アルトーは自分自身を含めて次のように語る。
「本物の精神病者とは何なのか?それは人間の名誉というある種の卓越した観念に悖(もと)る行いをするよりは、むしろ人が社会的に理解する意味において狂人になることを選んだ人間である」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.115』河出文庫)
その通りに受け止めるとすれば、ゴッホ、ニーチェ、アルトーという系列が出現するだろう。彼らはある時は絵画、ある時は言語、ある時は身振り仕ぐさとしての身体を用いて、何を言っているのだろうか。
「かくして社会は、精神病院のなかで、社会が厄介払いするつもりだった、あるいはそれから社会が身を守ろうとしたすべての人々を圧殺させたのである、まるでこれらの人々が社会と重大な何らかの卑劣な行いの共犯関係になることを拒んだとでもいうように」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.115』河出文庫)
要するに、「社会が厄介払いするつもりだった」もの、「それから社会が身を守ろうとしたすべての」身振り仕ぐさを露出させたのが、ゴッホ、ニーチェ、アルトーといった人々だった。それらは社会の側からすれば途方もない邪魔者に見えて仕方がない。とりわけ国家-社会という機構にすればそうだ。永久に息の根を止める必要性を感じ取った。ゴッホについてアルトーが述べているように「社会の順応主義」が問題とされているような絵画の場合は特に。
「というのも、ヴァン・ゴッホの絵画が攻撃するのは、何らかの風俗習慣の順応主義ではなく、まさに体制の順応主義そのものだからである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.112』河出文庫)
アルトーの言葉では「体制の順応主義」になるのだが、現代社会、特に現在の日本が置かれている状況下でいえば、差し当たり「同調圧力」と述べるのが妥当する。さらに「同調圧力」は、ただ単に習慣化されているというだけでは社会的な規模で発生することはない。では何が条件となってこの「同調圧力」は社会的規模あるいは世界的規模で同時発生することができるのか。十九世紀すでにその条件は出揃っていた。
「生産物交換は、いろいろな家族や種族や共同体が接触する地点で発生する。なぜならば、文化の初期には独立者として相対するのは個人ではなくて家族や種族などだからである。共同体が違えば、それらが自然環境のなかに見いだす生産手段や生活手段も違っている。したがって、それらの共同体の生産様式や生活様式や生産物も違っている。この自然発生的な相違こそは、いろいろな共同体が接触するときに相互の生産物の交換を呼び起こし、したがって、このような生産物がだんだん商品に転化することを呼び起こすのである。交換は、生産部面の相違をつくりだすのではなく、違った諸生産部面を関連させて、それらを一つの社会的総生産の多かれ少なかれ互いに依存し合う諸部門にする」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十二章・P.215~216」国民文庫)
そしてこの条件は二〇二〇年という時期から振り返ってみると、とっくの昔から何度も繰り返し成し遂げられてきた事情であると十分にいうことができる。だから経済について語るとき、次のことがいつも頭の中に表象されていなくては何一つ語ることはできない。
「研究の対象をその純粋性において撹乱的な付随事にわずらわされることなく捉えるためには、われわれはここでは全商業世界を一国とみなさなければならない」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十二章・P.133」国民文庫)
さらにパンデミックという超越論的なウイルスの加速的急増傾向について。ニーチェが述べていた通りのことが資本主義的生産様式を通じて生じたといえる。
「一切の君の諸力を発達させよーーーしかしこれは、無政府状態を発達させよ!破滅せよ!ということだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・四〇二・P.234」ちくま学芸文庫)
ところが新型ウイルスではなく新型ウイルス報道についても同じことがいえるのであって、報道は言語を用いてでしか行われないかぎり、不可避的に別の多様な事情を一斉に覆い隠す効果を発揮する。
「《言葉がわれわれの妨害になる!》ーーー大昔の人々がある言葉を提出する場合はいつでも、彼らはある発見をしたと信じていた。実際はどんなに違っていたことだろう!ーーー彼らはある問題に触れていた。しかしそれを《解決》してしまったと思い違いすることによって、解決の障碍物をつくり出した。ーーー現在われわれはどんな認識においても、石のように硬い不滅の言葉につまずかざるをえない。そしてその際言葉を破るよりもむしろ脚を折るであろう」(ニーチェ「曙光・四七・P.64」ちくま学芸文庫)
こうして新型ウイルスの感染性の冪(べき)乗的広域化の加速的冪(べき)乗性は全世界で言語と貨幣の機能の同等性を日々証明しつつある。言語も貨幣もどちらも同様に、一方で多少の事実を可視化するが、他方で無数の諸事情を覆い隠す。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
というふうに。また、SARSやMARSからしばらく時間の経過があったわけだが、その間に何があったのか。事後的にではあるが確実にわかることがある。事後的にしかわからないものは事後的にしかわからないとしか言えないけれども、しかし言語/貨幣の見た目ではなくその価値はいつも後になって実現されるという事情の確実さを裏打ちしている。剰余価値の実現はいつも貨幣との商品交換が行われるやいなや実現されるのと同じ条件下においてでしかないように。そして言語とか貨幣とかの形態を取って意識にのぼってくるものはいつも次の条件に拘束されている。拘束されてはいるが、けれども意識化されると同時に次の事情だけは間違いなく晒し上げるのである。
「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫)
