白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

延長される民主主義10

2020年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム
ゴッホ、ニーチェ、アルトーという名はただ単なる名前であるというだけではない。そうではなく、社会的な或る重大な《問題の場としての身体》として、社会的な或る重大な《問題の場としての身体》であることを自ら引き受けた人々の名なのだ。

「精神病者とは、同じく社会が耳を貸そうとしなかった人間、そして耐え難い真実を表明するのを社会が妨げようとしたひとりの人間でもある」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.115』河出文庫)

ゴッホは何か暴力を振るっただろうか。振るってなどいない。事情は逆であって、社会の側が、社会規範の名において、ゴッホの精神に暴力を振い続けてきたのである。この種の社会的暴力というのはたいへん目に見えにくいものであり、そのぶんより一層狡猾に立ち働く。ゴッホは一旦精神病院に入院するが、入退院を繰り返すに等しい生活環境に置かれる。監禁されても絵画を描くことは自由だ。ところがゴッホは《絵画において》ゴッホ自身を実現しようとする。絵画は社会規範を知らない。しかし社会規範の側はゴッホの絵画でなくゴッホという人間に問題があるに違いないと勘違いしている。勘違いが完了するやいなや「叩きつぶすつもりなのである」。

「この場合、監禁は社会の唯一の武器ではないし、合議による人間たちの集まりは、諸々の意志に打ち勝つための他の手段をもっていて、それはこれらの意志を叩きつぶすつもりなのである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.115』河出文庫)

絵画はゴッホの作品であって絵画を刑罰に処することはできない。犯罪を裁くのではなく犯罪者を裁く司法の論理と同じことが延々と繰り返されるばかりだ。絵画というものは見えるなのだが見えるものとして出現すると同時に問題は発生する。特に混み入った事情があるわけではない。

「《ἐσθλός》(エストロス)という語は語根から言えば、《存在する者》、実在性をもつ者、現実的な者、真実な者を意味する。やがて主観的転意によって、『真実な者』は『誠実な者』を意味するようになる。概念変化のこの位相において、この語は貴族の合言葉となり、『高貴な』という意味にすっかり移行し、テヘオグニスが取り上げて描いているような《嘘つき》で卑俗な者からの区別を示すためのものとなる。ーーーそれで結局この語は、貴族の没落以後は、単に精神的な《高貴性》(ノブレス)を表示するものとして残り、いわば熟して甘くなってしまった。ーーー《δειλός》(デイロス=臆病な)という語は《ἀγαθός》(アガトス=よい、優れた)に対立する平民を指す」(ニーチェ「道徳の系譜・P.27」岩波文庫)

今や古代ギリシア時代の貴族はどこをどう探してみても見あたらない。資本主義によって絶滅させられてしまった。資本主義特有の顕著な傾向として邪魔なものは容赦なく消していくという運動の反復がある。邪魔なものを消していこうとするわけだが、邪魔なものは差し当たり目に見えない。だから邪魔なものではなく邪魔者を消していく。と同時に目に見えない次元で作用している社会的文法を書き換える。

「わけても軽視してならないのは、犯罪者は裁判上および行刑上の処置そのものを見るというまさにそのことのために、自分の行為、自分の行状を《それ自体において》非難さるべきものと感じることをいかに妨げられるかということだ。というわけは、犯罪者は、それと全く同一の行状が正義のために行なわれ、そしてその場合は『よい』と呼ばれ、何らの疚(やま)しさを感じることもなく行われているのを見るからである。つまり彼は、探偵・奸策・買収・陥穽など、警官や検事側の弄する狡猾老獪な手管の全体、それからまた諸種の刑罰のうちに際立って示されているような、感情によっては恕(ゆる)されないが原則としては認められる褫奪・圧制・凌辱・監禁・拷問・殺害など、ーーーこれらすべての行為を、彼の裁判者たちは決して《それ自体において》非難され処罰さるべき行為としては行なわず、むしろ単にある種の顧慮から利用しているのを見るからである」(ニーチェ「道徳の系譜・P.95」岩波文庫)

では絵画の場合、ゴッホは自殺したにもかかわらず、今なお誰が語っているのか。あるいは何が。

「ニーチェにとって問題は、善と悪がそれじたい何であるかではなく、自身を指示するため《アガトス》、他者を指示するため《デイロス》と言うとき、だれが指示されているか、というよりはむしろ、《だれが語っているのか》、知ることであった。なぜなら、言語(ランガージュ)全体が集合するのは、まさしくそこ、言説(ディスクール)を《する》者、より深い意味において、言葉(パロール)を《保持する》者のなかにおいてだからだ。だれが語るのか?というこのニーチェの問いにたいして、マラルメは、語るのは、その孤独、その束の間のおののき、その無のなかにおける語そのものーーー語の意味ではなく、その謎めいた心もとない存在だ、と述べることによって答え、みずからの答えを繰り返すことを止めようとはしない。ーーーマラルメは、言説(ディスクール)がそれ自体で綴られていくような<書物>の純粋な儀式のなかに、執行者としてしかもはや姿を見せようとは望まぬほど、おのれ固有の言語(ランガージュ)から自分自身をたえず抹殺しつづけたのである」(フーコー「言葉と物・P.324~325」新潮社)

フーコーの著作は膨大な量にのぼる。とはいえ、ニーチェの数行からヒントを得ることで始めて可能になった発見だったといえる。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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