ゴッホを自殺へ追い込んだのは「満場一致の意識」であるとアルトーは述べる。そのように本当のことを露骨に口にしてしまうとただちに精神病院送りにされる時代だった。ただしアルトーのいう「満場一致の意識」は、民主主義的制度が機能しているかぎりでいうことができる「満場一致」とは関係がない。では、そうでない「満場一致の意識」とは何のことだろうか。あるいはどのような状況を指して言われているのか。それが問われるのはいつも決まって「まだ萌芽状態にある戦争や革命や社会的激変の際に」という条件が前提とされていることを思い起こす必要性がある。この点に関して歴史的に見てほぼ例外はないと見てよいと思える。さらにそこには諸国民にとって自分の身に向かって「戦争や革命や社会的激変」に匹敵する何かが差し迫っていると感じているだけでなく複数の地域では事実その「萌芽状態」がすでに可視化されているという下位事情が含まれている。
「まだ萌芽状態にある戦争や革命や社会的激変の際には、満場一致の意識は問いただされ、自問するのであって、それもまた自らの判断を下すのである。この意識は、影響の大きい幾つかの個々の事例に関して言えば、ひとりでに呼び起こされ、それ自身から外に出るということがあり得る」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.116』河出文庫)
だからといってゴッホが、あるいはニーチェやアルトーが、「戦争や革命や社会的激変」に匹敵する何かが差し迫っていると警告したうちの一人であるとは断定できない。ニーチェ、アルトーらにしてもそうなのだが、「戦争や革命や社会的激変」に匹敵する何かが差し迫っていると「感じ取っていた」うちの一人一人であるということはできる。アルトーの場合、世界的二大勢力の破滅的激突について予言的にこう述べていた。一方はアメリカについて。
「なぜなら、こうしてアメリカ人が準備したのは、いまも必死で準備しているのはひたすら戦争なのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11」河出文庫)
他方はスターリンのロシアについて。
「そしてこれらの敵のあいだには スターリンのロシアがいて これも軍事力には事欠かない。こうしたことはみんな申し分のないことだ、それにしても私はアメリカ人たちがこんなにも好戦的な民だとは知らなかった」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11~12」河出文庫)
しかし両者は何らかの媒介項なしに接触することはできない。媒介するもの。それは資本主義という制度である。
「なぜなら息子よ、われわれ生まれながらの資本主義者にとって、待ち伏せている敵は、数えきれない」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11」河出文庫)
アルトーはフランスという資本主義国家で生まれ育った。自分で自分自身の出自を知っている。アルトーは生まれるやいなやフランスという有機的器官に接続され登録された。本人の意思確認などできるわけもない乳幼児の状態で国家的有機体の一部分へ編入された。フランス国家という有機体への編入はただちにヨーロッパへの有機的参入にほかならない。教育機関での学習を通してそのような社会的事情を意識できるようになるにしたがってアルトーは、自分の身体が有機体としての諸器官を通してキリスト教的ヨーロッパやロシアのスターリニズムに姦通させられていたことを認めないわけにはいかなくなる。晩年のアルトーが提唱するに至った「器官なき身体」論はすでにその時点から徐々に熟成されてきたのだろう。
ところで人間は、集団化するやいなや「空気を読む」ことを始める。そもそも空気は吸うものだ。なのになぜ「読む」のか。複数の人間とはいってもたった二人では対話の次元に留まる。「空気を読む」というより文脈を理解するだけで対話は成立する。「空気を読む」必要性を敏感に感じ始めざるを得なくさせるのは、しかし、いつどのような条件においてだろうか。
「百人がいっしょにいると、各人はおのれの悟性を失って、或る別の悟性を手に入れる」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八二五・P.470」ちくま学芸文庫)
カントは「悟性」という言葉を用いているが「知性」と言い換えても問題が生じないように、ニーチェが「悟性」というとき、それを「知性」と言い換えても特に問題は生じない。試しにやってみる。
