ディヴィーヌは嫉妬していると思われたくない。ノートルダムとゴルギとの性行為が文字通りの性行為ならそれを咎めるのは野暮なことだ。ディヴィーヌは野暮な人間だと思われたくない。そしてさらにノートルダムとゴルギとの性行為がディヴィーヌの大切な屋根裏部屋で行われディヴィーヌが見ている眼前で大胆この上なく行われるのには、ほかならぬディヴィーヌを挑発して錯乱させてやろうとする陰険でふざけきった目的が隠されているわけだが、そんなことなどとっくにお見通しだと感づかれるのも嫌な気がした。重層的に意味の重なった事態の中から人一倍多くを見破る目というのは往々にして苦労の連続を伴う年齢の重ね方をしてきた証拠になるからだ。確かにディヴィーヌはキュラフロワ(彼)からディヴィーヌ(彼女)へ変わる二十年間の中で襤褸(ぼろ)切れのような物乞い生活を何度となく経験してきた。そんなわけでディヴィーヌの言葉は精神的には遭難しているにもかかわらず意図的に軽快な調子を崩したくないためあたかも遭難などまったくしていないかのような無難な語彙の選択でやり過ごしてしまおうとする。
「『あなたたち、せめてお行儀よくしてもいいんじゃないの』、と彼女が言った。『悪さなんかしてねえよ』、とノートルダムが言った。『ああ!あんたそう思ってるの!』彼女は恋の合意を叱責しているようには見られたくなかったし、それを見破ったように見えるのさえいやだった。彼女はつけ加えた、『あんたたち馬鹿騒ぎをせずには一分だっていられないじゃないの』」(ジュネ「花のノートルダム・P.276」河出文庫)
このような会話のやりとりはディヴィーヌをさらに保護者的な位置に押し上げる。ディヴィーヌはますます彼らの傍若無人な乱痴気騒ぎに対して寛容な態度を示すほかなくなる。言語はそういう効果を持つ。しかしディヴィーヌは一人になって誰も見ていないときには嫉妬を隠さないし隠す必要もない。
「彼女自身そうとは気づかずに、なかでもノートルダムの最も醜い写真を壁にピンで留めた。それがどれほどつらいものであるかは周知の肉体的な嫉妬が、今回は、彼女にとって明らかになった。彼女は恐るべき復讐を心のなかで計画し、実行した」(ジュネ「花のノートルダム・P.277」河出文庫)
ディヴィーヌは自分が人間であることから常に自分自身を切り離して生きている。人間に戻るのはほんのときたま何かの間違いにすぎない。キュラフロワ(彼)だった少年時代から一貫していつも世間から排除されてきた以上、戻ろうにも戻れないということもあるが、そもそも人間から隔絶されようと欲した決定的意志の力がそれを許さない。ディヴィーヌは自尊心というものがどういうものであるかをよく知っている。ところが屋根裏部屋でさんざんノートルダムのこれみよがしの性行為に嫉妬しつつ、なぜか世間一般の人々と何ら変わらない同じようなことを想像する。しかもディヴィーヌの場合、それをあろうことか「台所での家事と同時に」実行するのである。ディヴィーヌにとって台所での家事と二人の同居人に対する死刑執行とは同じ一つの動作である。
「彼女は引っ掻き、引き裂き、切断し、ずたずたにし、皮を剥ぎ、硫酸をぶっかけるのだった。『《ふた目と見られないように》手足を切断してやるわ』、と彼女は考えるのだった。紅茶カップを拭いているあいだ、彼女はぞっとするような死刑執行を行なっていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.277」河出文庫)
嫉妬のあまり死刑執行人になること。それはそれで結構な態度かもしれない。しかし無意識的にではあれ、男性同性愛者の女方として死刑執行の場に「台所」を選び、自分のためだけでなく、あの憎たらしいノートルダムとゴルギの「紅茶カップを拭」きながら死刑執行に及んでいるところを見るとかなり年期の入った見上げた変化であると賞賛しないわけにはいかない。しかしそうなるまで測り知れない苦痛に耐え忍んできた三十年の歳月が横たわっている。それを思うと周囲から浴びせかけられる誹謗中傷の雷雨に打たれ慣れて面の皮が厚くなるといったただ単なる世俗的な変化以上に、少年キュラフロワだった頃と変わらぬ繊細この上ない感受性と怪物的想像力を今なお同様の鮮度で保ち続けていることはほとんど脅威であると言わねばならない。この時期の生原稿を実際に見たサルトルやコクトーの驚嘆はいかばかりだったろう。
