刑務所に戻ったミニョン。慣れた生活に戻っただけのことでもある。惜しいのは刑務所が古い時代の刑務所ではないことだ。ジュネの夢想する孤絶されたギュイヤーヌ(フランス領南米ギニアにあった終身刑務所)はもはやない。「壁に固定された木製の椅子」の「鎖」だけがその頃の名残だ。あるいは「固定」ということが。ミニョンは現代化された刑務所の中でかつて徒刑囚たちが置かれていた豪壮な獄中生活を「古い秩序の残滓であるこの鎖」の中に見出す。
「壁に固定されたベッド、壁に固定された棚板、鎖によって壁に固定された堅い木製の椅子ーーー刑務所が牢獄や牢屋と呼ばれ、囚人が水夫と同じように徒刑囚であった古い秩序の残滓であるこの鎖は、現代の独房をブレスト風またはツーロン風の小説じみた霧で曇らせ、それを時間のなかに後退させ、ミニョンを自分がバスティーユに投獄されているのではないかという疑いでかすかに戦慄させる(鎖は怪物じみた権力の象徴である。鉄の玉で重くなった、王の徒刑囚たちの麻痺した足は、鎖でつなぎとめられていた)」(ジュネ「花のノートルダム・P.299~300」河出文庫)
現代化にともなう雇用形態の変化もまた同様の過程をたどっている。欧米ではもっと早くに導入されたが日本では三〇年後の今になってようやく一般的になってきた。「新卒一括採用廃止」と「さまよえるフリーランス」とである。前者は日本独特の雇用形態であって必ずしも資本主義の超越論的自己目的に沿ったものとして採用された雇用形態ではない。いずれ崩壊するのは目に見えていた。実際、加速的に崩壊しつつある。後者は新自由主義が定着した一九九〇年代以降、とりわけ今の日本政府の方針に沿って急速に拡大した労働手法だが、「フリー」という名称にもかかわらず実はまったく自由でない。ジュネのいう「鎖」はまだしも目に見える鎖である。しかし「フリーランス」ほど目に見えない鎖に繋がれている職業もまたとない。第一に。
「目に見えない糸でもって人々は最もかたく束縛される」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・七九八・P.464」ちくま学芸文庫)
第二に。
「資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。したがって、それは労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは、労働者には自分の労働力を売って生きてゆくことを絶えず強要し、資本家にはそれを買って富をなすことを絶えず可能にする。資本家と労働者とを商品市場で買い手と売り手として向かい合わせるものは、もはや偶然ではない。一方の人を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げ返し、また彼自身の生産物を絶えず他方の人の購買手段に転化させるものは、過程そのものの必至の成り行きである。じっさい、労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や彼の個々の雇い主の入れ替わりや労働の市場価格の変動によって媒介されていると同時におおい隠されている」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十一章・P.127」国民文庫)
日本政府はこれら種々の現実的な不安定要素から不安定に見える課題に向き合うことを避け続けてきた。あるいは不安定な部分には極力触れずに騙しだましやって来た。一方市民社会は、いつも何らかの不安定要素に向き合っていなければ日々の暮らしにたちまち支障が出てしまうような危機的状況下に置かれているというのに。逆に政府は主にマスコミを通して「ポジティブ」と言い換えることが可能な曖昧な部分ばかりを強調しつつ、戦後七十年以上も強引に偽善的「ポジティブ路線」を推進してきた結果、今の日本独特の少子化問題が大きく横たわって動かないという事態を発生させるに至った。フリーライターの場合、二種類ある。一方はマスコミ報道の偽善性に加担することで収入を得ている。もう一方はマスコミ報道の偽善性を告発することで収入を得ている。政府が補償すると言い出した金を受け取るのも受け取らないのも自由だ。ただ、受け取った場合、今後一切「フリー」でいることは不可能になることもまた明らかである。贈与は「掟の贈与」という大変暴力的な挙措だからだ。
