人間は身体という形態を取って生まれてくる。キリスト教だけでなく世界のあらゆる宗教的観念に共通しているのは、人間は身体という形態を取ってでしか生まれてくることができず、また精神は常に身体と一致していなければならない、というステレオタイプ(固定観念)である。しかしこの種の宗教的観念には何らの根拠もない。精神と身体とは常に一致していなくてはならないというカルト的信仰で充満した馬鹿馬鹿しい市民社会の倫理によってゴッホは自殺へ追い込まれたとするアルトーの理論はその点で十分正当性がある。
「ヴァン・ゴッホは本来の錯乱状態でではなく、肉体的にある問題の場であったことによって死んだのだが、その問題をめぐって、原初以来この人類という不公正極まりない精神はもがき苦しんでいる」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.118』河出文庫)
だがゴッホが苦しんでいる時期は「原初」の古代世界ではない。「原初以来」支配してきたかび臭い宗教的風習のもとにである。医学の飛躍的発展にもかかわらず社会規範として君臨しているヨーロッパのキリスト教世界という渦中においてである。問題は、生まれると同時にあらかじめキリスト教の名のもとに与えられた身体という有機体なのであり、個々の精神が有機体としての身体から脱出したいと欲したとしてもそれをけっして許さない身体への閉じ込めという社会規範である。そしてこの社会規範を世界的規模で支えているのは相変わらずキリスト教だった。だからアルトーはゴッホの精神をとことん痛めつけ続けたのは「神の裁き」としてステレオタイプ化された精神をステレオタイプ化された身体の中に閉じ込めたキリスト教だと告発して止まない。しかしアルトーは言語を用いてそう述べるのであって、ゴッホの場合、ゴッホの絵画がそう語る。語っているのは「誰か」という問い。
「ニーチェにとって問題は、善と悪がそれじたい何であるかではなく、自身を指示するため《アガトス》、他者を指示するため《デイロス》と言うとき、だれが指示されているか、というよりはむしろ、《だれが語っているのか》、知ることであった。なぜなら、言語(ランガージュ)全体が集合するのは、まさしくそこ、言説(ディスクール)を《する》者、より深い意味において、言葉(パロール)を《保持する》者のなかにおいてだからだ。だれが語るのか?というこのニーチェの問いにたいして、マラルメは、語るのは、その孤独、その束の間のおののき、その無のなかにおける語そのものーーー語の意味ではなく、その謎めいた心もとない存在だ、と述べることによって答え、みずからの答えを繰り返すことを止めようとはしない。ーーーマラルメは、言説(ディスクール)がそれ自体で綴られていくような<書物>の純粋な儀式のなかに、執行者としてしかもはや姿を見せようとは望まぬほど、おのれ固有の言語(ランガージュ)から自分自身をたえず抹殺しつづけたのである」(フーコー「言葉と物・P.324~325」新潮社)
文章というものは提出されるやいなや無数の意味を発生させるため、読解し分析し幾つかの有力な読みに絞り込むだけでも多少の研究期間を要する。けれども絵画、写真、音楽といった方法は、文章の読解とは次元が違っている。それらはほぼ一瞬で読み取らせる。無数の層が徹底的に圧縮され一つに折り重ねられた詩に等しい。或る詩が、絵画、写真、音楽といった他の形態へ変換されているというべきだろう。飛び上がってびっくりするほど難解でも何でもなくむしろごく単純な話なのだが、ところがそのような事情は一般的な市民社会の目には錯乱に見える。アルトーはゴッホの精神状態について「本来の錯乱状態でではな」かったと述べている。一方、或る種の「錯乱」を生きていたことは認めている。それはどのような意味においてか。
「精神に対する肉の、あるいは肉に対する身体の、あるいは両者に対する精神の優位の問題」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.118』河出文庫)