「百人がいっしょにいると、各人はおのれの知性を失って、或る別の知性を手に入れる」
そうして一挙に発生した「満場一致の意識」の犠牲者が次に列挙されることになる。
「かくしてボードレール、エドガー・ポー、ジェラール・ド・ネルヴァル、ニーチェ、キルケゴール、ヘルダーリン、コールリッジに関して、一斉になされた呪縛が存在したのである、そしてヴァン・ゴッホについてもそういうことがあったのだ」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.116』河出文庫)
かつて社会から葬り去られた輝かしい面々。社会は今になって彼らの作品を資本主義的生産様式に則って商品化し貨幣交換によって剰余価値を実現しさらなる資本の再生産過程を始めるのである。ところが二〇二〇年の新型ウイルス問題は当初計画されていた資本の流れに対して大幅な再調整を要請させることになった。一例を上げたい。マスコミが用いている「医療崩壊の危機」というステレオタイプ(決まり文句)について。
第一に、差し当たり日本国内のことを指して言っているように思えるのだが実際はどの先進国のどの医療制度について「崩壊」と言っているのかわからない点。まず前提として、崩壊するためにはその前に成立していなければならない。まだ出来上がっていないものが途中で頓挫することはあっても崩壊するためには完全な形で成立していなければ崩壊の始めようがない。しかし先進諸国の医療制度は日本も含めて確かに先進的ではあった。東西冷戦終結までは。だからドゥルーズとガタリはこう言うことができたのである。
「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.303~304」河出書房新社)
そしてこの理論は今なお有効である。社会福祉部門を自分の手で創設し創生期のむき出しの資本主義を洗練することで「ロシア革命を消化することができた」旧西側陣営は冷戦崩壊と同時に公理の付け加えを不要とみなし、逆に新自由主義にのめり込んでいく。公理系の大きな構成部分をなす社会福祉部門を維持するどころか急速に切り捨てていくことにした。当然のことながらそれでは上手く行かない。せっかく「消化した」はずの「ロシア革命」の側へ世界が世界自身を巻き戻してしまうというような事態が生じてきた。合理化すればするほど公理系は加速的に破壊される。一方で脱コード化しつつ他方で公理系化する諸力の運動のことを資本主義というのであって、この新しい読み方はマルクスが資本論の中で述べた「利潤率の傾向的低下の法則」(マルクス「資本論・第三部・第三篇・P.347~435」国民文庫)をドゥルーズとガタリが脱構築して打ち立てたものだ。そしてこの読み方、ニーチェ流にいえば「別様の仕方」で読めば、さらにこう展開することができる。
「国家を超えて《世界的に統合された》(というより統合していく)《資本主義》の、補完的でありながら支配的でもあるレベルでは、新しい平滑空間が産出され、そこでは、もはや人間という労働の要素ではなく機械状の構成要素にもとづく資本が『絶対』速度に達している。多国籍企業が産出しているのは、一種の脱領土化した平滑空間であり、そこでは交換の極として占められる点が古典的な条理化の軌道からまったく独立している。新しいもの、それはいつもローテーションの新しい形である。ますます加速された現在の資本流通の新しい形は、不変資本と可変資本との区別、さらには固定資本と流動資本の区別さえ、だんだんと相対的なものにしつつある。本質的なことは、むしろ《条理化された資本と平滑な資本》の区別であり、国家と領土、さらには異なったタイプの国家群をも通り抜けていく複合体を通して、前者が後者を産み出していく仕方である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.283」河出文庫)
最初に国家を作ったのは誰か。平滑化する遊牧民、移動民、非定住民が「戦争機械」として世界各地を流動していたことがそもそもの根本にある。たとえば中国史に登場する「匈奴(きょうど)、鮮卑(せんぴ)、羯(けつ)、氐(てい)、羌(きょう)、柔然(じゅうぜん)」など北方騎馬民族による機動力とその戦闘的攻撃力の高さが先にあり、それら外部からの進入に対し生じてきた防御の必要性が秦の始皇帝に万里の長城建設のきっかけを与え、結果的に内部から自己中心主義的国家を発生させることになった。「五胡六国時代」と単純化されて呼ばれている時期に相当する。だから三国志とか水滸伝とかを何度読み返してみてもそういう事情は見えてこない。しかし歴史上始めて出現した騎馬民族としては黒海北部周辺に展開したスキュタイ族がその風習とともに有名。