「贈与があるためには、贈与を忘却せねばなりませんが、しかしそれと同時にそういった忘却それ自体は保持されねばならないのです。贈与が生起するためには、それはどんな忘却であってもかまわないというわけではありません。消去されねばならぬと同時に、消去の痕跡を保持せねばならないのです。そして、こういった二重の命令は、明らかに狂気を引き起こすダブル・バインドであります。私は与えようと欲し、他者が受け取ってくれることを欲します。したがって、この贈与が生起するためには、他者は私が彼に与えるということを知っていなければなりません。そうでなければこういったことは意味をもちませんし、贈与は、生起しません。しかしながら、私が与えるということを他者が知っていたり、私のほうもまた知っているならば、贈与はこの象徴的な認知(感謝)によって廃棄されてしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。とはいえ、贈与はあらねばなりませんし、贈与はよいのです。ですから、贈与の想定それ自体、つまり贈与のこの狂気、これはダブルバインドの状況なのです。そして、あらゆる掟、あらゆる掟についての経験がこうしたタイプのものである、と私は言いたい。一つの掟、それは必ずしも悪いものではありません。われわれはもろもろの掟は必要としますし、掟を与えること、それはまた贈り物でもあります。というのも掟は第一に安心させ、不安を避けさせてくれるからです。ところが、掟の贈与は同時に悪いものでもあります。それはパルマコンであり、毒であります。贈与はどれも毒なのです。こういった観点からすると、記憶、時間ならびに歴史との関連において、贈与と掟の贈与とは、実際、何らかの類似したものである、と言うことができます。人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです。
こういったわけですから、偉大な支配者たち、ないしは偉大な女支配者たち、すなわち最も象徴的に自己固有化をおこなう人々が、最も気前のいい人々である、といった事実を前にしても、それを見て驚くなどということは少しもないのです。贈与と掟の贈与のなかに読み取るのがむずかしいのは、まさにこういったことなのです。
与えるとは、たいへんに暴力的な挙措でありうるのです。想像していただけるでしょうが、真の贈与、すなわち暴力をふるわないような、そして与えられた物やそれが与えられた相手を自己固有化しないような贈与、そういった贈与は、贈与の諸標識までも消去せねばならないでしょう。それは現われない贈与であり、したがって他者にとってのみならず、自分にとってさえも贈与の諸標識を消去するでしょう。真の贈与は、与えているということを知りさえせずに与えることのうちに、その本領をもっているのです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.110~112』法政大学出版局)
今後「フリーライター」という肩書は暴力的にその意味〔価値〕を転倒させられる。生活費維持のために政府から支給される補償金を受け取ったすべてのフリーライターはその瞬間から日本政府の「御用ライター」であるほかなくなる。それにしても「八〇五〇問題」は一体どこへ行ったのだろうか。どこへも行きはしない。市民社会の現場では新型ウイルス報道以前と変わらぬ姿で、むしろ新型ウイルス報道に隠蔽される形で日増しに深刻化しているのが現状だ。さらに高度テクノロジーの加速的採用は少子化を加速させる主要因だというのに。この逆説について日本は世界で最先端に位置している。ウイルス問題が終息すればたちまち日本の少子化問題への対応が再び注目されることはわかりきった問題だ。時々刻々と変化する高度テクノロジーの導入は或る資本が他の資本より常に有利な立場を取らなければならない性質上けっして避けられない事情である。ところがその同じ事情がさらなる核家族化ならびに少子化の温床となっているのは周知の通り。