ーーーーー
さて、アルトー。ペヨトルの抽出物を食して行われる「シグリ」(タラウマラ族の儀式)へと旅する。過酷な日々だ。アルトーが全力を賭して抜け出そうとする「拘束された身体」という有機体はますます拘束の度を加速させて窒息させつつあるように感じられる。
「肉体の支配は、そこで相変わらず続いていた。この私の肉体という災厄ーーー二十八日待った後でも、まだ私は自分自身に復帰していなかった」(アルトー『タラウマラ・P.59』河出文庫)
アルトーにとってキリスト教あるいはヨーロッパという文明の教義に則ってあらかじめ与えられた肉体は「災厄」でしかない。それを言葉に変換しようとすると難解な表現になってしまう。次のように。
「自分自身へと《出てゆく》、というべきか。私のなかへ、この脱臼した寄せ集めのなかへ、この損傷した地質学的断片へ」(アルトー『タラウマラ・P.59』河出文庫)
というのも、キリスト教あるいはヨーロッパという文明の教義の内部には、アルトーの希求する言語がないからである。さらに「断片」という語彙が用いられているけれども、身体は塊で動くのであり、実際は文章にある通り「断片」の「寄せ集め」であり一つの身体としては「ぼろぼろ」の苦痛に苛まれている。それを表明するために必要な言語については、もっとも、文化人類学の歴史的資料が物語っているように、かつてはあったかもしれないし実際にあっただろう。だがそれらはことごとくキリスト教あるいはヨーロッパという文明の教義によって絶滅された。あたかもナチスドイツが絶滅収容所で無数のユダヤ人たちを絶滅させたように。とはいえキリスト教とナチスドイツとを同一視するわけではまったくない。信仰と化したものはどんなものであれ、勢力拡大とともにどこまでも思い上がるという点で両者の同一性あるいは親近性を指摘しておくばかりである。ちなみにフロイトは教会と軍隊との同一性あるいは類似性について述べている。二箇所上げよう。
「ほれこみの現象の中で、最初からわれわれの注意をひいたのは性的な過大評価という現象である。つまりそれは、愛の対象にたいしてある程度批判力を失ってしまって、その対象のすべての性質を、愛していない人物やあるいはその対象を愛していなかった時期に比べて、より高く評価するという事実である。感覚的な追求の抑圧、ないしその制御が少しでも効果があると、対象はその精神的な長所のために、感覚的にも愛されているというような錯覚が起こるが、事実はその反対で、感覚的な魅力がその対象にそんな長所をあたえたのかもしれないのである。
この場合、判断をあやまらせるものは《理想化》の努力である。もしそうだとすると、理論的な見とおしがつけやすくなる。われわれは対象が自分の自我と同じように扱われているために、ほれこみの状態では自己愛的リビドーが大量に対象にそそがれることを認めている。愛の選択の多くの場合に、その対象は自分が到達できない自我理想の代役をしていることさえあるのである。対象が愛されるのは、自分の自我のために獲得しようとつとめた完全さのためであって、この迂り路をへて自分から自己愛の満足のために、この完全さを得たいと願っていたのである。
性的な過大評価とほれこみがさらにすすむと、上記の解釈はますますはっきりしてくる。直接の性的満足をめざす追求は完全に押しこめられるが、それは、たとえば若者の熱狂的な愛にいつも見られるものである。そして、自我はますます無欲で、つつましくなり、対象はますます立派に、高貴なものになる。最後には、対象は自我の自己犠牲が、当然の結果として起こってくる。いわば対象が自我を食いつくしたのである。謙遜と自己愛の制限と自己の損傷、これらの特徴は、どんな場合のほれこみにもつきものなので、極端な場合にも、もっぱらこの特徴がつよめられ、感覚的な要求は後退してしまうために、ただそれだけが支配するようになる。