「スキュタイ人は最初に倒した敵の血を飲む。また戦闘で殺した敵兵は、ことごとくその首級を王の許へ持参する。首級を持参すれば鹵獲物(ろかくぶつ)の分配に与ることができるが、さもなくば分配に与れぬからである。スキュタイ人は首級の皮を次のようにして剥ぎとる。耳のあたりで丸く刃物を入れ、首級をつかんでゆすぶり、頭皮と頭蓋骨を離す。それから牛の肋骨を用いて皮から肉をそぎ落とし、手で揉んで柔軟にすると一種の手巾ができ上がる。それを自分の乗馬の馬勒にかけて誇るのである。この手巾を一番多く所有する者が、最大の勇士と判定されるからである。またスキュタイ人の中には、剥いだ皮を羊飼の着る皮衣のように縫い合せ、自分の身につける上衣まで作るものも少なくない。さらにまた、敵の死体の右腕の皮を爪ごと剥いで、矢筒の被いを作るものも多い。人間の皮というものは実際厚くもあり艶もよく、ほとんど他のどの皮よりも白く光沢がある」(ヘロドトス「歴史・中・P.45〜46」岩波文庫)
彼らに共通する「遊牧性、移動性、非定住性」という特性において、「ボードレール、エドガー・ポー、ジェラール・ド・ネルヴァル、ニーチェ、キルケゴール、ヘルダーリン、コールリッジ」そして「ヴァン・ゴッホ」を語ることは十分に可能である。彼らの流動性は平滑化を促進するがその反動として成立した国家は条理化される。グローバル化した二〇二〇年の世界はというと、前者が後者を根拠とし同時に後者が前者を根拠とし、互いが互いのうちに自分の根拠を見出しつつ戦略をえがく世界同時依存という条件のもとで進行する資本主義が加速しているというべきなのだが、常に洗練させておかねばならない公理系を資本回転と同時に更新せず逆に放置しておいたため、資本主義的生産様式はあちこちで停滞することになった。しかし資本主義に責任があるのではない。資本主義は責任など始めから知らないし今後も知らない。問題は、資本主義を選択して強引に押し進めたにもかかわらず、整流器としての公理系の整理整頓という肝心の作業について、実施すべきことを実施せず怠慢していた政財官界の指導者層に集約されるべきが妥当だろうと考える。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「まだ萌芽状態にある戦争や革命や社会的激変の際には、満場一致の意識は問いただされ、自問するのであって、それもまた自らの判断を下すのである。この意識は、影響の大きい幾つかの個々の事例に関して言えば、ひとりでに呼び起こされ、それ自身から外に出るということがあり得る」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.116』河出文庫)
だからといってゴッホが、あるいはニーチェやアルトーが、「戦争や革命や社会的激変」に匹敵する何かが差し迫っていると警告したうちの一人であるとは断定できない。ニーチェ、アルトーらにしてもそうなのだが、「戦争や革命や社会的激変」に匹敵する何かが差し迫っていると「感じ取っていた」うちの一人一人であるということはできる。アルトーの場合、世界的二大勢力の破滅的激突について予言的にこう述べていた。一方はアメリカについて。
「なぜなら、こうしてアメリカ人が準備したのは、いまも必死で準備しているのはひたすら戦争なのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11」河出文庫)
他方はスターリンのロシアについて。
「そしてこれらの敵のあいだには スターリンのロシアがいて これも軍事力には事欠かない。こうしたことはみんな申し分のないことだ、それにしても私はアメリカ人たちがこんなにも好戦的な民だとは知らなかった」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11~12」河出文庫)
しかし両者は何らかの媒介項なしに接触することはできない。媒介するもの。それは資本主義という制度である。
「なぜなら息子よ、われわれ生まれながらの資本主義者にとって、待ち伏せている敵は、数えきれない」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11」河出文庫)