世界が注目しているのはそれに伴う政府の安定収入はどのようにして可能かという難題に、である。というのは、雇用主が変わっても他の様々な条件の相互依存体制によって賃金水準の安定性が保障されている北欧のような社会は別として、労働賃金が安定的な一定水準を保っていないところでは税収が常に不安定な状態にあるため政権維持もまた困難さを増す。格差社会はさらなる格差を生産する方向へ急傾斜していく。したがって日本を除く諸外国では毎日どこかで雇用の安定と雇用の自由を巡る対立的大規模デモが起こってくるのが通例であるにもかかわらずなぜ日本では大規模デモが起こらないのか余りにも不可解に見えるため逆に隅々までじろじろ注視されるのである。例外的に日本で大規模デモが起こらないのは「何をやっても仕方がない」という諦めの広がりによるニヒリズムが大規模化しているからに過ぎない。大規模化したのはデモではなく国家のさらなる殺人的疲弊衰退の予兆としてのニヒリズムなのだ。ニヒリズムの蔓延がどんな事態を招くかはもう何度も引用してきたわけだが。
「《機械文化への反作用》。ーーーそれ自体は最高の思索力の所産であるにもかかわらず、機械は、それを操作する人たちに対しては、ほとんど彼らの低級な、無思想な力しか活動せしめない。その際に機械は、そうでなければ眠ったままであったはずのおよそ大量の力を解放せしめる。そしてこれは確かに真実である。しかし機械は、向上や改善への、また芸術家となることへの刺戟を与えることは《しない》。機械は、《活動的》にし、また《画一的》にする、ーーーしかしこれは長いあいだには、ひとつの反作用を、つまり魂の絶望的な退屈を生む。魂は、機械を通して、変化の多い怠惰を渇望することを学ぶのである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二二〇・P.434」ちくま学芸文庫)
日本の若年層には自分たちの未来が見えてしまっている。日本の子どもたちはニーチェのいう「末人」である。すでに見切ってしまっている。このまま社会が推移して行ってもそこに出現するのはユートピアではなくいつも決まってディストピアだということを悟ってしまっている。さらにマスコミがいつもの調子で偽善的報道を繰り返せば繰り返すほどますます若年層は自分たちの未来に疑いを持ち始める。この傾向がもっと押し進められると自分たちの未来へ疑問を向けるだけでなく、エネルギーの内攻的な逆流が起こり、自分自身が生きていること自体をどんどん疑い始め、次に続く人間に未来を託してとっとと死ぬという自殺的国家が出現する。かつてのナチスドイツがそうだったし今のアメリカ社会がそれに近い。ちなみにアメリカの知識人の中でもトランプ政権を支える急進的右派(アナルコ・キャピタリスト、急進的リバタリアン)といわれる人々は資本主義が持つ自爆性を応用して第二次南北戦争の不可避性を説いて廻っている始末である。
ところで、刑務所に帰ってきたミニョンは独房の安楽に安堵を覚える。しかし彼は最も独房的なものこそ何よりの「慰め」となることを知っている。ミニョンは「独房のなかの白い陶器の便器」に限りない愛しみを感じてこうおもう。
「ヴェールをとってみるがいい。独房のなかの白い陶器の便器だけが、ほとんど乳房に近いリズムで(それは口のように鼓動を打っている)、慰めとなる息をすることを許してくれる。便器は人間的である」(ジュネ「花のノートルダム・P.300」河出文庫)
ーーーーー
さて、アルトー。タラウマラのダンスとは何か。それはペヨトルになることだ。焼肉を食べると性欲が増大するように、植物を食べるとその植物に特有の身体が出現する。
「彼らは私を地面にじかに、あの大きな梁の下に横たわらせた。そこに三人の魔術師が次々踊る合間に座るのだった」(アルトー『タラウマラ・P.77』河出文庫)
魔術師といっても何ら特別な能力を持っているわけではない。オカルト的解釈はつまらないし根拠もない。魔術師というのは今でいう「測量士」、技術者のことだ。シグリの儀式ではペヨトルの抽出物の取り扱いに習熟した薬剤師というほどの意味だ。何も超常現象を巻き起こすわけでは全然ない。そうではなく、いつも不意をついて地層化され固定化されそうになってばかりいる有機的人間の身体という「強制収容所」からの解体体験を司る技術者として、古代の儀式にならって、彼らは司祭とか魔術師と呼ばれている。アルトーがタラウマラの儀式への参加を熱望した理由の一つに、ペヨトルによってもたらされる「癒し」への希求があることを忘れてはいけない。