不幸な、満たされぬ愛の場合とくにそのようになりやすい。というのは、性的満足のたびごとに性的な過大評価は、いつも減じてゆくからである。対象にたいする自我の『献身』と同時にーーーもはやそれは、抽象的理念にたいする昇華された献身と区別されえないがーーー自我理想によって方向づけられていた機能は完全に働かなくなる。自我理想の機能が行使するはずの批判は沈黙し、対象がなすこと欲することは、すべて正当で非難の余地がないものになる。良心は、対象の利益になる一切のものごとには全然適用されなくなる。そのために、愛に目がくらんだ者は犯罪をおかしても悔いをのこさない。このような事態は、すべて、あますところなく次の公式に要約される。すなわち、《対象は自我理想のかわりになったと》」(フロイト「集団心理学と自我の分析」『フロイト著作集6・P.228~229』人文書院)
「少なくとも、これまで考察してきたような集団、すなわち一人の指導者をもち、『組織』の分化によって、個人の特性を二次的に獲得することのない集団については、次の公式があてはまる。《このような一次的な集団とは、同一の対象を自我理想とし、その結果おたがいの自我で同一視し合う個人の集りである》」(フロイト「集団心理学と自我の分析」『フロイト著作集6・P.231』人文書院)
注意したいのは、恐慌状態(社会不安)があって集団が混乱しばらばらになるのではなく、逆に普段なら個々別々に活動している諸個人が想定していなかった恐慌状態(社会不安)に突然襲われるとき、始めて人間の集団化とファシズムを発生させるという点である。ナチスドイツのケースではドイツのおちいった多額の戦後賠償が常に恐慌状態(社会不安)として市民社会を根底から不安に陥れており、その結果としてナチスドイツが出現したという事例に顕著である。逆にナチス党の出現により恐慌状態(社会不安)が発生したわけではないし、もし仮にナチス党のような国粋主義団体が出現したとしてもあれほど大規模化するわけもない。似たような国粋主義団体ならナチスの前にも後にもほかに幾らでもあった。
ーーーーー
なお、恐慌状態(社会不安)とファシズムとの関連で述べておかなければならない。今の日本でいえば新型ウイルス問題に関して報道する側の態度が問題にされねばならない。新型ウイルスによる死者数は増加しているものの、それでもなおアメリカにおける銃による年間死者数三万人を越えているわけではない。十年間でいえば三〇万人がばたばたと死んでいったわけではない。さらにアメリカの場合、死者数のほぼ三分の一は銃による自殺者の割合である。アメリカがいかに病んでいるか。それを思うと日本での新型ウイルス報道は逆に常軌を逸している。人生百年時代といっても健康寿命が百年に達しているとはとてもではないが言えない状態である。むしろ現場はほとんどが要介護者である。にもかかわらずなぜ定年延長などという自己破壊的政策が国策として打ち出されねばならないのだろうか。なぜ一般の市民社会が一生のうちに二度も繰り返し搾取されねばならないのか。日本政府はまったく説明責任を放棄したままなのだが、その理由はなぜなのか。日々長々と報道されている新型ウイルスの動向は第二次世界大戦前のドイツで起こった恐慌状態(社会不安)と似た線を描いていることは周知の通りだ。それは普段なら個々別々に活動している諸個人が想定していなかった恐慌状態(社会不安)に突然襲われるとき、始めて人間の集団化とファシズムを発生させるという点で非常に共通している。なお、テレワークや時差出勤の実施は今なお可能な人々に限って実際にできる取り組みに過ぎない。キャッシュレス化とともに押し進めたいというのならそれなりの機材を全国一律に各世帯向けに無償提供するかそれに相当する社会保障費を提供すべきである。またテレワークは一つの職業形態でしかない。現状ではテレワーク不可能な職種の側がほかに無数にある。