白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

延長される民主主義1

2020年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュネ作品について述べたあと、振り返ってみると、当初の予定が大幅に延長されていたことに気づく。なぜかはわからない。或ることに一旦触れればまた別の或ることについても触れていかないわけにはいかなくなる。だからその種の小説は底なしかというと必ずしもそうだとは限らない。作品という死物。それは読者に委ねられるやいなや書くことへ転化するし転化しないわけにはいかない。その不可避的事情を利用して読者は改めて書くのである。他方、アルトーについてはまだ少し残したままなのだが、とはいっても述べたいとおもう部分は多かれ少なかれ、もう補遺として考えられる箇所を残すばかりになった。

「私はもう、うんざりしながら、私が生きる理由を探しており、自らの身体をたずさえるという義務を放棄していた」(アルトー『タラウマラ・P.147』河出文庫)

脱有機体への旅。あらかじめ与えられた身体の放棄あるいは脱出。アルトーの文章はタラウマラ族の地を訪れた際に彼らと共に経験することができた諸々の出来事の報告に見える。しかしこの場合、報告は詩としてしか述べることができない。ペヨトル摂取が人間の精神をどのように変容させるかはすでに研究され尽くされており大量の報告書が提出されている。だがアルトーによってもたらされた文章が常に新しいのはどうしてだろう。

「私はやっと理解したのだ。私は生をでっち上げており、それが私の役割であり私の存在理由であったということ。また自分がもはや想像力を持たないときには、うんざりしていたこと。そしてペヨトルは私にそれを与えたのである」(アルトー『タラウマラ・P.147』河出文庫)

ただ単なる意識変容というレベルではすでにLSD発見によって頂点は極められた。しかしLSDの効果はただそれだけのことであって植物として語るわけではない。LSD摂取者はLSD摂取者として語ることができるばかりだ。植物として語ることとはまた違っている。アルトーはペヨトル摂取後、経験者として、人間の生について「私は生をでっち上げて」いるに過ぎなかったと語る。何らかの幻覚を出現させるドラッグを摂取した人々はほぼ例外なく一様にそう語る。目に見えている身体とそうでない精神との解離が他者の幻影を巻き込みつつ周辺環境全体として流動しながら変容する。それはペヨトル摂取以前に信じ込んでいた有機体としての世界がいかに「でっち上げられた」ものでしかなかったかを逆に信じ込むほかない意識変容状態に連れ去る。タラウマラ族は西シエラマドレ山脈に残っていた少数民族であり古代の生活様式を比較的多く保存していたがゆえに様々な立場から論じられ、事実上解体されたに等しい。資本主義に取り憑かれた人間は限度を忘れて<他者>が持つ遺産を徹底的に破壊してしまう。過去のものへと葬り去ってしまう。その意味で<他者>の遺産を研究することと破壊することとはいつも同じ一つの動作である。しかし最も注意深いペヨトル経験者は一様に語る。資本主義の脱コード化の運動とペヨトルによってもたらされる意識変容状態はあたかもどちらが「真実」なのかわからないほどよく似ていると。ただ、決定的に違うといえることがあり、それはどういうことかというと、資本主義的脱コード化の運動はペヨトル摂取の効果と比較するとバッドトリップというに等しく、けれども、ペヨトルの効果が終了すればいずれ帰ってこなければならないバッドトリップという現実が資本主義社会なのだと。言い換えれば人間の身体は資本主義というバッドトリップによって支配された生活様式の世界へ戻らなくてはならないと同時にペヨトルによってもたらされる世界、ニーチェの言葉を借りれば「別様の感じ方」を経験させる世界もまた「真実」だという意味で両者は《等価である》と言わなければならないという疑えない事実であるというわけだ。とすれば後のことを決めるのは人間ではなく、資本主義にとってどちらが有利か、という利子増殖を自己目的とする条件がすべてを決定するということになってくる。だから逆説が生まれた。

資本主義は資本主義に隷属する人間を通して国家を樹立させペヨトルを取り上げた一方で、徐々に、しかし着々と、アッパー系の薬物、具体例の一つとしてアメリカのような新自由主義一辺倒社会ではコカインの闇ルートが半ば公然と創設された。アメリカが世界一の経済大国でいるためには圧倒的な量のコカインが必要とされた。しかし闇ルートでは確実な税収に繋がらない。あくまでもコカインがもたらす労働量の増大を通して達成された利潤から改めてトップダウンという形式へ転倒させてすべての利潤を合法的に資本還元させる必要性が生じてきた。ところがそのために労働現場では故障者が続出し出した。コカイン以外にも様々なドラッグが開発され市場を流通するようになった。こうして経済大国としてのアメリカとメンタルヘルス大国としてのアメリカという二つのアメリカが存在するという事実を認めないわけにはいかなくなってしまった。タラウマラ族もまた古代から何度もオーバードーズによる失敗者を出してきた経験の上に立ってその使用法に関し儀式化を採用することで新しい身体を年に一度与え直す方法を開発していたのである。