という問題に真面目に取り組むことが「錯乱」である。ゴッホの真面目さ。それは書簡に目を通せばわかるように大変こつこつとものごとに取り組み、絵画だけでなく芸術一般について広く目を通した上で様々な意見を述べる形をとっている。どこに錯乱があるのかと考え込んでしまう。「狂気」について述べている箇所を見ても支離滅裂なことを並べ立てているわけではまったくない。むしろ一般論の領域に収まっているためにその箇所に差し掛かっても「不意打ち」を受けることはない。
「ゾラとバルザックはその作品のなかで画家のようにある時代の社会や自然を描写して不思議な芸術的衝動を起させ、読者に話しかける、それによって、描かれたその時代に触れさせるのだ。ーーードミエも同じようにたいした天才だった。ミレーも彼が所属していた階級を代表する画家だ。これらの天才が気狂いじみていたとも考えられないことはない。彼等を手離しで感心して好きになるためには、こちらも少し狂う必要がある」(「ゴッホの手紙・上・P.146」岩波文庫)
というように。キリスト教と資本主義に支配された世界で転倒しているのはいつもすでに社会の側である。そしてそれを可能にしているのは社会的文法である。社会的文法は目に見えない次元で人間を拘束するからこそ絶大な桎梏(しっこく)として作用する。フロイト=ラカンの用語を借りれば無意識的次元から働きかけ人間の思考と行動とを支配する。しかしなぜそうなるのか。その事情について十九世紀後半すでに真面目になおかつ露骨に述べたニーチェは社会の側から断罪された、というよりもっと過酷な取り扱い方を受けた。ほとんど無視された。市民社会が見ないで済まそうと常に心がけてきたことがそこにはありありと論述されていたからである。ところでアルトーは「精神、肉、身体」を取り上げ「両者に対する精神の優位の問題」とややこしい書き方をしているが、「肉と身体と精神」だけでなくさらに「糞」を付け加えてみるともっとよくわかるに違いない。「肉と糞」。人間はそれを自己固有化〔占有〕することに余念がない。
「存在の中には 人間を 特にひきつけるものがあるのだが それはまさに 《糞》なのである」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.20」河出文庫)
さらに。
「人間は糞を失うのが怖かった あるいはむしろ糞を《ほしがった》 そしてそのため血を代償にしたのである」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.21」河出文庫)
何が言いたいのか。要するに人間は、ありとあらゆるものを自分固有の土地へと「土地化」することを《欲する》。肉を食べて脱糞し土地を新しく再土地化し不動産として商品化し転売を繰り返す。それこそが人間という不自然な動物の自然な営みである。人間は生まれついての不動産業者である。だが土地所有者でない不動産業者である。だからせっせと肉を食べ脱糞し再土地化と商品化ならびに貨幣との商品交換を絶え間なく繰り返していかなければならない。しばらくすると成功者が出てくる。資本の人格化としての資本家は自分で資本主義を動かしてでもいるかのような錯覚に酔うことができるようになる。しかし錯覚は遂に錯覚でしかない。二〇二〇年の新型ウイルス問題(パンデミック)のような事態発生に直面すると、資本主義は平滑化するやいなや条里化させておいた公理系の流れを詰まらせてたちまち機能不全におちいる。資本主義は公理系によって支えられているとともに公理系の創設が脱コード化の運動と同じ一つの動作であるかぎりで崩壊することなく延命することができてきたわけだが、日々要請される公理系の整理整頓、随時更新という必要不可欠な作業を怠っているとたった一度の「不意打ち」でこのありさまを呈する。ドゥルーズとガタリが「アンチ・オイディプス」で公理系について述べたのはもう五〇年近くも前のことだというのに。そしてまた、利子というものは市民社会が日々従事している経済活動の中から徐々に成立してくるわけだが、一旦承認された利子は成立するやいなや市民社会の中ではなく上に立って利子実現のために容赦なく全市民社会に対して絶え間なく圧力をかけ続ける。今や人間は資本主義に服従する部分機械に過ぎない。そのような人間でなくなるためには、宗教的掟によってあらかじめ与えられた身体を繰り返し批判に晒してみることが必要だ。ニーチェのいう「別様の仕方」、「別様の身体」を手に入れなければならない。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「ヴァン・ゴッホは本来の錯乱状態でではなく、肉体的にある問題の場であったことによって死んだのだが、その問題をめぐって、原初以来この人類という不公正極まりない精神はもがき苦しんでいる」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.118』河出文庫)