キャッシュレス並びにテレワークが国策として打ち出されている現在、その他の職種に対する社会保障とその体系確立をより一層すみやかに明確化すべきが妥当だろう。そしてまた、新型ウイルス報道がいつまで長期化するか知らないが、だからといって、政財官界関係者らがこれまで決算書に適合しない部分をあたかも適合するかのように処理する時間として代理されてはならないし代理すればいずれ発覚する。ベイトソンのいう「土地と地図」との関係のようにどんな情報も常に「1ビット」として変換されデータバンク化されるからだ。とはいうものの、日本ではすでに首相自身の言語がその価値を疑われており、したがって世界の金融市場における日本の信用〔価値〕も動揺している点は動かしようがなくなっている。ヴァレリーの言っていた通りのことが現実のものとなりつつある。
「言語なくして、市場も交換もない。あらゆる交易の第一の道具は言語である。ここでは、かの有名な言葉をあらためて引用することも可能である(ただしその言葉にかなり違った意味付けをすることになるが)。すなわち『はじめに《言葉》ありき』である。『言葉』が交易に先立たなければならなかったのである。
しかし言葉とは私が《精神》と呼んだものを表す厳密な名前の一つに過ぎない。精神と言葉は多くの用例においてはほぼ同義語である。ラテン語訳聖書で『ヴェルブ』と訳されている語は、ギリシア語の《ロゴス》であり、それは同時に《計算》、《推論》、《言葉》、《言説》、《知識》などを意味する語であり、表現という意味もある。
したがって、言葉(ヴェルブ)が精神と同一だと言っても、特段おかしいことを言ったことにはならないと思われる、ーーー言語学的に言っても。
それに、少しでも考えてみれば、あらゆる交流において、まずは会話を始める何かが存在し、交換したい物を指し示し、欲しいものを明示できることが必要である。したがって、感覚と同時に知的理解にも訴える力を持った何かが必要なのだ。そして、その何かこそ、私が一般的な形で《言葉》と呼んだものである」(ヴァレリー「精神の自由」『精神の危機・P.231~232』岩波文庫)
一九三九年発表だが、それから少し経って隣国ナチスドイツが第二次世界大戦を開始したことは余りにも有名。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM1
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「『あなたたち、せめてお行儀よくしてもいいんじゃないの』、と彼女が言った。『悪さなんかしてねえよ』、とノートルダムが言った。『ああ!あんたそう思ってるの!』彼女は恋の合意を叱責しているようには見られたくなかったし、それを見破ったように見えるのさえいやだった。彼女はつけ加えた、『あんたたち馬鹿騒ぎをせずには一分だっていられないじゃないの』」(ジュネ「花のノートルダム・P.276」河出文庫)
このような会話のやりとりはディヴィーヌをさらに保護者的な位置に押し上げる。ディヴィーヌはますます彼らの傍若無人な乱痴気騒ぎに対して寛容な態度を示すほかなくなる。言語はそういう効果を持つ。しかしディヴィーヌは一人になって誰も見ていないときには嫉妬を隠さないし隠す必要もない。
「彼女自身そうとは気づかずに、なかでもノートルダムの最も醜い写真を壁にピンで留めた。それがどれほどつらいものであるかは周知の肉体的な嫉妬が、今回は、彼女にとって明らかになった。彼女は恐るべき復讐を心のなかで計画し、実行した」(ジュネ「花のノートルダム・P.277」河出文庫)
ディヴィーヌは自分が人間であることから常に自分自身を切り離して生きている。人間に戻るのはほんのときたま何かの間違いにすぎない。キュラフロワ(彼)だった少年時代から一貫していつも世間から排除されてきた以上、戻ろうにも戻れないということもあるが、そもそも人間から隔絶されようと欲した決定的意志の力がそれを許さない。ディヴィーヌは自尊心というものがどういうものであるかをよく知っている。ところが屋根裏部屋でさんざんノートルダムのこれみよがしの性行為に嫉妬しつつ、なぜか世間一般の人々と何ら変わらない同じようなことを想像する。しかもディヴィーヌの場合、それをあろうことか「台所での家事と同時に」実行するのである。ディヴィーヌにとって台所での家事と二人の同居人に対する死刑執行とは同じ一つの動作である。