タラウマラ族は「ノアの大洪水」以前からの上級使用者として語る。だが後からやって来た資本主義近代社会は資本の常として疑似的ペヨトルを大量生産し商品として引きずり出し現金化する。資本主義は一方で奪い他方で販売しさらに調整弁として国家を動かし社会復帰過程を創設し一人の人間から可能なかぎり搾取することしか知らない。人生百年時代の内実とはいったいなんだろうか。それは合法的医薬開発を含むドラッグカルチャーから生まれた。そしてその同じ合法的ドラッグカルチャーが大半の労働者にとって延命装置として作用するのなら、その限りで、わざわざ発明された搾取反復装置の別名あるいは本名でしかない。「ノアの大洪水以前」という言葉はしばしば用いられる手垢まみれの評論家用語でしかなくなってしまったが、少なくとも日本では小林秀雄がマルクス=エンゲルスから引用したことで奇妙な形で流通するようになった。今はまだその部分を改めて見ておくに留めておくことにしよう。ちなみに小林秀雄はもちろんだがその後の世代にあたる太宰治や檀一雄らはみんな、阿片系薬物の常習者である。阿片の効果は両義的だ。本来的には精神を落ち着けるダウナー系薬物として用いられていたし今でも主流はそうである。だが資本主義の加速化とともにダウナーの面が削ぎ落とされアッパー系効果が求められるようになってきた。そのような社会的要請に関し阿片抽出物(モルヒネ、ヘロイン、コデイン)では間に合わない。だから直接的にアッパー系薬物として作用するアンフェタミン、メタンフェタミンといった覚醒系合成薬物が市場で優位を獲得することになった。しかしこれまた大量の故障者を続出させてしまうという事態で国家は困惑した。社会福祉分野の支出ばかりがうなぎ上りにかさんでくる。労働者は労働のための覚醒剤使用から覚醒剤使用のための労働賃金獲得へと次々に転倒していく。同じ種類のドラッグが一方から他方の用途へ変化するわけではない。公理系創設以前の資本主義的生産様式が当初は想定されていなかった他方の用途への使用を自分の手で不可避的に招き込むのである。しかし増殖するばかりのその流れは二度にわたる原爆投下によっていったん終止符を打たれた。以下はほんの僅かだが小林秀雄が引用した部分。

「カテゴリーとしては、交換価値はノアの洪水以前からある。だから意識にとっては、ーーーしかも哲学的意識は、概念する思考が実際の人間であり、したがって概念された世界そのものこそがはじめて実際の世界である、というように規定されている、ーーー諸カテゴリーの運動が実際の生産行為ーーー残念ながらそれは刺戟だけは外部からうけるーーーとしてあらわれ、その結果が世界なのである、そしてこのことは、ーーーこれもまた同義反復ではあるがーーー具体的な総体が、思考された総体として、ひとつの思考された具体物として、in fact《事実上》思考の、概念作用の産物であるかぎりでは正しい、しかしそれは、けっして直観と表象とのそとで、あるいはまたそれらをこえて思考して自分自身をうみだす概念の産物ではなくて、直観と表象とを概念へ加工することの産物なのである。あたまのなかに思考された全体としてあらわれる全体は、思考するあたまの産物である、そしてこのあたまは自分だけにできる仕方で世界をわがものにするが、その仕方は、この世界を芸術的に、宗教的に、実践的・精神的にわがものにする仕方とはちがうひとつの仕方である。現実の主体は、いままでどおりあたまのそとがわに、その自立性をたもちつつ存在しつづける、つまり、あたまがただ思弁的にだけ、ただ理論的にだけふるまうかぎり、そうなるのである。だから理論的方法においてもまた、主体が、社会が、いつも前提として表象に浮かべられていなければならない」(マルクス「経済学批判序説」『経済学批判・P.311~314』岩波文庫)

小林が問題としているのは言語である。一方にマルクスを、他方にドストエフスキーを置いて、両者を共に「言語という問い」に対する二種類の「達人」として述べた差し当たっての結論として。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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ちなみに今回のBGMは選曲にあたって新自由主義が自然界に対して地球規模でどれほどのダメージを与えているかを人間の身体を用いて実験的に表現して見せた楽曲も盛り込んだ。その楽曲の仕上がりは相変わらず稚拙なレベルでしかないとはいえ、さらに実験的にしか行われ得ない資本主義という極めて不自由な条件の縛りがあるわけだが、少なくともまったく考えないより少しは考えている人々がいるということが救いといえば言えるかもしれない。しかしなお、一度視聴すればもうわかってしまうといった消費社会の底辺をさまようほかない現実社会が病的社会としてどのレベルの深さまで浸透しているか、その一端には触れているとおもわれる。地域紛争を一時中止させて更地化し再土地化し不動産商品として転売する空爆は目に見える空爆である。だが地球環境への空爆はそれとは違っている。顕著な違いとしてそれは、徐々に、けれどもそのぶん確実に行われるし実際に行われてきた。地球は自分で「痛い」とか「傷ついた」とか「リンチされた」とか、けっして言わない。しかし無謀な暴力的問いに対する答えは必ず出すのである。なお、それが暴力的かどうかという答えは事後的にしか理解できないものであり、人間が地球環境に与えた行為が自然循環の処理能力を越えてのさばった証拠として常に後から暴力として出現してくるほかないという不可逆的事情による。

BGM1

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