「地面に横たわっていたのは、私の上に儀式が降りかかり、私の上で、炎、歌、叫び、ダンス、そして夜そのものが、生命を吹き込まれた人間的な穹窿のように生き生きと回転するためである」(アルトー『タラウマラ・P.78』河出文庫)
アルトーは疲弊していた。だからわざわざメキシコくんだりまで旅してきた。ペヨトルの抽出物を食べること。食べた植物の命じるままになってみる試み。ヨーロッパ文化しか知らないアルトーにとって重要なのは欧米国家の「外部」へ出ることであり、アルトーは「外部への意志」として一つの実験なのだ。
「そこには回転する穹窿があり、叫び、抑揚、足音、歌の具体的な編成があった」(アルトー『タラウマラ・P.78』河出文庫)
歌が聴こえているとあるが、その歌は恐らくもう二度と聴くことができない経験だったに違いない。そのような音楽の到来こそ、欧米文化という進歩が疑問視され始めた時代に生きたアルトーにとって長く探し求めていた「癒し」だったのかもしれない。
ーーーーー
なお先日、トランプ大統領の消費税に関するツイートによって株式相場が大きく変動した。消費税調整は《上から》合法的になされる。ということはどういうことを意味しているか。利子は一旦決まれば今度は逆に資本の側、《社会的上層部の側から》生産現場の側へ向けて、無慈悲な暴力的圧力として作用するということにほかならない。単純なことだ。
「剰余価値率の利潤率への転化から剰余価値の利潤への転化が導き出されるべきであって、その逆ではない。そして、実際にも利潤率が歴史的な出発点になるのである。剰余価値と剰余価値率とは、相対的に、目に見えないものであって、探求されなければならない本質的なものであるが、利潤率は、したがってまた利潤としての剰余価値の形態は、現象の表面に現われているものである」(マルクス「資本論・第三部・第一篇・第二章・P.78」国民文庫)
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「壁に固定されたベッド、壁に固定された棚板、鎖によって壁に固定された堅い木製の椅子ーーー刑務所が牢獄や牢屋と呼ばれ、囚人が水夫と同じように徒刑囚であった古い秩序の残滓であるこの鎖は、現代の独房をブレスト風またはツーロン風の小説じみた霧で曇らせ、それを時間のなかに後退させ、ミニョンを自分がバスティーユに投獄されているのではないかという疑いでかすかに戦慄させる(鎖は怪物じみた権力の象徴である。鉄の玉で重くなった、王の徒刑囚たちの麻痺した足は、鎖でつなぎとめられていた)」(ジュネ「花のノートルダム・P.299~300」河出文庫)
現代化にともなう雇用形態の変化もまた同様の過程をたどっている。欧米ではもっと早くに導入されたが日本では三〇年後の今になってようやく一般的になってきた。「新卒一括採用廃止」と「さまよえるフリーランス」とである。前者は日本独特の雇用形態であって必ずしも資本主義の超越論的自己目的に沿ったものとして採用された雇用形態ではない。いずれ崩壊するのは目に見えていた。実際、加速的に崩壊しつつある。後者は新自由主義が定着した一九九〇年代以降、とりわけ今の日本政府の方針に沿って急速に拡大した労働手法だが、「フリー」という名称にもかかわらず実はまったく自由でない。ジュネのいう「鎖」はまだしも目に見える鎖である。しかし「フリーランス」ほど目に見えない鎖に繋がれている職業もまたとない。第一に。
「目に見えない糸でもって人々は最もかたく束縛される」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・七九八・P.464」ちくま学芸文庫)
第二に。