「彼女は引っ掻き、引き裂き、切断し、ずたずたにし、皮を剥ぎ、硫酸をぶっかけるのだった。『《ふた目と見られないように》手足を切断してやるわ』、と彼女は考えるのだった。紅茶カップを拭いているあいだ、彼女はぞっとするような死刑執行を行なっていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.277」河出文庫)
嫉妬のあまり死刑執行人になること。それはそれで結構な態度かもしれない。しかし無意識的にではあれ、男性同性愛者の女方として死刑執行の場に「台所」を選び、自分のためだけでなく、あの憎たらしいノートルダムとゴルギの「紅茶カップを拭」きながら死刑執行に及んでいるところを見るとかなり年期の入った見上げた変化であると賞賛しないわけにはいかない。しかしそうなるまで測り知れない苦痛に耐え忍んできた三十年の歳月が横たわっている。それを思うと周囲から浴びせかけられる誹謗中傷の雷雨に打たれ慣れて面の皮が厚くなるといったただ単なる世俗的な変化以上に、少年キュラフロワだった頃と変わらぬ繊細この上ない感受性と怪物的想像力を今なお同様の鮮度で保ち続けていることはほとんど脅威であると言わねばならない。この時期の生原稿を実際に見たサルトルやコクトーの驚嘆はいかばかりだったろう。
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さて、アルトー。ペヨトルの抽出物を食して行われる「シグリ」(タラウマラ族の儀式)へと旅する。過酷な日々だ。アルトーが全力を賭して抜け出そうとする「拘束された身体」という有機体はますます拘束の度を加速させて窒息させつつあるように感じられる。
「肉体の支配は、そこで相変わらず続いていた。この私の肉体という災厄ーーー二十八日待った後でも、まだ私は自分自身に復帰していなかった」(アルトー『タラウマラ・P.59』河出文庫)
アルトーにとってキリスト教あるいはヨーロッパという文明の教義に則ってあらかじめ与えられた肉体は「災厄」でしかない。それを言葉に変換しようとすると難解な表現になってしまう。次のように。
「自分自身へと《出てゆく》、というべきか。私のなかへ、この脱臼した寄せ集めのなかへ、この損傷した地質学的断片へ」(アルトー『タラウマラ・P.59』河出文庫)
というのも、キリスト教あるいはヨーロッパという文明の教義の内部には、アルトーの希求する言語がないからである。さらに「断片」という語彙が用いられているけれども、身体は塊で動くのであり、実際は文章にある通り「断片」の「寄せ集め」であり一つの身体としては「ぼろぼろ」の苦痛に苛まれている。それを表明するために必要な言語については、もっとも、文化人類学の歴史的資料が物語っているように、かつてはあったかもしれないし実際にあっただろう。だがそれらはことごとくキリスト教あるいはヨーロッパという文明の教義によって絶滅された。あたかもナチスドイツが絶滅収容所で無数のユダヤ人たちを絶滅させたように。とはいえキリスト教とナチスドイツとを同一視するわけではまったくない。信仰と化したものはどんなものであれ、勢力拡大とともにどこまでも思い上がるという点で両者の同一性あるいは親近性を指摘しておくばかりである。ちなみにフロイトは教会と軍隊との同一性あるいは類似性について述べている。二箇所上げよう。
「ほれこみの現象の中で、最初からわれわれの注意をひいたのは性的な過大評価という現象である。つまりそれは、愛の対象にたいしてある程度批判力を失ってしまって、その対象のすべての性質を、愛していない人物やあるいはその対象を愛していなかった時期に比べて、より高く評価するという事実である。感覚的な追求の抑圧、ないしその制御が少しでも効果があると、対象はその精神的な長所のために、感覚的にも愛されているというような錯覚が起こるが、事実はその反対で、感覚的な魅力がその対象にそんな長所をあたえたのかもしれないのである。