アルトーはフランスという資本主義国家で生まれ育った。自分で自分自身の出自を知っている。アルトーは生まれるやいなやフランスという有機的器官に接続され登録された。本人の意思確認などできるわけもない乳幼児の状態で国家的有機体の一部分へ編入された。フランス国家という有機体への編入はただちにヨーロッパへの有機的参入にほかならない。教育機関での学習を通してそのような社会的事情を意識できるようになるにしたがってアルトーは、自分の身体が有機体としての諸器官を通してキリスト教的ヨーロッパやロシアのスターリニズムに姦通させられていたことを認めないわけにはいかなくなる。晩年のアルトーが提唱するに至った「器官なき身体」論はすでにその時点から徐々に熟成されてきたのだろう。
ところで人間は、集団化するやいなや「空気を読む」ことを始める。そもそも空気は吸うものだ。なのになぜ「読む」のか。複数の人間とはいってもたった二人では対話の次元に留まる。「空気を読む」というより文脈を理解するだけで対話は成立する。「空気を読む」必要性を敏感に感じ始めざるを得なくさせるのは、しかし、いつどのような条件においてだろうか。
「百人がいっしょにいると、各人はおのれの悟性を失って、或る別の悟性を手に入れる」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八二五・P.470」ちくま学芸文庫)
カントは「悟性」という言葉を用いているが「知性」と言い換えても問題が生じないように、ニーチェが「悟性」というとき、それを「知性」と言い換えても特に問題は生じない。試しにやってみる。
「百人がいっしょにいると、各人はおのれの知性を失って、或る別の知性を手に入れる」
そうして一挙に発生した「満場一致の意識」の犠牲者が次に列挙されることになる。
「かくしてボードレール、エドガー・ポー、ジェラール・ド・ネルヴァル、ニーチェ、キルケゴール、ヘルダーリン、コールリッジに関して、一斉になされた呪縛が存在したのである、そしてヴァン・ゴッホについてもそういうことがあったのだ」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.116』河出文庫)
かつて社会から葬り去られた輝かしい面々。社会は今になって彼らの作品を資本主義的生産様式に則って商品化し貨幣交換によって剰余価値を実現しさらなる資本の再生産過程を始めるのである。ところが二〇二〇年の新型ウイルス問題は当初計画されていた資本の流れに対して大幅な再調整を要請させることになった。一例を上げたい。マスコミが用いている「医療崩壊の危機」というステレオタイプ(決まり文句)について。
第一に、差し当たり日本国内のことを指して言っているように思えるのだが実際はどの先進国のどの医療制度について「崩壊」と言っているのかわからない点。まず前提として、崩壊するためにはその前に成立していなければならない。まだ出来上がっていないものが途中で頓挫することはあっても崩壊するためには完全な形で成立していなければ崩壊の始めようがない。しかし先進諸国の医療制度は日本も含めて確かに先進的ではあった。東西冷戦終結までは。だからドゥルーズとガタリはこう言うことができたのである。
「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.303~304」河出書房新社)
そしてこの理論は今なお有効である。社会福祉部門を自分の手で創設し創生期のむき出しの資本主義を洗練することで「ロシア革命を消化することができた」旧西側陣営は冷戦崩壊と同時に公理の付け加えを不要とみなし、逆に新自由主義にのめり込んでいく。公理系の大きな構成部分をなす社会福祉部門を維持するどころか急速に切り捨てていくことにした。当然のことながらそれでは上手く行かない。せっかく「消化した」はずの「ロシア革命」の側へ世界が世界自身を巻き戻してしまうというような事態が生じてきた。合理化すればするほど公理系は加速的に破壊される。一方で脱コード化しつつ他方で公理系化する諸力の運動のことを資本主義というのであって、この新しい読み方はマルクスが資本論の中で述べた「利潤率の傾向的低下の法則」(マルクス「資本論・第三部・第三篇・P.347~435」国民文庫)をドゥルーズとガタリが脱構築して打ち立てたものだ。そしてこの読み方、ニーチェ流にいえば「別様の仕方」で読めば、さらにこう展開することができる。