「資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。したがって、それは労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは、労働者には自分の労働力を売って生きてゆくことを絶えず強要し、資本家にはそれを買って富をなすことを絶えず可能にする。資本家と労働者とを商品市場で買い手と売り手として向かい合わせるものは、もはや偶然ではない。一方の人を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げ返し、また彼自身の生産物を絶えず他方の人の購買手段に転化させるものは、過程そのものの必至の成り行きである。じっさい、労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や彼の個々の雇い主の入れ替わりや労働の市場価格の変動によって媒介されていると同時におおい隠されている」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十一章・P.127」国民文庫)
日本政府はこれら種々の現実的な不安定要素から不安定に見える課題に向き合うことを避け続けてきた。あるいは不安定な部分には極力触れずに騙しだましやって来た。一方市民社会は、いつも何らかの不安定要素に向き合っていなければ日々の暮らしにたちまち支障が出てしまうような危機的状況下に置かれているというのに。逆に政府は主にマスコミを通して「ポジティブ」と言い換えることが可能な曖昧な部分ばかりを強調しつつ、戦後七十年以上も強引に偽善的「ポジティブ路線」を推進してきた結果、今の日本独特の少子化問題が大きく横たわって動かないという事態を発生させるに至った。フリーライターの場合、二種類ある。一方はマスコミ報道の偽善性に加担することで収入を得ている。もう一方はマスコミ報道の偽善性を告発することで収入を得ている。政府が補償すると言い出した金を受け取るのも受け取らないのも自由だ。ただ、受け取った場合、今後一切「フリー」でいることは不可能になることもまた明らかである。贈与は「掟の贈与」という大変暴力的な挙措だからだ。
「贈与があるためには、贈与を忘却せねばなりませんが、しかしそれと同時にそういった忘却それ自体は保持されねばならないのです。贈与が生起するためには、それはどんな忘却であってもかまわないというわけではありません。消去されねばならぬと同時に、消去の痕跡を保持せねばならないのです。そして、こういった二重の命令は、明らかに狂気を引き起こすダブル・バインドであります。私は与えようと欲し、他者が受け取ってくれることを欲します。したがって、この贈与が生起するためには、他者は私が彼に与えるということを知っていなければなりません。そうでなければこういったことは意味をもちませんし、贈与は、生起しません。しかしながら、私が与えるということを他者が知っていたり、私のほうもまた知っているならば、贈与はこの象徴的な認知(感謝)によって廃棄されてしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。とはいえ、贈与はあらねばなりませんし、贈与はよいのです。ですから、贈与の想定それ自体、つまり贈与のこの狂気、これはダブルバインドの状況なのです。そして、あらゆる掟、あらゆる掟についての経験がこうしたタイプのものである、と私は言いたい。一つの掟、それは必ずしも悪いものではありません。われわれはもろもろの掟は必要としますし、掟を与えること、それはまた贈り物でもあります。というのも掟は第一に安心させ、不安を避けさせてくれるからです。ところが、掟の贈与は同時に悪いものでもあります。それはパルマコンであり、毒であります。贈与はどれも毒なのです。こういった観点からすると、記憶、時間ならびに歴史との関連において、贈与と掟の贈与とは、実際、何らかの類似したものである、と言うことができます。人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです。
こういったわけですから、偉大な支配者たち、ないしは偉大な女支配者たち、すなわち最も象徴的に自己固有化をおこなう人々が、最も気前のいい人々である、といった事実を前にしても、それを見て驚くなどということは少しもないのです。贈与と掟の贈与のなかに読み取るのがむずかしいのは、まさにこういったことなのです。