この場合、判断をあやまらせるものは《理想化》の努力である。もしそうだとすると、理論的な見とおしがつけやすくなる。われわれは対象が自分の自我と同じように扱われているために、ほれこみの状態では自己愛的リビドーが大量に対象にそそがれることを認めている。愛の選択の多くの場合に、その対象は自分が到達できない自我理想の代役をしていることさえあるのである。対象が愛されるのは、自分の自我のために獲得しようとつとめた完全さのためであって、この迂り路をへて自分から自己愛の満足のために、この完全さを得たいと願っていたのである。
性的な過大評価とほれこみがさらにすすむと、上記の解釈はますますはっきりしてくる。直接の性的満足をめざす追求は完全に押しこめられるが、それは、たとえば若者の熱狂的な愛にいつも見られるものである。そして、自我はますます無欲で、つつましくなり、対象はますます立派に、高貴なものになる。最後には、対象は自我の自己犠牲が、当然の結果として起こってくる。いわば対象が自我を食いつくしたのである。謙遜と自己愛の制限と自己の損傷、これらの特徴は、どんな場合のほれこみにもつきものなので、極端な場合にも、もっぱらこの特徴がつよめられ、感覚的な要求は後退してしまうために、ただそれだけが支配するようになる。
不幸な、満たされぬ愛の場合とくにそのようになりやすい。というのは、性的満足のたびごとに性的な過大評価は、いつも減じてゆくからである。対象にたいする自我の『献身』と同時にーーーもはやそれは、抽象的理念にたいする昇華された献身と区別されえないがーーー自我理想によって方向づけられていた機能は完全に働かなくなる。自我理想の機能が行使するはずの批判は沈黙し、対象がなすこと欲することは、すべて正当で非難の余地がないものになる。良心は、対象の利益になる一切のものごとには全然適用されなくなる。そのために、愛に目がくらんだ者は犯罪をおかしても悔いをのこさない。このような事態は、すべて、あますところなく次の公式に要約される。すなわち、《対象は自我理想のかわりになったと》」(フロイト「集団心理学と自我の分析」『フロイト著作集6・P.228~229』人文書院)
「少なくとも、これまで考察してきたような集団、すなわち一人の指導者をもち、『組織』の分化によって、個人の特性を二次的に獲得することのない集団については、次の公式があてはまる。《このような一次的な集団とは、同一の対象を自我理想とし、その結果おたがいの自我で同一視し合う個人の集りである》」(フロイト「集団心理学と自我の分析」『フロイト著作集6・P.231』人文書院)
注意したいのは、恐慌状態(社会不安)があって集団が混乱しばらばらになるのではなく、逆に普段なら個々別々に活動している諸個人が想定していなかった恐慌状態(社会不安)に突然襲われるとき、始めて人間の集団化とファシズムを発生させるという点である。ナチスドイツのケースではドイツのおちいった多額の戦後賠償が常に恐慌状態(社会不安)として市民社会を根底から不安に陥れており、その結果としてナチスドイツが出現したという事例に顕著である。逆にナチス党の出現により恐慌状態(社会不安)が発生したわけではないし、もし仮にナチス党のような国粋主義団体が出現したとしてもあれほど大規模化するわけもない。似たような国粋主義団体ならナチスの前にも後にもほかに幾らでもあった。