だがゴッホが苦しんでいる時期は「原初」の古代世界ではない。「原初以来」支配してきたかび臭い宗教的風習のもとにである。医学の飛躍的発展にもかかわらず社会規範として君臨しているヨーロッパのキリスト教世界という渦中においてである。問題は、生まれると同時にあらかじめキリスト教の名のもとに与えられた身体という有機体なのであり、個々の精神が有機体としての身体から脱出したいと欲したとしてもそれをけっして許さない身体への閉じ込めという社会規範である。そしてこの社会規範を世界的規模で支えているのは相変わらずキリスト教だった。だからアルトーはゴッホの精神をとことん痛めつけ続けたのは「神の裁き」としてステレオタイプ化された精神をステレオタイプ化された身体の中に閉じ込めたキリスト教だと告発して止まない。しかしアルトーは言語を用いてそう述べるのであって、ゴッホの場合、ゴッホの絵画がそう語る。語っているのは「誰か」という問い。
「ニーチェにとって問題は、善と悪がそれじたい何であるかではなく、自身を指示するため《アガトス》、他者を指示するため《デイロス》と言うとき、だれが指示されているか、というよりはむしろ、《だれが語っているのか》、知ることであった。なぜなら、言語(ランガージュ)全体が集合するのは、まさしくそこ、言説(ディスクール)を《する》者、より深い意味において、言葉(パロール)を《保持する》者のなかにおいてだからだ。だれが語るのか?というこのニーチェの問いにたいして、マラルメは、語るのは、その孤独、その束の間のおののき、その無のなかにおける語そのものーーー語の意味ではなく、その謎めいた心もとない存在だ、と述べることによって答え、みずからの答えを繰り返すことを止めようとはしない。ーーーマラルメは、言説(ディスクール)がそれ自体で綴られていくような<書物>の純粋な儀式のなかに、執行者としてしかもはや姿を見せようとは望まぬほど、おのれ固有の言語(ランガージュ)から自分自身をたえず抹殺しつづけたのである」(フーコー「言葉と物・P.324~325」新潮社)
文章というものは提出されるやいなや無数の意味を発生させるため、読解し分析し幾つかの有力な読みに絞り込むだけでも多少の研究期間を要する。けれども絵画、写真、音楽といった方法は、文章の読解とは次元が違っている。それらはほぼ一瞬で読み取らせる。無数の層が徹底的に圧縮され一つに折り重ねられた詩に等しい。或る詩が、絵画、写真、音楽といった他の形態へ変換されているというべきだろう。飛び上がってびっくりするほど難解でも何でもなくむしろごく単純な話なのだが、ところがそのような事情は一般的な市民社会の目には錯乱に見える。アルトーはゴッホの精神状態について「本来の錯乱状態でではな」かったと述べている。一方、或る種の「錯乱」を生きていたことは認めている。それはどのような意味においてか。
「精神に対する肉の、あるいは肉に対する身体の、あるいは両者に対する精神の優位の問題」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.118』河出文庫)
という問題に真面目に取り組むことが「錯乱」である。ゴッホの真面目さ。それは書簡に目を通せばわかるように大変こつこつとものごとに取り組み、絵画だけでなく芸術一般について広く目を通した上で様々な意見を述べる形をとっている。どこに錯乱があるのかと考え込んでしまう。「狂気」について述べている箇所を見ても支離滅裂なことを並べ立てているわけではまったくない。むしろ一般論の領域に収まっているためにその箇所に差し掛かっても「不意打ち」を受けることはない。