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「本物の精神病者とは何なのか?それは人間の名誉というある種の卓越した観念に悖(もと)る行いをするよりは、むしろ人が社会的に理解する意味において狂人になることを選んだ人間である」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.115』河出文庫)
その通りに受け止めるとすれば、ゴッホ、ニーチェ、アルトーという系列が出現するだろう。彼らはある時は絵画、ある時は言語、ある時は身振り仕ぐさとしての身体を用いて、何を言っているのだろうか。
「かくして社会は、精神病院のなかで、社会が厄介払いするつもりだった、あるいはそれから社会が身を守ろうとしたすべての人々を圧殺させたのである、まるでこれらの人々が社会と重大な何らかの卑劣な行いの共犯関係になることを拒んだとでもいうように」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.115』河出文庫)
要するに、「社会が厄介払いするつもりだった」もの、「それから社会が身を守ろうとしたすべての」身振り仕ぐさを露出させたのが、ゴッホ、ニーチェ、アルトーといった人々だった。それらは社会の側からすれば途方もない邪魔者に見えて仕方がない。とりわけ国家-社会という機構にすればそうだ。永久に息の根を止める必要性を感じ取った。ゴッホについてアルトーが述べているように「社会の順応主義」が問題とされているような絵画の場合は特に。
「というのも、ヴァン・ゴッホの絵画が攻撃するのは、何らかの風俗習慣の順応主義ではなく、まさに体制の順応主義そのものだからである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.112』河出文庫)
アルトーの言葉では「体制の順応主義」になるのだが、現代社会、特に現在の日本が置かれている状況下でいえば、差し当たり「同調圧力」と述べるのが妥当する。さらに「同調圧力」は、ただ単に習慣化されているというだけでは社会的な規模で発生することはない。では何が条件となってこの「同調圧力」は社会的規模あるいは世界的規模で同時発生することができるのか。十九世紀すでにその条件は出揃っていた。
「生産物交換は、いろいろな家族や種族や共同体が接触する地点で発生する。なぜならば、文化の初期には独立者として相対するのは個人ではなくて家族や種族などだからである。共同体が違えば、それらが自然環境のなかに見いだす生産手段や生活手段も違っている。したがって、それらの共同体の生産様式や生活様式や生産物も違っている。この自然発生的な相違こそは、いろいろな共同体が接触するときに相互の生産物の交換を呼び起こし、したがって、このような生産物がだんだん商品に転化することを呼び起こすのである。交換は、生産部面の相違をつくりだすのではなく、違った諸生産部面を関連させて、それらを一つの社会的総生産の多かれ少なかれ互いに依存し合う諸部門にする」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十二章・P.215~216」国民文庫)
そしてこの条件は二〇二〇年という時期から振り返ってみると、とっくの昔から何度も繰り返し成し遂げられてきた事情であると十分にいうことができる。だから経済について語るとき、次のことがいつも頭の中に表象されていなくては何一つ語ることはできない。
「研究の対象をその純粋性において撹乱的な付随事にわずらわされることなく捉えるためには、われわれはここでは全商業世界を一国とみなさなければならない」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十二章・P.133」国民文庫)
さらにパンデミックという超越論的なウイルスの加速的急増傾向について。ニーチェが述べていた通りのことが資本主義的生産様式を通じて生じたといえる。
「一切の君の諸力を発達させよーーーしかしこれは、無政府状態を発達させよ!破滅せよ!ということだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・四〇二・P.234」ちくま学芸文庫)
ところが新型ウイルスではなく新型ウイルス報道についても同じことがいえるのであって、報道は言語を用いてでしか行われないかぎり、不可避的に別の多様な事情を一斉に覆い隠す効果を発揮する。
「《言葉がわれわれの妨害になる!》ーーー大昔の人々がある言葉を提出する場合はいつでも、彼らはある発見をしたと信じていた。実際はどんなに違っていたことだろう!ーーー彼らはある問題に触れていた。しかしそれを《解決》してしまったと思い違いすることによって、解決の障碍物をつくり出した。ーーー現在われわれはどんな認識においても、石のように硬い不滅の言葉につまずかざるをえない。そしてその際言葉を破るよりもむしろ脚を折るであろう」(ニーチェ「曙光・四七・P.64」ちくま学芸文庫)
こうして新型ウイルスの感染性の冪(べき)乗的広域化の加速的冪(べき)乗性は全世界で言語と貨幣の機能の同等性を日々証明しつつある。言語も貨幣もどちらも同様に、一方で多少の事実を可視化するが、他方で無数の諸事情を覆い隠す。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
というふうに。また、SARSやMARSからしばらく時間の経過があったわけだが、その間に何があったのか。事後的にではあるが確実にわかることがある。事後的にしかわからないものは事後的にしかわからないとしか言えないけれども、しかし言語/貨幣の見た目ではなくその価値はいつも後になって実現されるという事情の確実さを裏打ちしている。剰余価値の実現はいつも貨幣との商品交換が行われるやいなや実現されるのと同じ条件下においてでしかないように。そして言語とか貨幣とかの形態を取って意識にのぼってくるものはいつも次の条件に拘束されている。拘束されてはいるが、けれども意識化されると同時に次の事情だけは間違いなく晒し上げるのである。
「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫)
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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