「国家を超えて《世界的に統合された》(というより統合していく)《資本主義》の、補完的でありながら支配的でもあるレベルでは、新しい平滑空間が産出され、そこでは、もはや人間という労働の要素ではなく機械状の構成要素にもとづく資本が『絶対』速度に達している。多国籍企業が産出しているのは、一種の脱領土化した平滑空間であり、そこでは交換の極として占められる点が古典的な条理化の軌道からまったく独立している。新しいもの、それはいつもローテーションの新しい形である。ますます加速された現在の資本流通の新しい形は、不変資本と可変資本との区別、さらには固定資本と流動資本の区別さえ、だんだんと相対的なものにしつつある。本質的なことは、むしろ《条理化された資本と平滑な資本》の区別であり、国家と領土、さらには異なったタイプの国家群をも通り抜けていく複合体を通して、前者が後者を産み出していく仕方である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.283」河出文庫)
最初に国家を作ったのは誰か。平滑化する遊牧民、移動民、非定住民が「戦争機械」として世界各地を流動していたことがそもそもの根本にある。たとえば中国史に登場する「匈奴(きょうど)、鮮卑(せんぴ)、羯(けつ)、氐(てい)、羌(きょう)、柔然(じゅうぜん)」など北方騎馬民族による機動力とその戦闘的攻撃力の高さが先にあり、それら外部からの進入に対し生じてきた防御の必要性が秦の始皇帝に万里の長城建設のきっかけを与え、結果的に内部から自己中心主義的国家を発生させることになった。「五胡六国時代」と単純化されて呼ばれている時期に相当する。だから三国志とか水滸伝とかを何度読み返してみてもそういう事情は見えてこない。しかし歴史上始めて出現した騎馬民族としては黒海北部周辺に展開したスキュタイ族がその風習とともに有名。
「スキュタイ人は最初に倒した敵の血を飲む。また戦闘で殺した敵兵は、ことごとくその首級を王の許へ持参する。首級を持参すれば鹵獲物(ろかくぶつ)の分配に与ることができるが、さもなくば分配に与れぬからである。スキュタイ人は首級の皮を次のようにして剥ぎとる。耳のあたりで丸く刃物を入れ、首級をつかんでゆすぶり、頭皮と頭蓋骨を離す。それから牛の肋骨を用いて皮から肉をそぎ落とし、手で揉んで柔軟にすると一種の手巾ができ上がる。それを自分の乗馬の馬勒にかけて誇るのである。この手巾を一番多く所有する者が、最大の勇士と判定されるからである。またスキュタイ人の中には、剥いだ皮を羊飼の着る皮衣のように縫い合せ、自分の身につける上衣まで作るものも少なくない。さらにまた、敵の死体の右腕の皮を爪ごと剥いで、矢筒の被いを作るものも多い。人間の皮というものは実際厚くもあり艶もよく、ほとんど他のどの皮よりも白く光沢がある」(ヘロドトス「歴史・中・P.45〜46」岩波文庫)
彼らに共通する「遊牧性、移動性、非定住性」という特性において、「ボードレール、エドガー・ポー、ジェラール・ド・ネルヴァル、ニーチェ、キルケゴール、ヘルダーリン、コールリッジ」そして「ヴァン・ゴッホ」を語ることは十分に可能である。彼らの流動性は平滑化を促進するがその反動として成立した国家は条理化される。グローバル化した二〇二〇年の世界はというと、前者が後者を根拠とし同時に後者が前者を根拠とし、互いが互いのうちに自分の根拠を見出しつつ戦略をえがく世界同時依存という条件のもとで進行する資本主義が加速しているというべきなのだが、常に洗練させておかねばならない公理系を資本回転と同時に更新せず逆に放置しておいたため、資本主義的生産様式はあちこちで停滞することになった。しかし資本主義に責任があるのではない。資本主義は責任など始めから知らないし今後も知らない。問題は、資本主義を選択して強引に押し進めたにもかかわらず、整流器としての公理系の整理整頓という肝心の作業について、実施すべきことを実施せず怠慢していた政財官界の指導者層に集約されるべきが妥当だろうと考える。
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「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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