「ゾラとバルザックはその作品のなかで画家のようにある時代の社会や自然を描写して不思議な芸術的衝動を起させ、読者に話しかける、それによって、描かれたその時代に触れさせるのだ。ーーードミエも同じようにたいした天才だった。ミレーも彼が所属していた階級を代表する画家だ。これらの天才が気狂いじみていたとも考えられないことはない。彼等を手離しで感心して好きになるためには、こちらも少し狂う必要がある」(「ゴッホの手紙・上・P.146」岩波文庫)
というように。キリスト教と資本主義に支配された世界で転倒しているのはいつもすでに社会の側である。そしてそれを可能にしているのは社会的文法である。社会的文法は目に見えない次元で人間を拘束するからこそ絶大な桎梏(しっこく)として作用する。フロイト=ラカンの用語を借りれば無意識的次元から働きかけ人間の思考と行動とを支配する。しかしなぜそうなるのか。その事情について十九世紀後半すでに真面目になおかつ露骨に述べたニーチェは社会の側から断罪された、というよりもっと過酷な取り扱い方を受けた。ほとんど無視された。市民社会が見ないで済まそうと常に心がけてきたことがそこにはありありと論述されていたからである。ところでアルトーは「精神、肉、身体」を取り上げ「両者に対する精神の優位の問題」とややこしい書き方をしているが、「肉と身体と精神」だけでなくさらに「糞」を付け加えてみるともっとよくわかるに違いない。「肉と糞」。人間はそれを自己固有化〔占有〕することに余念がない。
「存在の中には 人間を 特にひきつけるものがあるのだが それはまさに 《糞》なのである」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.20」河出文庫)
さらに。
「人間は糞を失うのが怖かった あるいはむしろ糞を《ほしがった》 そしてそのため血を代償にしたのである」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.21」河出文庫)
何が言いたいのか。要するに人間は、ありとあらゆるものを自分固有の土地へと「土地化」することを《欲する》。肉を食べて脱糞し土地を新しく再土地化し不動産として商品化し転売を繰り返す。それこそが人間という不自然な動物の自然な営みである。人間は生まれついての不動産業者である。だが土地所有者でない不動産業者である。だからせっせと肉を食べ脱糞し再土地化と商品化ならびに貨幣との商品交換を絶え間なく繰り返していかなければならない。しばらくすると成功者が出てくる。資本の人格化としての資本家は自分で資本主義を動かしてでもいるかのような錯覚に酔うことができるようになる。しかし錯覚は遂に錯覚でしかない。二〇二〇年の新型ウイルス問題(パンデミック)のような事態発生に直面すると、資本主義は平滑化するやいなや条里化させておいた公理系の流れを詰まらせてたちまち機能不全におちいる。資本主義は公理系によって支えられているとともに公理系の創設が脱コード化の運動と同じ一つの動作であるかぎりで崩壊することなく延命することができてきたわけだが、日々要請される公理系の整理整頓、随時更新という必要不可欠な作業を怠っているとたった一度の「不意打ち」でこのありさまを呈する。ドゥルーズとガタリが「アンチ・オイディプス」で公理系について述べたのはもう五〇年近くも前のことだというのに。そしてまた、利子というものは市民社会が日々従事している経済活動の中から徐々に成立してくるわけだが、一旦承認された利子は成立するやいなや市民社会の中ではなく上に立って利子実現のために容赦なく全市民社会に対して絶え間なく圧力をかけ続ける。今や人間は資本主義に服従する部分機械に過ぎない。そのような人間でなくなるためには、宗教的掟によってあらかじめ与えられた身体を繰り返し批判に晒してみることが必要だ。ニーチェのいう「別様の仕方」、「別様の身体」を手に入れなければならない。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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