与えるとは、たいへんに暴力的な挙措でありうるのです。想像していただけるでしょうが、真の贈与、すなわち暴力をふるわないような、そして与えられた物やそれが与えられた相手を自己固有化しないような贈与、そういった贈与は、贈与の諸標識までも消去せねばならないでしょう。それは現われない贈与であり、したがって他者にとってのみならず、自分にとってさえも贈与の諸標識を消去するでしょう。真の贈与は、与えているということを知りさえせずに与えることのうちに、その本領をもっているのです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.110~112』法政大学出版局)
今後「フリーライター」という肩書は暴力的にその意味〔価値〕を転倒させられる。生活費維持のために政府から支給される補償金を受け取ったすべてのフリーライターはその瞬間から日本政府の「御用ライター」であるほかなくなる。それにしても「八〇五〇問題」は一体どこへ行ったのだろうか。どこへも行きはしない。市民社会の現場では新型ウイルス報道以前と変わらぬ姿で、むしろ新型ウイルス報道に隠蔽される形で日増しに深刻化しているのが現状だ。さらに高度テクノロジーの加速的採用は少子化を加速させる主要因だというのに。この逆説について日本は世界で最先端に位置している。ウイルス問題が終息すればたちまち日本の少子化問題への対応が再び注目されることはわかりきった問題だ。時々刻々と変化する高度テクノロジーの導入は或る資本が他の資本より常に有利な立場を取らなければならない性質上けっして避けられない事情である。ところがその同じ事情がさらなる核家族化ならびに少子化の温床となっているのは周知の通り。世界が注目しているのはそれに伴う政府の安定収入はどのようにして可能かという難題に、である。というのは、雇用主が変わっても他の様々な条件の相互依存体制によって賃金水準の安定性が保障されている北欧のような社会は別として、労働賃金が安定的な一定水準を保っていないところでは税収が常に不安定な状態にあるため政権維持もまた困難さを増す。格差社会はさらなる格差を生産する方向へ急傾斜していく。したがって日本を除く諸外国では毎日どこかで雇用の安定と雇用の自由を巡る対立的大規模デモが起こってくるのが通例であるにもかかわらずなぜ日本では大規模デモが起こらないのか余りにも不可解に見えるため逆に隅々までじろじろ注視されるのである。例外的に日本で大規模デモが起こらないのは「何をやっても仕方がない」という諦めの広がりによるニヒリズムが大規模化しているからに過ぎない。大規模化したのはデモではなく国家のさらなる殺人的疲弊衰退の予兆としてのニヒリズムなのだ。ニヒリズムの蔓延がどんな事態を招くかはもう何度も引用してきたわけだが。
「《機械文化への反作用》。ーーーそれ自体は最高の思索力の所産であるにもかかわらず、機械は、それを操作する人たちに対しては、ほとんど彼らの低級な、無思想な力しか活動せしめない。その際に機械は、そうでなければ眠ったままであったはずのおよそ大量の力を解放せしめる。そしてこれは確かに真実である。しかし機械は、向上や改善への、また芸術家となることへの刺戟を与えることは《しない》。機械は、《活動的》にし、また《画一的》にする、ーーーしかしこれは長いあいだには、ひとつの反作用を、つまり魂の絶望的な退屈を生む。魂は、機械を通して、変化の多い怠惰を渇望することを学ぶのである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二二〇・P.434」ちくま学芸文庫)
日本の若年層には自分たちの未来が見えてしまっている。日本の子どもたちはニーチェのいう「末人」である。すでに見切ってしまっている。このまま社会が推移して行ってもそこに出現するのはユートピアではなくいつも決まってディストピアだということを悟ってしまっている。さらにマスコミがいつもの調子で偽善的報道を繰り返せば繰り返すほどますます若年層は自分たちの未来に疑いを持ち始める。この傾向がもっと押し進められると自分たちの未来へ疑問を向けるだけでなく、エネルギーの内攻的な逆流が起こり、自分自身が生きていること自体をどんどん疑い始め、次に続く人間に未来を託してとっとと死ぬという自殺的国家が出現する。かつてのナチスドイツがそうだったし今のアメリカ社会がそれに近い。ちなみにアメリカの知識人の中でもトランプ政権を支える急進的右派(アナルコ・キャピタリスト、急進的リバタリアン)といわれる人々は資本主義が持つ自爆性を応用して第二次南北戦争の不可避性を説いて廻っている始末である。