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なお、恐慌状態(社会不安)とファシズムとの関連で述べておかなければならない。今の日本でいえば新型ウイルス問題に関して報道する側の態度が問題にされねばならない。新型ウイルスによる死者数は増加しているものの、それでもなおアメリカにおける銃による年間死者数三万人を越えているわけではない。十年間でいえば三〇万人がばたばたと死んでいったわけではない。さらにアメリカの場合、死者数のほぼ三分の一は銃による自殺者の割合である。アメリカがいかに病んでいるか。それを思うと日本での新型ウイルス報道は逆に常軌を逸している。人生百年時代といっても健康寿命が百年に達しているとはとてもではないが言えない状態である。むしろ現場はほとんどが要介護者である。にもかかわらずなぜ定年延長などという自己破壊的政策が国策として打ち出されねばならないのだろうか。なぜ一般の市民社会が一生のうちに二度も繰り返し搾取されねばならないのか。日本政府はまったく説明責任を放棄したままなのだが、その理由はなぜなのか。日々長々と報道されている新型ウイルスの動向は第二次世界大戦前のドイツで起こった恐慌状態(社会不安)と似た線を描いていることは周知の通りだ。それは普段なら個々別々に活動している諸個人が想定していなかった恐慌状態(社会不安)に突然襲われるとき、始めて人間の集団化とファシズムを発生させるという点で非常に共通している。なお、テレワークや時差出勤の実施は今なお可能な人々に限って実際にできる取り組みに過ぎない。キャッシュレス化とともに押し進めたいというのならそれなりの機材を全国一律に各世帯向けに無償提供するかそれに相当する社会保障費を提供すべきである。またテレワークは一つの職業形態でしかない。現状ではテレワーク不可能な職種の側がほかに無数にある。キャッシュレス並びにテレワークが国策として打ち出されている現在、その他の職種に対する社会保障とその体系確立をより一層すみやかに明確化すべきが妥当だろう。そしてまた、新型ウイルス報道がいつまで長期化するか知らないが、だからといって、政財官界関係者らがこれまで決算書に適合しない部分をあたかも適合するかのように処理する時間として代理されてはならないし代理すればいずれ発覚する。ベイトソンのいう「土地と地図」との関係のようにどんな情報も常に「1ビット」として変換されデータバンク化されるからだ。とはいうものの、日本ではすでに首相自身の言語がその価値を疑われており、したがって世界の金融市場における日本の信用〔価値〕も動揺している点は動かしようがなくなっている。ヴァレリーの言っていた通りのことが現実のものとなりつつある。
「言語なくして、市場も交換もない。あらゆる交易の第一の道具は言語である。ここでは、かの有名な言葉をあらためて引用することも可能である(ただしその言葉にかなり違った意味付けをすることになるが)。すなわち『はじめに《言葉》ありき』である。『言葉』が交易に先立たなければならなかったのである。
しかし言葉とは私が《精神》と呼んだものを表す厳密な名前の一つに過ぎない。精神と言葉は多くの用例においてはほぼ同義語である。ラテン語訳聖書で『ヴェルブ』と訳されている語は、ギリシア語の《ロゴス》であり、それは同時に《計算》、《推論》、《言葉》、《言説》、《知識》などを意味する語であり、表現という意味もある。
したがって、言葉(ヴェルブ)が精神と同一だと言っても、特段おかしいことを言ったことにはならないと思われる、ーーー言語学的に言っても。
それに、少しでも考えてみれば、あらゆる交流において、まずは会話を始める何かが存在し、交換したい物を指し示し、欲しいものを明示できることが必要である。したがって、感覚と同時に知的理解にも訴える力を持った何かが必要なのだ。そして、その何かこそ、私が一般的な形で《言葉》と呼んだものである」(ヴァレリー「精神の自由」『精神の危機・P.231~232』岩波文庫)
一九三九年発表だが、それから少し経って隣国ナチスドイツが第二次世界大戦を開始したことは余りにも有名。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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