駆け巡ることでゴッホの絵画は一方で絵画という物でありながら、同時に他方で「一個の異常者になったのは人間ではなく世界の方である」と伝達することをやめられなくなったからである。あえて「伝達」と述べたのは次のことを踏まえてそう述べた。

「《機械時代の諸前提》。ーーー新聞や出版、機械、鉄道、電信は、それが千年先にもたらす結論をまだ誰ひとりあえて引き出そうとしたことのない諸前提(プレミス)である」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・漂泊者とその影・二七八・P.465」ちくま学芸文庫)

まだ想定すら不可能な「千年先にもたらす結論」について差し当たりこれ以上踏み込んで語ることはできない。さらに同じ条件下の現時点で言えることは新型ウイルス問題についても当てはまる。日本では病院も保健所も検査体制が整わないまま、整えていなかったがゆえに、検査自体が事実上凍結されているというに等しい。感染者数の増大がほぼ見られないすべての報道は検査体制が整っていないことの十分な証明として機能している。一方、一挙に検査を進めたヨーロッパでは感染者数が飛躍的に増加した。検査を受けた人数が増加すれば感染者が増えていたことも同時に判明するのは当然の成り行きだ。ところが日本ではなぜか検査自体がほぼ凍結されたような状況であるため増えているのか減っているのか定かにできない。わからないとしか言えない。しかしこの奇妙な混乱の中で東京五輪だけは着々と推し進められている。不可解に思える。水際阻止に失敗したと発表したにもかかわらずなぜ東京五輪だけは安全だといえるのか。さらに原発検査体制も不十分なまま着々と稼働している。しかし同時に沖縄基地問題や北方領土問題や拉致問題は逆であって、さらなる闇の奥へ押し込まれ窒息させられようとしている。封じ込めるものと封じ込める必要性のないものとを「取り違える」可能性を帯びたまま推し進められる東京五輪。

「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.303~304」河出書房新社)

東西冷戦時代に資本主義が学んだ「常に種々の公理を付け加える用意」に関し、少なくとも日本はこの「用意」を怠ってきた。怠ってきたがゆえに検査体制は整わない。整わないので事実上凍結されたに等しい。だから少しづつ感染者数を発表していくほかない。この《あいだ》。事実上の凍結期間の《あいだ》に東京五輪は開催されようとしている。場所移動の《あいだ》に発生する価値〔意味〕の変化は時間的移動の《あいだ》に発生する価値〔意味〕の変化を伴う。場所移動自体が価値増殖装置として準備される。

「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてからはじめて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じに、その有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。この有用労働は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されれば、その価値は消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.98~99」国民文庫)

東京五輪と公理系(とりわけ社会的福祉部門)再構築とは今回、時間的に重なっている。同時進行する。どういうことか。

「資本は全体としては同じときに空間的に相並んで別々の段階にあるわけである。しかし、各部分は絶えず順々にすべての段階、すべての機能形態で機能して行く。すなわち、これらの形態は流動的な形態であって、それらの同時性はそれらの継起によって媒介されているのである。どの形態も他の形態のあとに続き、また他の形態に先行するのであって、ある一つの資本部分が一つの形態に帰ることは、別の資本部分が別の形態に帰ることを条件としている。どの部分も絶えずそれ自身の循環を描いているのであるが、この形態にあるのはいつでも資本の別々の一部分であって、これらの特殊な循環はただ総過程の同時的で継起的な緒契機をなしているだけである」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第四章・P.177~178」国民文庫)

資本主義は時間的な形態を空間的な形態へ置き換えることができる。日本では東京五輪が新型ウイルス問題の実態を覆い隠し、東京五輪修了と同時に新型ウイルス報道がさらに「沖縄基地問題」、「原発問題」、「北方領土問題」、「拉致問題」、「老後資金二〇〇〇万円問題」、「8050問題」、「定年延長問題」、またただ単なる「寿命」ではなく「健康寿命」が平均して二倍に増大したわけではまったくないにもかかわらずイギリスのごろつきに等しい女性経済学者が言い出した「人生百年時代」等々を覆い隠すことになるのだろう。少なくともそう考えておくのはけっして無駄ではない。一方で市民社会の側があらかじめ準備しておくのは政府の思い通りに事態の進行を促進することになるわけだが、他方、政府が蓄積している持ちこたられない諸問題を一気に押し付けられて市民社会の側が絶滅することをあらかじめ阻止することにも繋がる。「政府が蓄積している持ちこたられない諸問題」は今の日本型資本主義ではいつもと同様「破壊的に流れ落ちる」からである。

「人々は、諸激情そのものによってよりも、諸激情に関するおのれの諸意見によって、より多く苦しめられる。ーーー人間たちが、或る衝動の目的を、排便や排尿、栄養摂取等々のさいのように、〔生の〕保存のために必要だと明白にとらえない場合には、彼らは、その衝動を、たとえば、嫉妬や、憎悪や、恐怖の衝動を、余計なものとして《除去し》うると、信じている。そして厄介払いしえないことを彼らは、或る不正だと、少なくとも不幸だとみなすが、一方人々は飢えや渇きのさいにはそうは考え《ない》のだ。私たちはそうした衝動に私たちを《支配》させようとは思わないが、しかし私たちはそうした衝動を必要なものだととらえて、その力を私たちに有用なように支配しようと欲する。そのためには、私たちが、そうした衝動、水車を動かすのに利用される小川のように、その《全体的な、完全な》力のままには保存し《ない》ことが、必要である。そうした衝動のことを充分には心得ていない者の身の上には、冬季のあとで渓流が破壊的に流れ落ちてくるように、そうした衝動がどっと襲いかかるのである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・三九四・P.202」ちくま学芸文庫)

というより、あたかも日本政府の側から市民社会に向かってそう脅しているようなものだ。政財界自身ではなくその代弁者らの言語がそれらの実態をいつも覆い隠す。

「《言葉がわれわれの妨害になる!》ーーー大昔の人々がある言葉を提出する場合はいつでも、彼らはある発見をしたと信じていた。実際はどんなに違っていたことだろう!ーーー彼らはある問題に触れていた。しかしそれを《解決》してしまったと思い違いすることによって、解決の障碍物をつくり出した。ーーー現在われわれはどんな認識においても、石のように硬い不滅の言葉につまずかざるをえない。そしてその際言葉を破るよりもむしろ脚を折るであろう」(ニーチェ「曙光・四七・P.64」ちくま学芸文庫)

というふうに。けれども新型ウイルス感染者数はまったく発表されていないわけではない。日々、ほんの僅かづつ、発表される。なぜそうなのか。

「《告白》された多少の悪は、かくされた多くの悪を認めることを免除する」(バルト「神話作用・P.43」現代思潮社)

ということなのだろうか。そうでないならどういうことなのだろうか。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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