ところで、刑務所に帰ってきたミニョンは独房の安楽に安堵を覚える。しかし彼は最も独房的なものこそ何よりの「慰め」となることを知っている。ミニョンは「独房のなかの白い陶器の便器」に限りない愛しみを感じてこうおもう。
「ヴェールをとってみるがいい。独房のなかの白い陶器の便器だけが、ほとんど乳房に近いリズムで(それは口のように鼓動を打っている)、慰めとなる息をすることを許してくれる。便器は人間的である」(ジュネ「花のノートルダム・P.300」河出文庫)
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さて、アルトー。タラウマラのダンスとは何か。それはペヨトルになることだ。焼肉を食べると性欲が増大するように、植物を食べるとその植物に特有の身体が出現する。
「彼らは私を地面にじかに、あの大きな梁の下に横たわらせた。そこに三人の魔術師が次々踊る合間に座るのだった」(アルトー『タラウマラ・P.77』河出文庫)
魔術師といっても何ら特別な能力を持っているわけではない。オカルト的解釈はつまらないし根拠もない。魔術師というのは今でいう「測量士」、技術者のことだ。シグリの儀式ではペヨトルの抽出物の取り扱いに習熟した薬剤師というほどの意味だ。何も超常現象を巻き起こすわけでは全然ない。そうではなく、いつも不意をついて地層化され固定化されそうになってばかりいる有機的人間の身体という「強制収容所」からの解体体験を司る技術者として、古代の儀式にならって、彼らは司祭とか魔術師と呼ばれている。アルトーがタラウマラの儀式への参加を熱望した理由の一つに、ペヨトルによってもたらされる「癒し」への希求があることを忘れてはいけない。
「地面に横たわっていたのは、私の上に儀式が降りかかり、私の上で、炎、歌、叫び、ダンス、そして夜そのものが、生命を吹き込まれた人間的な穹窿のように生き生きと回転するためである」(アルトー『タラウマラ・P.78』河出文庫)
アルトーは疲弊していた。だからわざわざメキシコくんだりまで旅してきた。ペヨトルの抽出物を食べること。食べた植物の命じるままになってみる試み。ヨーロッパ文化しか知らないアルトーにとって重要なのは欧米国家の「外部」へ出ることであり、アルトーは「外部への意志」として一つの実験なのだ。
「そこには回転する穹窿があり、叫び、抑揚、足音、歌の具体的な編成があった」(アルトー『タラウマラ・P.78』河出文庫)
歌が聴こえているとあるが、その歌は恐らくもう二度と聴くことができない経験だったに違いない。そのような音楽の到来こそ、欧米文化という進歩が疑問視され始めた時代に生きたアルトーにとって長く探し求めていた「癒し」だったのかもしれない。
ーーーーー
なお先日、トランプ大統領の消費税に関するツイートによって株式相場が大きく変動した。消費税調整は《上から》合法的になされる。ということはどういうことを意味しているか。利子は一旦決まれば今度は逆に資本の側、《社会的上層部の側から》生産現場の側へ向けて、無慈悲な暴力的圧力として作用するということにほかならない。単純なことだ。
「剰余価値率の利潤率への転化から剰余価値の利潤への転化が導き出されるべきであって、その逆ではない。そして、実際にも利潤率が歴史的な出発点になるのである。剰余価値と剰余価値率とは、相対的に、目に見えないものであって、探求されなければならない本質的なものであるが、利潤率は、したがってまた利潤としての剰余価値の形態は、現象の表面に現われているものである」(マルクス「資本論・第三部・第一篇・第二章・P.78」国民文庫)
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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